『ずっと隣で』
「もうええわ! どうもありがとうございました」
まばらな拍手に追い立てられるように、舞台袖の狭い階段を下りる。
舞台を下りた俺と相方の間に会話はない。控室まで無言の時間が続く。
「あ、おつかれっす」
控室に戻ると、出番を待つ芸人の視線がパラパラとこちらに向く。後輩の形ばかりの挨拶に俺は「うっす」と軽く顎を引いた。
大部屋の芸人たちの中で、俺達はもう中堅近くの立ち位置となった。後輩でも、売れれば個室があてがわれていく。シビアな世界だ。
芸歴が長いからと言って、もれなく後輩たちから尊敬されるというわけでもない。面白いか、面白くないか。それは舞台上だけでなく、舞台を下りて、生身の人間としての生き方にも求められる。
つまり俺達は彼らにとって、舞台の上でも下でも面白くない先輩だということだ。
相方であるアツムとは大学で入った漫才サークルで出会った。
学年でいうと1つ下だったが、アツムは1浪していたため年は俺と同じで、なんだかんだとすぐに意気投合した。
アツムの考えたネタを初めて聞かせてもらった時、コイツは天才なんじゃないか俺は本気で思った。
漫才を見たり真似したりするのは好きで、漫才師として売れることを夢見る俺だったが、ネタ作りの方はからっきしだめだった。だからアツムにネタ作りに才能があると分かった時には、大きく胸が高鳴った。
「一緒にやらないか」
心の準備に数日を費やした俺は、一応の先輩としての、それに一友人としての見栄もプライドもすべて捨ててアツムにそう声をかけた。
しばらく沈黙があった後、考え込むように口を開いた。
「お前とまったく同じことを、ついこの間先輩にも言われたよ」
思ってもみなかった言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「……そっちと、組むのか?」
掠れた声で尋ねた。アツムの目は見られなかった。
「時間をくれ」
アツムはそう一言言い残してその場を立ち去ると、それからしばらくサークルに顔を出さなくなった。
そんなアツムが久しぶりに顔を見せたのは、アツムを相方に誘った日から1ヶ月ほどが過ぎた時だった。
「なぁ! ついに出来たぞ!」
アツムが脇目も振らず大声でそう言いながら、まっすぐに俺の元へやってくる。
「出来たって、何が!?」
「何がじゃないだろ? ネタだよネタ! 俺とお前がする初めての漫才のネタ!」
「な、それってつまり、俺と組むってことか?」
「何言ってんだよ今さら。この1ヶ月、何のために頭を捻りに捻ってネタを考えてきたと思ってんだ」
後から分かったことだが、あの時の「時間をくれ」というのは俺とコンビを組むかどうかを考えるためではなく、俺とやるネタを考えるための時間だったらしい。
「まあそんなことはどうでもいい。とりあえず早く読んで感想聞かせてくれ」
俺達コンビの初舞台は──大成功だった。
俺が左で、アツムが右。その方が何かしっくりくるからとアツムが言い、俺も同意した。
テンポよく進む会話に、あちこちから笑い声が上がった。終わった時の盛大な拍手と客席のざわめきは、今でも忘れられない。後にも先にも、あんなに興奮する舞台はなかった。
「俺達、これからもやってけるだろうか」
舞台から下り、興奮が少し落ち着いた時俺はぽつりと呟いた。
「やるに決まってんだろ。まだ始まったばかりじゃないか」
大学を卒業した俺は、バイトをしながら劇場で漫才をさせてもらう日々を続けた。そしえ、アツムも実家の農場を手伝いながら漫才に明け暮れた。
周りの就職していったやつらのことが気にならなかったと言ったら嘘になる。だがそれでも、夢を追いかけ続けることに大きな誇りを持っていた。
