『街へ』
私は山の麓の集落で生まれ育った。
今ではトンネルが通り、街まで車で30分ほどで行けるようになったが、当時はまだ街に行くまで1時間ほどかかっていた。
当然、歩くには長すぎる距離なので、集落の人々の移動手段は主に自家用車か、1日2本、朝と夕方に1本ずつのバスだけだった。
小学校に上がった年、私は初めて一人バスに乗り、街まで買い物に行くことになった。
その当時、私は一人で街に行きたいお年頃で、流行りのかわいい動物の絵がついたボールペンが欲しいからと、母に駄々をこねたのだ。
普段、買い物をしに街に行く時は父の軽自動車を使っていて、時々私も一緒に連れて行ってもらっていたが、バスに乗るのは以前母と乗ったきりで2度目だった。
「いってきまーす」
「くれぐれも帰りのバスには乗り遅れないようにね」
「はぁーい」
母にバス代とボールペン代をもらった私はそれをお気に入りのポシェットにしまい、緊張しながらも心踊るような気持ちで朝早くにバスへと乗り込んだ。
最初こそ窓からの景色を眺めて街への期待を膨らませていたものの、早起きをしたせいか、すぐに私のまぶたはゆっくりと落ちていった。
乗り物の振動というのは不思議なもので、私はゆりかごに揺られるようにだんだんと眠たくなっていったのだ。
夢の中で鳴るアナウンスにハッと目を覚ますと、そこはすでに降りるはずのバス停だった。
慌てて飛び降りたバスを見送り、振り返った私は、目の前に現れた街並みに困惑した。
何度も訪れたことがあるはずの景色が、いつもと全く違って見えたのだ。カラフルな街並みをカラフルな装いの人々が歩き、辺りからは嗅いだことのない甘い香りがふんわりと漂ってきた。
気のせいかなと街をしばらく歩き回ってみても、やはりそこにはいつもと違う不思議な景色が広がっていた。
「すみません、近くに文房具屋さんはありませんか?」
道行く人にそう尋ねてみても首を横に振るばかりで、目当ての店は見つからない。
「すみません、かわいい動物のボールペンを探してるんですが、知りませんか?」
そう尋ねてもやはり同じだった。
どうしたらいいのか訳も分からず泣きそうになっていた私の元に、遠くから一人のお兄さんが近づいてきた。
赤いトンガリ帽にオレンジの大きな襟がついた青いシャツ。黄色いズボンの広がった裾をヒラヒラとなびかせながら歩くそのお兄さんは、まるで小さい頃に読んだ絵本の中から飛び出してきたようだった。
「やぁ、お嬢さん。動物のボールペンをお探しなのかい?」
私がコクリと頷くと、彼は「じゃあ、ついてきて」と行って歩き出した。
彼は人混みの中をかき分けて進んでいく。見失わないように必死に足を動かすと、やがて人混みの中を抜けて大きな広場に出た。
広場の真ん中には大きくてカラフルな三角屋根のテントが立っていて、中からはたくさんの歓声が聞こえてくる。テントの周りにはこれまたカラフルな旗がいくつも立っていて、私はその光景に目を奪われた。
「これは何?」
「この街で一番人気のサーカスだよ。君はサーカスを見るのは初めてかい?」
「サーカスって、絵本とかで見るあのサーカス?」
「そうさ。ちょっとこっちへおいで」
人差し指を口に当てて私を手招いた。
カラフルなお兄さんはテントの裏側に回ると、身を潜めながら小さな入り口をくぐった。私も同じようにマネをする。
テントの中は木の骨組みに支えられていて、表からは想像のつかないような手作り感が溢れていた。
「このハシゴを登るよ。さぁ手を貸して」
ヒンヤリとした彼の手を握ってハシゴを登ると、大人が2人入れるか入れないかくらいの小さな屋根裏部屋に出た。
「ほら、ここから覗いてごらん」
