『平穏な日常』
「ふわぁあ。今日も早いね」
紅太(こうた)がリビングに入ると、部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がっていた。
「早いってもう10時なんだが。紅太が遅いんだよ」
そう言いながらじっくりとコーヒーを淹れているのは、濃紺のエプロンを身に着けた青夜(せいや)だ。
「だってさ、仕事がない間はすることもないし、早く起きるよりいっぱい寝たほうがいいじゃん。ほら、寝る子は育つって言うでしょ?」
紅太はそうのんびりな口調で言うと、目をこすりながらダイニングテーブルにゆっくりと腰を下ろした。
「寝る子って……あのなぁ」
呆れたよう小さくため息をついたものの、「紅太もコーヒー飲むか?」とさりげなく勧める。
「あーうん……でもカフェオレがいいな」
「はいはい」
青夜が冷蔵庫の扉を開けて、中から牛乳を取り出す。
「そういえば、桃乃と緑子は? あれ、もしかして黄助(おうすけ)もいない?」
キッチンには、3人のマグカップがすでに洗い終わって干されている。
「桃乃はジョギング中。緑子は本を返しに図書館に。黄助は知らない。どうせ、どこかその辺を当てもなくうろついてるんだろ」
鍋に移した牛乳をじっくり温めながら青夜が答える。
「黄助は自由だなぁ。俺も黄助を見習ってもう少し自由になろうかなぁ」
「あんな自由人は黄助1人で充分だ。それに黄助ときたら、いざという時に連絡がつかないと困るから、行き先はちゃんと言ってから行けって何度も言ってるのに……」
青夜がまたため息をこぼす。
だが、動かす手は一切止まっていなかったようで、紅太好みのカフェオレがすでに完成していた。
「はい、どうぞ。これ飲んだら、身支度ぐらいちゃんとしておけよ」
そう言って紅太を見た青夜が「それ」と、紅太の頭を指差す。
紅太はその指先を追って自分の頭を撫でる。今日の寝癖はいつも以上にひどそうだ。
「そうだね。いつどこで呼ばれるか分からないからね」
「あぁ。だらしない格好でみんなの理想を壊すわけにもいかないしな」
「うん」
出来たてのカフェオレを口に運びながら紅太は小さく頷いた。ほどよい苦味と牛乳のまろやかな味が口いっぱいに広がる。
この家に5人で住み始めてこの春でもう3年になる。
最初こそ慣れない共同生活に諍いが起こることもあったが、最近はそれもほとんどなくなった。それぞれがそれぞれの性格や価値観を理解したからかもしれない。
この仕事は常に緊張感と隣合わせな反面、気を張ってばかりいると体がもたないので、何も起きていない時はしっかり体と心を休ませなければいけない。
そう教えてくれたのは、紅太たちにこの仕事を引き継いだ先代の5人だ。紅太たちの永遠の憧れの5人。
「暇だねぇ」
紅太が窓の外を見ながらそう言うと、「暇は平和あってこそだよ」と青夜が呟いた。そして、続ける。
「僕達は暇の方がいいんだ」
「うん、そうだね」
ゆっくり流れる時間に身を委ねるように、紅太はまたカフェオレの入ったカップを静かに傾けた。
「ただいまー」
紅太のカップが空になった頃、玄関から元気な声がリビングまで響いてきた。
すぐにリビングのドアが開き、その向こうにピンクのジャージ姿の桃乃と、シンプルなシャツに緑のカーディガンを羽織った緑子が立っていた。
「あれ? 2人、一緒だったの?」
紅太が聞くと、「違う違う」と桃乃が大きく首を振る。
「偶然下でばったりと。ね、緑子」
「う、うん」
頷いた緑子は、肩から重そうなトートバックを提げている。またいつものように、図書館でたくさん本を借りてきたのだろう。
いつそんなに本を読んでいるのだろうかと、紅太は密かにいつも疑問に思っている。
「2人ともおかえり。……ああ、そういえば、黄助もその辺にいなかった?」
青夜が2人に尋ねる。
「え? またアイツ行き先言わずにどっか行ったの?」
青夜が首をすくめると、「もぉ〜」と桃乃が口を尖らせた。
「あの……私、探してきましょうか」
緑子が青夜の方を見る。
青夜が一瞬考え込む仕草をしたその時、また玄関の鍵が開く音がした。
「いやぁ、今日は猫達にモテモテだったな」
そう言いながら、黄助がリビングに入ってきた。
「『モテモテだったな』じゃないでしょ! どこ行くかくらいは言ってから出かけてっていつも言ってるじゃん!」
「公園すぐそこだから、いいかなと思って」
悪気ない様子の黄助が着ている黄色のパーカーには、確かに猫の毛がたくさんついている。
「黄助、その毛。ちゃんと取ってしまってから洗濯機に入れてくれよな」
「うん、分かってるって」
青夜の指摘を聞き流すように頷く。
こうして偶然にも5人が揃うタイミングを見計らったかのようひ、リビングの緊急アラームがなった。
「3丁目の森田さんからの要請だ。みんな、行こう!」
紅太の呼びかけに全員が頷く。
紅太が服を着替えて家を出ようとした時、青夜に玄関で引き止められた。
「レッド、忘れ物だ」
「あ、危ないとこだったよ。ありがと、ブルー」
それにブルーが頷き、ピンクが「もう、しっかりしてよね」とこぼす。
改めて、ヒーロースーツ姿のレッドが赤いマスクを被る。
「さぁ、急ごう」
この街には5人組のヒーローがいる。
助けを呼ぶ声があれば、いつでもどこでも駆けつける。
3年前に先代からヒーローを受け継いだ彼らも、今や先代と同様、街の人々にとってなくてはならない存在となった。
並んだ5色の後ろ姿は、今日も街の平和を守る。
3/11/2024, 7:41:12 PM