「いつか絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」
何度そのやり取りをしただろうか。
だがいつからか、お互いにそう口に出すこともなくなった。
思うようにお客さんを笑わせられないし、場の空気が掴めない。そんなだから、ネタを作る方もいろんな方向に迷走した。
衝突するたびに「だったらお前がネタ書けよ」と言われると、それ以上何も言い返せなかった。
ただ、俺の中で、アツムのネタで売れたいという気持ちは揺るがなかった。舞台の上で、他の誰かの横に立っている自分が想像できなかった。俺の右側にはアツム以外考えられなかった。
そう思っているのは俺だけじゃないと思っていたのに。信じていたのに。──現実は違っていた。
劇場からの帰り道、突然のことだった。
「この辺で終わりにしないか」
「──え……」
「終わり」という言葉が頭の中で反芻する。
「もう潮時だと思うんだ。この辺で夢はきっぱり諦めて、実家に戻って農家にでもなろうと思う」
俺は言葉を失った。
正直、いつかそう言われる日が来るかもしれないと考えることはこれまでにもあった。ただ、その"いつか"が"今"だとは少しも想像していなかった。
重たい沈黙が、暗い夜道に更なる影を落とす。
そんな沈黙を破ったのはアツムだった。
「お前は、俺のネタじゃなくてもやってける。だから、他の──俺よりもっと面白いやつと組んだ方がいい」
「何言ってんだよ!」
考えるより先にそう言っていた。
「お前の他にいるわけないじゃないか! 俺の隣はこれまでも、これからも、お前しかいないんだよ!」
驚いたように口を開けてこっちを見るアツムの表情で気がついた。俺は泣いていた。そして、そのまま泣き叫ぶように続ける。
「ああいいよ! 分かったさ! お前が辞めるなら俺も辞めるよ!」
そう叫び残して俺は早足で歩き始める。そんな俺の背中に後ろから声が飛んでくる。
「お前には……お前には! 漫才でてっぺんとるって夢があるだろ!」
アツムがこっちに走り寄って、俺の肩を掴んだ。
「俺の分まで、その夢叶えてくれよ……」
アツムの声が滲む。
「俺の夢は、そんなんじゃない。お前がいない漫才なんて楽しくないし、お前が隣にいないなんて想像できないし、俺はアツムの隣でずっと漫才がしてたいんだよ!」
普段なら気恥ずかしく決して口に出せない言葉が、感情に任せて口から出た。
「──このままずっと売れなくてもか?」
俺の肩を掴むアツムの手に、さらに力がこもる。
「……いやまあ、そりゃ売れるに越したことはないけどもな」
俺がそう言うとアツムが笑った。そんなアツムを見て俺も吹き出した。
「俺達、まだやっていけると思うか」
ふと笑顔が消えたアツムがそう呟いた。
あの時──初舞台が終わった後、俺がアツムに聞いた言葉が重なる。
体中からかき集めたありったけの自信をこめて、俺は答える。
「やるに決まってんだろ。まだ終わってたまるもんか」
「やるからには絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」
『もっと知りたい』
あれは、中学2年生の春のことだ。
平年より開花が遅れたせいで、その年の始業式の日にはまだ桜が残っていた。
クラス替えに浮足立った生徒もそのほとんどが席についた頃に彼女は現れた。窓際の席に座った僕が、何気なく窓の外で散っていく桜の花びらを見ていた時のことだった。
校門の前で立ち止まっている女子がいるかと思った後、彼女はその大量に舞う花びらの中を、淡々と校舎に向かい進んでいった。
背中まである長い髪を風になびかせ、制服は模範通りに着こなしていて、そこから伸びる手足は午前の光に照らされ透き通るほどに美しかった。
彼女は誰だろうか。何年のどのクラスの生徒だろうか。