言われた通りテントの布に空いた小さな穴を覗いてみると、そこからはサーカスのステージがよく見下ろせた。
「ここは秘密の特等席なんだ」
私はそこから見える初めてのサーカスに夢中になった。
人間離れした団員達、中に人間が入っているのではと疑うような賢い動物たち。ある者はクルッと回り、ある者はピョンと飛び越え、体の大きなゾウが火の輪っかをくぐり抜けた時には、観客たちと一緒になって私も大きな拍手をした。
「どうだいサーカスは。素晴らしいだろ?」
「はい!」
「俺ももうすぐこの舞台に立つんだ」
「お兄さんもサーカスに出るんですか?」
「あぁ、そうさ」
彼は誇らしげに頷いた。
「観客が出てくる前に、土産屋でボールペンを探そう」
ハシゴを降り、中のテントの下をくぐり抜けると、そこにはサーカスをモチーフにした様々なお土産が並んでいた。
「ボールペンはここだね」
ウマやライオン、トラにクマ。そして演目の中で私が一番感動した火をくぐるゾウのボールペンもあった。元々欲しいと思っていた猫のボールペンはなかったが、私はそのゾウのボールペンをとても気に入った。
「これにします!」
「実は、僕もそれがオススメだったんだ」
お兄さんはそう言って優しく笑った。
ボールペンの会計を済ませてテントの外に出ると、外はもう空がオレンジ色に染まっていた。
「この街にはもっと楽しい場所があるんだ。せっかくだから、もう少し見て回らないかい?」
本当は、私もそうしたかった。だが、バスに乗り遅れると母に怒られてしまう。
正直にそう伝えると、お兄さんはバス停まで私を送ってくれた。
「さぁ、バスが来たよ」
「はい。今日はありがとうございました! とっても楽しかったです!」
「それは良かった。今度はぜひ、僕がステージに立ってる姿を見にきて。また特等席を用意しておくからさ」
私を見てそう言った彼は、片目を閉じて笑った。
そこから家へ着くまでの記憶はなぜかはっきりしない。ただ、次の日の朝、起きたら枕元にゾウのボールペンが転がっていた。
それからその話を家族や友達にしたが、街にサーカスが来ていたと言っても誰も信じてはくれなかった。
直接サーカスを見てもらえば分かるだろうと、数日後に両親と街に行って探してもみたが、サーカスどころかあのカラフルな街並みすらどこにもなかった。
今でもあの時の観客の歓声とステージ上から伝わる火の熱さははっきりと覚えていて、あれが夢の中だったとは思えない。
でもしばらくすると、それを唯一裏付ける証拠だったボールペンもどこかに失くしてしまったので、私はその記憶に自信が持てなくなった。
大学入学で遠くの町に引っ越し、そこで就職と結婚、出産を経た私は、17年ぶりに生まれ故郷に帰ってきた。
「あのね、お母さん。街にかわいい文房具がたくさん置いてある新しいお店ができたって、舞ちゃんが言ってたんだけどね」
娘はそう小学校の友達の名前を出すと、バスに乗って一人でその店に行きたいと言い出した。
昔と違って今は、昔の半分ほどの時間があれば街まで行くことができる。ただ、バスの本数は相変わらずだ。
「バスに乗り遅れたら帰ってこられないからね」
翌朝そう言って私が見送ると、「分かった分かった」と娘は頷き、意気揚々と家を出て行った。
夕方、眠そうな目で帰ってきた娘が手にしていたものを見て、私は驚いた。
あの時私が買ったものと同じゾウのボールペンを、彼女が握りしめていたのだ。
夕食も食べずにすぐに布団に潜り、眠ってしまった娘の寝顔を私は見つめる。
心なしかいつもより楽しそうな寝顔をしている気がする。
一体どんな夢を見ているのだろうか。もしかしたら、サーカスの続きを楽しんでいるのかもしれない。
私はそんな不思議なことを考えながら、静かに寝息を立てる娘の頭をそっと撫でた。
