今宵

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『もっと知りたい』


 あれは、中学2年生の春のことだ。
 平年より開花が遅れたせいで、その年の始業式の日にはまだ桜が残っていた。
 クラス替えに浮足立った生徒もそのほとんどが席についた頃に彼女は現れた。窓際の席に座った僕が、何気なく窓の外で散っていく桜の花びらを見ていた時のことだった。
 校門の前で立ち止まっている女子がいるかと思った後、彼女はその大量に舞う花びらの中を、淡々と校舎に向かい進んでいった。
 背中まである長い髪を風になびかせ、制服は模範通りに着こなしていて、そこから伸びる手足は午前の光に照らされ透き通るほどに美しかった。
 彼女は誰だろうか。何年のどのクラスの生徒だろうか。
 彼女が校舎に入っていくのを見送りながら、僕はそう考えていた。そう考えるほどに、僕はすでにその時から彼女に興味を惹かれていたのだろう。

 叶うならば──と願ったことが、信じられないが現実的となった。
「今から転校生を紹介します」
 先生のその言葉にざわめいていた教室が、彼女がドアを開けた瞬間、一斉に静まった。そして、まるで時が止まったかのようにみんなの動きが止まる。
「今年からうちの中学に転校してきた和田さんです。自己紹介をお願いできる? 名前と一言だけで構わないから」
 先生の方を小さく一瞥した彼女はすぐにみんなの方に向き直り、本当に名前とただ一言だけを発した。
「和田杏(わだ あん)です。よろしくお願いします」
 彼女の発した声が静かな空気を伝い、小さな振動となって耳まで届いた。
 感情の起伏のない淡々とした口調。感情の見えない表情。
 だが僕の彼女への印象は、決して悪いものではなかった。むしろ、そんな態度に彼女の芯の強さを感じてすらいたかもしれない。
 彼女は、休み時間に女子たちから矢継ぎ早に投げられる質問のすべてに素っ気なく返し、男子たちから向けられる様々な視線はすべて彼女に届く手前で折れてしまうようだった。かく言う僕の視線もそうだ。

 彼女が現れてからひと月が経った頃。彼女のまわりの人だかりは早々になくなっていて、彼女は一人にしておかなければならない、という暗黙の空気が教室には流れていた。
 とうの彼女自身もそれを気にする素振りはなく、休み時間になると彼女はいつも1人でどこかに行ってしまった。
 ある日の昼休み。彼女は一体、いつもどこに行っているのだろうかとどうしても気になった僕は、こっそりと彼女の後をつけた。
 彼女は階段を最上階まで上り、ひと気のない踊り場の錆びかけたドアノブに手をかけた。
 その先にあるのは屋上だ。それも立入禁止のはずの。
 ドアの向こうに消えた彼女を追って、僕も取っ手に手を伸ばす。心臓の音が耳のすぐそばで大きく鳴り、指先が緊張で強張った。
 小さく息をついた僕は、そっと扉を引いた。
 一瞬、外の眩しさに目を細める。そして、ゆっくり目を開けると、視界の奥に何かを手に持った彼女の後ろ姿があった。
 彼女がゆっくりと、その何かを口元に構える。

 あれがフルートという楽器だったことは、後から知った。
 美しくて、でもまっすぐな音。まさに彼女のようだった。
 演奏の間その場に立ち尽くしていた僕を、彼女が振り返る。そして、少しだけ目を大きくした。
 僕は慌てて話し出す。
「あの……ごめんね。その、いつも何してるのか気になったから……」
 咄嗟に謝った僕の言葉と少し間が空いてから、彼女の声がした。
「ここ、練習するのにいいの。誰も来ないし、静かだから」
「えっと、そうなんだ……」
 次につなげる言葉を探す。
「その楽器は何?」
「音楽が好きなの?」
「ここに入って怒られないの……?」
 ただ、僕はそのどれもを飲み込んだ。また、彼女の音が聴こえたから。
 一人にしてと言われるかと思ったが、彼女は何も言わなかった。だから僕はその瞬間、彼女のたった一人の観客になった。
 彼女の演奏が終わった時、僕は彼女に小さく、だけど気持ちを込めて拍手を送った。そして、やっと尋ねた。
「その曲、なんていうの?」
 僕の質問に、彼女がほんの少しだけ微笑んだ──気がした。それは初めて見る彼女の感情だった。
 その瞬間に僕は思ったのだ。
 もっと、もっと。彼女のことを知りたいと。

3/12/2024, 7:36:22 PM