彼女が校舎に入っていくのを見送りながら、僕はそう考えていた。そう考えるほどに、僕はすでにその時から彼女に興味を惹かれていたのだろう。
叶うならば──と願ったことが、信じられないが現実的となった。
「今から転校生を紹介します」
先生のその言葉にざわめいていた教室が、彼女がドアを開けた瞬間、一斉に静まった。そして、まるで時が止まったかのようにみんなの動きが止まる。
「今年からうちの中学に転校してきた和田さんです。自己紹介をお願いできる? 名前と一言だけで構わないから」
先生の方を小さく一瞥した彼女はすぐにみんなの方に向き直り、本当に名前とただ一言だけを発した。
「和田杏(わだ あん)です。よろしくお願いします」
彼女の発した声が静かな空気を伝い、小さな振動となって耳まで届いた。
感情の起伏のない淡々とした口調。感情の見えない表情。
だが僕の彼女への印象は、決して悪いものではなかった。むしろ、そんな態度に彼女の芯の強さを感じてすらいたかもしれない。
彼女は、休み時間に女子たちから矢継ぎ早に投げられる質問のすべてに素っ気なく返し、男子たちから向けられる様々な視線はすべて彼女に届く手前で折れてしまうようだった。かく言う僕の視線もそうだ。
彼女が現れてからひと月が経った頃。彼女のまわりの人だかりは早々になくなっていて、彼女は一人にしておかなければならない、という暗黙の空気が教室には流れていた。
とうの彼女自身もそれを気にする素振りはなく、休み時間になると彼女はいつも1人でどこかに行ってしまった。
ある日の昼休み。彼女は一体、いつもどこに行っているのだろうかとどうしても気になった僕は、こっそりと彼女の後をつけた。
彼女は階段を最上階まで上り、ひと気のない踊り場の錆びかけたドアノブに手をかけた。
その先にあるのは屋上だ。それも立入禁止のはずの。
ドアの向こうに消えた彼女を追って、僕も取っ手に手を伸ばす。心臓の音が耳のすぐそばで大きく鳴り、指先が緊張で強張った。
小さく息をついた僕は、そっと扉を引いた。
一瞬、外の眩しさに目を細める。そして、ゆっくり目を開けると、視界の奥に何かを手に持った彼女の後ろ姿があった。
彼女がゆっくりと、その何かを口元に構える。
あれがフルートという楽器だったことは、後から知った。
美しくて、でもまっすぐな音。まさに彼女のようだった。
演奏の間その場に立ち尽くしていた僕を、彼女が振り返る。そして、少しだけ目を大きくした。
僕は慌てて話し出す。
「あの……ごめんね。その、いつも何してるのか気になったから……」
咄嗟に謝った僕の言葉と少し間が空いてから、彼女の声がした。
「ここ、練習するのにいいの。誰も来ないし、静かだから」
「えっと、そうなんだ……」
次につなげる言葉を探す。
「その楽器は何?」
「音楽が好きなの?」
「ここに入って怒られないの……?」
ただ、僕はそのどれもを飲み込んだ。また、彼女の音が聴こえたから。
一人にしてと言われるかと思ったが、彼女は何も言わなかった。だから僕はその瞬間、彼女のたった一人の観客になった。
彼女の演奏が終わった時、僕は彼女に小さく、だけど気持ちを込めて拍手を送った。そして、やっと尋ねた。
「その曲、なんていうの?」
僕の質問に、彼女がほんの少しだけ微笑んだ──気がした。それは初めて見る彼女の感情だった。
その瞬間に僕は思ったのだ。
もっと、もっと。彼女のことを知りたいと。
『平穏な日常』
「ふわぁあ。今日も早いね」
紅太(こうた)がリビングに入ると、部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がっていた。
「早いってもう10時なんだが。紅太が遅いんだよ」