『優しさ』
「間宮。先方との打ち合わせ、急遽日程早まったから、急ぎ調整頼む」
「あ、はい、分かりました」
時計の時刻は定時まであと15分を示している。だが、これを終わらせないことには帰れない。
課長に頼まれた仕事を急いで片付けていると、隣の席の後輩が私のスーツの裾を少し引っ張って、何やら頼みごとのある顔をしてきた。
「間宮さん、ちょっとすみません。明日の会議の資料がまだ上手くまとまらなくて……」
「ちょっと見せてね……うん、前見たときより良くなってるから、あとは具体的な内容を盛り込むと良さそう」
ついでに「こことここは……」と修正点も伝えていく。
「なるほどです……ただ、今日はちょっとこれから用があって、どうしても定時で帰らなきゃいけなくて……」
そういうことか。
「じゃあ私やっとくから、先帰っていいよ」
「え、いいんですかぁ!?」
彼女がそう、甘ったるい声で言う。
「うん。私は、この後予定ないから」
少しばかり嫌味を言ったつもりだったが、彼女にそれを気にする素振りはない。
「先輩、優しいので好きです! ありがとうございまぁす」
そう言いながらすでに、彼女は手にしっかりとバッグを握りしめていた。
退勤する彼女の背中を目で追いながら、彼女に聞こえないようにため息をつく。
「間宮」
「……はい」
また誰かの頼みごとだろうかと振り返る。
「何、気の抜けた返事してんだよ、まったく。そんなんで大丈夫なのか?」
そう表情のないぶっきらぼうな言い方をするのは、この会社で私の唯一の同期、中川だ。
「大丈夫って何が? 困ってる時はお互いさまだし……」
「お互いさまっていうか、いつもお前が一方的に押し付けられてるだけだろ」
「……そんなことない。とにかく大丈夫だから」
さっきはああ言ったものの、今日は終電コースかもしれない。
ふと見上げた時計を見上げると、すでに定時から3時間以上が過ぎていた。
机の引き出しに忍ばせていおいたエナジードリンクで、溜まった疲れを胃に流し込む。静かな部屋に、時計の秒針と私の叩くキーボードの音だけが響く。
「お前、まだいたのかよ」
机の上に転がるエナジードリンクの空が4本に増えた頃、退勤したはずの中川がなぜか会社に戻って来た。
「まぁ、うん。思ったより時間かかっちゃって……てか中川こそ何でいるのよ」
「俺はその、あれだ。散歩の途中……てか、そんなことどうでもいいだろ」
なぜか、いつも以上にトゲがある気がする。
「何? もしかして怒ってる?」
「別に、怒ってなんか……いや、やっぱ怒ってるのかもしれないな」
「ねぇ、何言ってんの?」
「だから、お前のそのバカみたいな優しさが鬱陶しいって言ってんだよ! もっと自分勝手に生きろよ!」
中川の荒げた声が胸に突き刺さる。
「いや、私優しくなんかないし。鬱陶しいなんて言われる筋合いもないし。私は別に今のままでも……」
無意識に私の頬に冷たいものが流れた。
「あ、いや、泣かせるつもりじゃなかったんだ。悪い……」
私は黙って首を横に振る。
どうして、涙が出るのだろう。かけられた言葉は優しい言葉じゃなくて、むしろキツイ事だったのに、どうしてこうも心が楽になったのだろうか。
「これ……」
ハンカチでも貸してくれるのかと思ったら、差し出されたのは2本の缶コーヒーだった。
「どっちか選んで」
「じゃあ……」
いつもはブラックコーヒーを好んで飲むが、今日は脳が甘いものを欲しがっていた。
私がカフェオレを選ぶと中川は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに甘くない方の缶の口を開けた。
「ねぇ、中川ってさ、ブラック飲めないでしょ?」