そう言いながらじっくりとコーヒーを淹れているのは、濃紺のエプロンを身に着けた青夜(せいや)だ。
「だってさ、仕事がない間はすることもないし、早く起きるよりいっぱい寝たほうがいいじゃん。ほら、寝る子は育つって言うでしょ?」
紅太はそうのんびりな口調で言うと、目をこすりながらダイニングテーブルにゆっくりと腰を下ろした。
「寝る子って……あのなぁ」
呆れたよう小さくため息をついたものの、「紅太もコーヒー飲むか?」とさりげなく勧める。
「あーうん……でもカフェオレがいいな」
「はいはい」
青夜が冷蔵庫の扉を開けて、中から牛乳を取り出す。
「そういえば、桃乃と緑子は? あれ、もしかして黄助(おうすけ)もいない?」
キッチンには、3人のマグカップがすでに洗い終わって干されている。
「桃乃はジョギング中。緑子は本を返しに図書館に。黄助は知らない。どうせ、どこかその辺を当てもなくうろついてるんだろ」
鍋に移した牛乳をじっくり温めながら青夜が答える。
「黄助は自由だなぁ。俺も黄助を見習ってもう少し自由になろうかなぁ」
「あんな自由人は黄助1人で充分だ。それに黄助ときたら、いざという時に連絡がつかないと困るから、行き先はちゃんと言ってから行けって何度も言ってるのに……」
青夜がまたため息をこぼす。
だが、動かす手は一切止まっていなかったようで、紅太好みのカフェオレがすでに完成していた。
「はい、どうぞ。これ飲んだら、身支度ぐらいちゃんとしておけよ」
そう言って紅太を見た青夜が「それ」と、紅太の頭を指差す。
紅太はその指先を追って自分の頭を撫でる。今日の寝癖はいつも以上にひどそうだ。
「そうだね。いつどこで呼ばれるか分からないからね」
「あぁ。だらしない格好でみんなの理想を壊すわけにもいかないしな」
「うん」
出来たてのカフェオレを口に運びながら紅太は小さく頷いた。ほどよい苦味と牛乳のまろやかな味が口いっぱいに広がる。
この家に5人で住み始めてこの春でもう3年になる。
最初こそ慣れない共同生活に諍いが起こることもあったが、最近はそれもほとんどなくなった。それぞれがそれぞれの性格や価値観を理解したからかもしれない。
この仕事は常に緊張感と隣合わせな反面、気を張ってばかりいると体がもたないので、何も起きていない時はしっかり体と心を休ませなければいけない。
そう教えてくれたのは、紅太たちにこの仕事を引き継いだ先代の5人だ。紅太たちの永遠の憧れの5人。
「暇だねぇ」
紅太が窓の外を見ながらそう言うと、「暇は平和あってこそだよ」と青夜が呟いた。そして、続ける。
「僕達は暇の方がいいんだ」
「うん、そうだね」
ゆっくり流れる時間に身を委ねるように、紅太はまたカフェオレの入ったカップを静かに傾けた。
「ただいまー」
紅太のカップが空になった頃、玄関から元気な声がリビングまで響いてきた。
すぐにリビングのドアが開き、その向こうにピンクのジャージ姿の桃乃と、シンプルなシャツに緑のカーディガンを羽織った緑子が立っていた。
「あれ? 2人、一緒だったの?」
紅太が聞くと、「違う違う」と桃乃が大きく首を振る。
「偶然下でばったりと。ね、緑子」
「う、うん」
頷いた緑子は、肩から重そうなトートバックを提げている。またいつものように、図書館でたくさん本を借りてきたのだろう。
いつそんなに本を読んでいるのだろうかと、紅太は密かにいつも疑問に思っている。
「2人ともおかえり。……ああ、そういえば、黄助もその辺にいなかった?」
青夜が2人に尋ねる。
「え? またアイツ行き先言わずにどっか行ったの?」
青夜が首をすくめると、「もぉ〜」と桃乃が口を尖らせた。
「あの……私、探してきましょうか」
緑子が青夜の方を見る。
青夜が一瞬考え込む仕草をしたその時、また玄関の鍵が開く音がした。
「いやぁ、今日は猫達にモテモテだったな」
そう言いながら、黄助がリビングに入ってきた。
「『モテモテだったな』じゃないでしょ! どこ行くかくらいは言ってから出かけてっていつも言ってるじゃん!」
「公園すぐそこだから、いいかなと思って」
悪気ない様子の黄助が着ている黄色のパーカーには、確かに猫の毛がたくさんついている。
「黄助、その毛。ちゃんと取ってしまってから洗濯機に入れてくれよな」
「うん、分かってるって」
青夜の指摘を聞き流すように頷く。
こうして偶然にも5人が揃うタイミングを見計らったかのようひ、リビングの緊急アラームがなった。
「3丁目の森田さんからの要請だ。みんな、行こう!」
紅太の呼びかけに全員が頷く。
紅太が服を着替えて家を出ようとした時、青夜に玄関で引き止められた。
「レッド、忘れ物だ」
「あ、危ないとこだったよ。ありがと、ブルー」
それにブルーが頷き、ピンクが「もう、しっかりしてよね」とこぼす。
改めて、ヒーロースーツ姿のレッドが赤いマスクを被る。
「さぁ、急ごう」
この街には5人組のヒーローがいる。
助けを呼ぶ声があれば、いつでもどこでも駆けつける。
3年前に先代からヒーローを受け継いだ彼らも、今や先代と同様、街の人々にとってなくてはならない存在となった。
並んだ5色の後ろ姿は、今日も街の平和を守る。
『現実逃避』
そこに1匹の猫がいた。ある者は『タマ』と呼び、ある者は『にゃん太』と呼び、そしてまたある者は『エリザベス』と呼んだ。
堂々たる歩き方は孤高の雰囲気を醸し出し、そのピンと伸びた尻尾の先までもが野良のプライドと気高さを纏っているようだった。
だが実際のところ、本当の名前は誰も知らない。それどころか、その猫が彼なのか彼女なのかすらも誰も知らないのだ。
現に今この瞬間にも、ゆっくりと近づいてきた若い女性の伸ばした手を、するするっと抜けていく。まるで気安く触れてくれるなとでも言わんばかりに。
そして、少し行った先で再びあのゆったりとした歩みに戻るのだった。
彼は本当の名を『さすらいの小次郎』といった。誰かがつけた名前ではない。彼自身が自分のことをそう呼んでいるのだ。
彼がこの町に来たのは約半年前。その前の町もおよそ半年で後にしたので、この町ともそろそろ別れの頃合いだろう。
こうして日本各地を転々としているうちに、いつの間にか生まれ故郷の北国からこれほどまでも遠く離れた南の地域までやってきていた。
人の文化や言葉が地域ごとに少しずつ違うように、猫の文化もまた行く先々で異なる。挨拶の細かな違いや目上の猫への態度、さらにどんな食べ物を食べるのかまで、そこに住んでみないと分からないことだらけなのだ。
郷に入っては郷に従い、彼はこうして様々な地域で暮らしてきたのだった。
一番南まで行ったらどうしようか。彼は最近ふとそう考えることがあった。
今まで訪れたどこかの町に戻ってそこで余生をおくるのも悪くないかもしれない。その時はこの町も候補に入れておこう。
そんなことを思いながら、彼はこの町を旅立っていくのだった。そして、彼の旅はまだまだ続いていく……
「──ねぇ、さっきから何ぼーっと窓の外眺めてんの?」
隣に座った友人が怪訝そうにこっち見る。
「あ、いや。何でもない」
私は慌てて首を振って、手元のノートに視線を戻した。
「まったく受験生だってのに危機感がないね」
呆れた顔をする友人にごまかすような笑みを返す。
「まぁさ、サキは志望校余裕なんだろうけど。私は必死よ、必死」
そう言うと、友人は再び問題を解き始めた。
「私だって余裕なんかじゃ……」
私の声は静かな図書館に吸い込まれるように消えていく。
手に持った私のシャーペンはさっきから止まったままだ。今日はなんだか気分が乗らない。