「……んなわけないだろ」
そう言ってコーヒーを流し込む様子は、意地を張って無理に飲んでいるようにしか見えない。
「あのさ……」
「ん?」
「ありがとね……コーヒーのこと」
素直にお礼を言えなかった私は、そう言ってとっさに缶を傾けた。
「別に……ほら、さっさと続きやるぞ」
「え、手伝ってくれるの?」
「それ以外に何しに来んだよ」
「……散歩。でしょ?」
私がいたずらっぽく笑うと、中川がムスッとした顔をした。
自分勝手に生きるってどうしたらいいのか、私にはまだ分からない。それに、私は断るのが苦手なだけで優しくともなんともないんだ。
自分の方が私なんかよりずっと優しいじゃないかと、私は2本のコーヒーの空き缶を見て思った。
『ミッドナイト』
『続きまして、ラジオネーム北風さん。しずくさん、こんばんは。はい、こんばんは。最近一段と冷え込んできましたが……』
窓際に動かした椅子に私は両膝を抱えて座る。
膝の上には冷えを凌ぐクマのブランケットと、うっすら明かりを帯びたスマートフォン。そのスマホに繋がったイヤフォンは私の耳まで延びている。
もこもこの上着に身を包んだ私は、遠くの誰かの声にそっと耳を澄ませる。
眠れない夜はこうしてラジオを聴く。布団に入って聴くことも多いが、目が冴えた日には椅子に座って外を眺めながら聴いたりもする。
昔はラジオを聴く習慣はなかったので、ラジオを聴くようになったのは大人になってからだ。
まったくの未知の世界だったが、飛び込んでみると案外面白かった。
聴き手はただの客ではなく、一緒にものを作る作り手でもあり、聴き手のセンスが番組のセンスを担っているようなところがあるように思う。
もちろん話し手や話の選び手の力があってこそだが。
『素敵なお話ですね。温かいお話は温かい気持ちになれてホッとします。こんな寒い日、私は家でいつもより甘くしたココアを飲むのがお気に入りです。さて、北風さんのリクエスト曲は……』
曲名を告げられたあと、すぐに音楽が流れ始めた。私の知らない曲だ。新しい曲だろうか。
最近は何事においても、自分の興味のある物事にしか出会わなくなり、新しいものに出会う機会は、ぐんと減った。
それは便利である一方、もったいないようにも思う。まだ出会っていない好きなものだって、世界にはたくさんあるはずだ。
ラジオではその点、いろんなものに出会える。
始めて聴く音楽、クスッと笑えるエピソード、自分と同じようにどこかの誰かが抱える悩み。
それらは自然と心地よく耳に入ってくる。喋る声の良さももちろんあるが、顔が見えないからこそ言葉がストレートに伝わってくることが私は心地良いのだと思う。
ラジオから流れる音楽を聴いていると眠たくなってきたので、素直に布団に入ることにした。
イヤフォンをしたまま目を閉じる。
この曲は何という曲名だっただろうか。曲終わりに確かめて、明日調べてみよう。
そんなことを考えながら、私は眠りにつく。
真夜中、私は一人ぼっちだと思っていた。
だけど今は違う。
こうして今も、誰かの声に耳を傾けているのだから。
『安心と不安』
片道およそ900km、車で夜通し走ってようやく朝に着くくらいの距離。その夜と朝くらいの距離が私たちの間にあった。
行こうと思えば行けないこともない、でもわざわざ会いに行かなくてもまたすぐに会える。そんな認識がお互いにあった。
「ねぇ、週末そっちに行こうかな……」
精一杯さり気なくそう言ってみた。
『ん? なんで?』
その一言でこの話題は終わった。
"何かあったの?"と心配されたわけじゃない。そこには単純に、"こっち来てどうすんの?"という感情が垣間見えていた。
「ううん、ただ何となく」
そう答えるしかなかった。