日に日に募る不安や焦りを誤魔化すように、私は再びこそっと窓の外に視線をおくる。先ほどの猫はもうどこかに行ってしまったようだ。
あの猫はどこに行ったのだろうか。まさか本当に旅に出たわけでもないだろうから、少ししたらまた戻ってくるだろうか。でも、どこか本当にさすらいの旅人のような雰囲気の猫だったから、もしかしたらそんなこともあるのかも……
そんなことをまた考え始めたので、小さく首を振る。
さすらいの小次郎を次の旅に送り出した私は、頭の中の想像をかき消し、机の上の現実に向き直った。
『今日にさよなら』
「どーっちだ」
あずさが握った両手をこっちに差し出す。
「いきなりなんだよ」
そうは言ってみるものの、その両手の中身も彼女が言わんとしていることも、俺はよく知っている。
「いいからどっちか選んで」
「はいはい。じゃあこっちで」
あずさの右手を指差すと、彼女がニヤッと笑った。
「本当にそっちでいいの? 後悔しない?」
「うーん。じゃあ、やっぱこっち?」
次は反対の手を指差す。
「えー、そっちにしちゃうの?」
彼女が唇を尖らせながらこっちをジロッと見る。
正直どちらを選ぼうとなんてことはないのだ。手の中に入っているのはただの飴。右手にはレモン味、左手にはイチゴ味の飴が入っている。ただそれだけのことだった。
「じゃあこっちでいいよ」
俺は彼女の右手を少し強引にこじ開ける。
中から黄色い包み紙が顔を出した。
「残念でしたー! そっちはハズレ。レモン味。で、こっちがソウタの好きなイチゴ味」
彼女の左の手のひらにはピンク色のパッケージ。
「別にレモンも嫌いじゃないし……」
「またまた大人ぶっちゃって〜。素直にイチゴ味か好きだって認めなさい」
「レモンが嫌いでイチゴ味しか食べないのはお前の方だろ」
「もぉー。そんなこと言ってるとイチゴ味あげないからね」
彼女は制服のポケットからもう一つイチゴ味の飴を出してちらつかせた。
「……別にいいし」
イチゴ味になんか興味がないような素振りで、俺は黄色の包み紙を大ざっぱに開き、中身を口に放り込んだ。口の中に爽やかな甘酸っぱさが広がる。
イチゴ味が有名なこの飴。今はもう、レモン味は売られていない。だが俺は、この瞬間のレモン味を何度も繰り返し味わっている。
淡々とレモン味を味わうような俺の姿を見てあずさが不満そうな顔をする。そして、「やっぱイチゴが良かったなんて言っても遅いんだからね」と言いながらピンクの包み紙を開く。
「いいの、俺は。レモンは今しか食べられないんだから……」
そうぼそっと呟くと、「え?」とした表情の顔がこっちを見つめる。
「ううん、何でもない」
昔は確かにイチゴ味しか食べられなかったが、大人になると味覚は変わってしまったようだ、
ただ、大人になってレモン味が好きになったからというのも確かにあるが、実はそれだけではない。隣でイチゴ味を美味しそうに頬張る姿こそ、俺がこの日を繰り返し訪れる理由だった。
なぜこの日のこの出来事だけを繰り返すことができるのかは自分でも分からない。ただ毎回決まって、彼女が両手を差し出し、俺がどちらかの味の飴を舐めおわるまでの時間が繰り返される。
ずっと昔の過去にも同じ場面があったように思うが、あの時の俺は一体どちらの手を選んだのだろうか。今となっては思い出すこともできない。
ただ気を抜くと、現実の──大人になった世界の光景が目に浮かび上がってくる。喪服姿の人々の中、無邪気に笑うまだ若い彼女の写真が頭から離れなかった。
葬式の帰り道。随分とくたびれてしまった印象の昔なじみの駄菓子屋の前で、俺は久しぶりに懐かしいあの飴玉を買った。
店にはもうイチゴ味しか置いてなくて、俺はイチゴ味の飴を2つ買った。自分で食べる分と、彼女にあげる分とで2つ。