ただ電話を繋いでいるだけのこの時間。寝る前の日課として、ただこなして終わるだけのこの時間。
いつの間にか、今何をしているとも今日は何があったとも話さなくなった。電話の向こうにある生活音に、ただ耳を澄ませるだけ。
彼は一体今、何を考えているのだろうか。
『なんかもう眠い。そろそろ寝るわ』
「あ、うん……おやすみ」
通話時間は32分。最短記録更新だ。
そんなことを考えているのはきっと私だけなんだろう。
付き合って4年、遠距離恋愛を始めて2年に差し掛かろうとしている。
遠距離恋愛が難しいとは聞いていたものの、それは想像以上に困難だった。そのせいでほんやりと意識していた結婚の文字は遠退き、いわゆる倦怠期を味わうことになった。
会いに行くまでの距離に比例して、心の距離までも延びてしまったのだ。
「ねぇ、私のこと好き?」
そう聞くことが出来たらどれだけ良かっただろう。
そんな勇気もない私は、日々惰性の電話をかけ続けた。
彼に電話をかける私の右手は、最近よく小さく震える。
もし電話に出なかったらどうしよう。ついにもう終わりかもしれない。
いつ別れを切り出されてもおかしくないような重たい空気が、もう数カ月も私たちの間に居座っているのだ。言いようのない負の感情は、日に日に膨れ上がっていくばかりだった。
自分から別れを切り出すことさえ出来ない。
重ねた年月、過ごした時間、数え切れないほどの思い出。そのどれもが無かったことになるのが涙が出るほど怖いのだ。
呼び出し音が数回鳴ったあと、途切れた。
「……もしもし?」
好きという感情の輪郭がぼやけていく中で、私は彼の答えを待つ。
『うん、もしもし』
彼の声がしたその瞬間だけ、私の不安は晴れた。
今日はまだ大丈夫……
私は電話の向こうに聞こえないよう、深く息を吐いた。
『逆光』
夕暮れ時の小さな公園。水平線に沈む夕日にレンズを向ける君。真っ赤な空と対象的に、影の落ちた君の背中。
一瞬吹いた風が君の髪をなびかせた瞬間、それを逃すまいとファインダー越しにシャッターを切った。
「今日も暇だね〜」
「事件がないのは実にいいことではないか、ワトソンくん」
「それはそうだね。ところで、松田くん。いい加減、その呼び方はやめてくれない?」
「桜高のホームズと呼ばれるこの名探偵にその座を任されたというのに、君は何の不満があるというのかね」
自称桜高のホームズを名乗る僕のクラスメイト、松田くんが変人……いや、こう風変わりであるのはいつものことだ。
「この座を任されたも何も、他に候補がいなかっただけのことじゃないか」
僕はそう言って周りに視線をやる。行事の飾り付け用の花飾りや、脚のガタつく椅子、未開封のチョークの箱の山に、いつの時代のものか分からない古いカメラなどが、視界のほとんどを埋め尽くしているこの部屋には僕と松田くんの2人しかいない。
人より備品の方が圧倒的に場所を取る四畳ほどのここ、備品倉庫は、3階建て校舎の最上階の廊下を進んだ1番奥の角部屋に位置する。角部屋ゆえに日当たりがいいことだけをメリットに持った、現在の僕らの活動拠点だ。
ドアに取り付けられた備品倉庫と書かれてあるネームプレートの上には、この春“推理研究会”と手書きされたA4の紙が貼られた。もちろんこの推理研究会、通称“推研”の言い出しっぺであり発足者である松田くんの手によってだ。
僕達が通う桜木高校は、県下一の進学校であると同時に、文武問わず様々な部活動でも結果を残していることで有名な歴史ある高校だ。
そんな格式高い桜高で新しく正式に部活動として認めてもらうにはいくつかの条件がある。
部員が5人以上であること。そして、顧問を引き受けてくれる先生を見つけること。これが部活動を名乗る最低条件だ。その上、部員が3人未満だと同好会としてすら認めてもらえない。