そうしないと彼女がいじけるから。自分だけ食べて、と俺を見て口をとがらせるから。
そんなことを考えながら、俺は店の近くの土手で飴を舐めた。打ちひしがれるような現実から目を背けるように、昔彼女と過ごした時間を手繰り寄せた。
そして気がついたら、10年前のあの日に遡っていた。
最初は夢や幻覚を疑ったが、目を開けた時の俺の口の中には確かに、今はもうないはずのレモン味が残っていたのだ。
それからというもの、俺は何度も何度もあの日を繰り返した。話したいことは山ほどあったが、話せることは限られていた。でも、ろくなことが話せなくても、彼女がそこで笑っていてくれるだけで俺の心は満たされた。辛い現実をその瞬間だけ忘れることができたから。
「あのさ……」
「ん、なに?」
イチゴ味の飴を口の中で転がしながら、モゴモゴと彼女が答える。
「もし……この先レモン味がなくなるとしたらどう思う?」
ふと、何気なく、俺はそう尋ねた。
「うーん……」
彼女が考え込むように視線を空に投げる。
「私はイチゴ味の方が好きだから別にいいけど……」
「──けど……?」
彼女の横顔を食い入るように見つめていると、急に視線がパッとあった。
「ソウタにレモン味を選ばせるっていう私の楽しみはなくなるから、やっぱり嫌かな」
「なんだよそれ」
俺が吹き出したように笑うとあずさも声を出して笑った。
「だよなー。嫌だよなー、レモン味でもなくなんのは」
「うん、だね」
再び空を見上げた彼女の視線を追って、俺も空を見上げる。
雲のない青空。頬を掠めるまだ冷たい風は、どことなく青春の匂いがする気がする。
あっという間に口の中の飴玉は、もう噛めばすぐになくなってしまうほどの小ささになった。
「ねぇ、イチゴ味はなくなんないかな?」
彼女が微かに眉を下げてそう言った。
「ん?」
「例えこの先レモン味が売れなくなったとしても、イチゴ味はずっとなくならないかな」
「うーん。どうかな」
俺がそう言うとあずさの目に悲しみの色が浮かんだ。
「でもさ」
少し声に明るさを含ませて俺が言う。
「イチゴ味の販売はやめますって言われないように、俺らがいっぱいイチゴ味を買えばいいんじゃない?」
「え、なにそれ」
ほんの少し間が空いたあと、彼女がお腹を抱えて笑った。
「私たちだけでそんなに買えるかな?」
笑いすぎて目に涙を浮かべている。
「やってみなきゃ分からないだろ? それに本気で好きならそのくらいの心意気は必要だろ」
「うん。分かった。その代わり、ソウタも忘れないでね今言ったこと。一緒にたくさん買ってイチゴ味守るんだからね」
「ああ、分かった」
そう頷いた瞬間口の中の飴が完全に姿を消した。
そして視界がだんだんとぼやけていく。
目を開けると現実に戻っていた。口の中にはまだほんのりレモンの香りがする。
見上げた空は、あの日と同じで晴れ渡っていた。
俺は土手から腰をあげ、少し早歩きで進み出す。
きっともうあの日に戻ることはないだろう。たった今、俺にはやることができたから。
もうイチゴ味を食べて笑ってくれる人は隣にいないけど、イチゴ味までなくなってしまったらきっと彼女がどこかで悲しんでしまう。そんな気がした。
レモン味を失ったようにイチゴ味まで失ってしまわないように、俺がどうにかしないと。
そんな馬鹿げたことをする大人になった俺を彼女は笑うだろうか。きっとお腹を抱えて笑ってくれるだろう。
でも、それでいいんだ。
今度は大人になった彼女をどこかで笑顔にできるのなら、俺は両手いっぱいにだってイチゴ味の飴を抱えてみせるんだから。
「さよなら」
一瞬立ち止まり振り返って呟いた言葉は、風に乗ってどこかへ流れていった。
もう会うことはないだろう制服姿の彼女に別れを告げた俺は、シワになったスーツの襟をピンと正して、前を向いて歩き出した。