部活動であればそれ相応の部室と潤沢な予算をもらえ、同好会であれば許可を得て空いた部屋を部室代わりに使わせてもらうことができる。
僕ら推理研究会は、推理研究同好会というのが正式名称だ。推理研究同好会、略して推理研究会なのだからこれで問題はないというのが松田くんの主張だ。
僕らが同好会として活動するからには、僕らの他にもう1人の部員が存在する。ただ、僕はまだその人の名前を知らない。
松田くんが推研を立ち上げる際にその存在について聞いてみたが、そのうち分かるとはぐらかされてしまった。
推理研究会と言っても探偵の出番があるような事件などこの学校で起きるはずもなく、未だ知名度もない推研は開店休業状態だ。
そんな時にやることといえば、名の知れた推理小説を読み返したり、世界の未解決事件の記事にああだこうだと持論を展開することぐらいだった。
この日も例に漏れず、同じように過ごしていた僕らの元に、推研の発足以来、初めての依頼が舞い込んできた。
「この写真に写る彼女を探して欲しいんだ」
松田くんがどこからか拾ってきた少し傾いた学校机の上に、1枚の写真が置かれた。
「君はえっと……あぁ、隣のクラスの野島くん」
「佐々木だよ。同じクラスの」
そう言った佐々木くんは、堂々と失礼な事を言う松田くんに対して少し眉をひそめた。
入学して半年も経ったというのに、まだ自分の顔も名前も覚えていないクラスメイトがいたとしたら、誰だってこういう顔になるだろう。
「松田くんが事件にしか興味ないことは分かってたけど、さすがにクラスメイトにまで無関心だなんてあんまりだよ」
「申し訳ないんだけど彼に悪気はないんだ、ごめんね」と僕が言うと「別にいいよ」と佐々木くんが愛想笑いをした。
僕が代わりに謝っているというのに松田くんはそれを気にも留めず、ただ顎に手を置いて机の上の写真に見入っている。
「ところで野島くん」
「佐々木くん!」
「では、佐々木くん。この写真の場所は緑が丘公園かい?」
「あぁ。1週間くらい前にそこで撮ったんだ」
彼が撮ったその写真は、夕日が沈む水平線の写真を撮っている人を、そのさらに後ろから撮るという構図で、そこに写った人がちょうど夕日によって逆光で影になっているのがとても幻想的な1枚だった。
「佐々木くんって写真撮るの上手なんだね」
「え……ありがと」
佐々木くんは褒められていないのか、長い腕を自分の首の後ろにまわした。
丘の上にあるこの緑が丘公園からは、街と海が一望できる。僕は知らなかったが、そこは知る人ぞ知る夕日の絶景スポットなんだそうだ。
佐々木くんはフィルムカメラが趣味で、休日はいろんなところを訪れては、景色や人物など様々な被写体をカメラに収めているらしい。その日は夕日を撮ろうと緑が丘公園に行ったところ、そこで同じように夕日を写真に撮る彼女に出会い、思わずシャッターを切ったという。
「で、この女性を探して欲しいと?」
「あぁ。あの後何度かその公園を探したんだが見つからなくてさ、結局彼女がどこの誰かも分からないんだよ……」
そう視線を落とした佐々木くんには見向きもせず、松田くんは何か考え込んでいるような様子だ。
「どうしてその時彼女に声を掛けなかったの?」
「それはその、思わず勝手に写真を撮っちゃったから、なんか後ろめたくなっちゃって……」
「なるほど……じゃあ一応なんだけど、もし彼女が誰か分かったとして、佐々木くんはその後どうしたいのか聞いてもいいかな」
少し言い淀んだあと、彼はこう答えた。
「もう1度俺の写真の被写体になってくれないか頼もうと思ってる。今度はちゃんと許可を取って、そしたらその写真で次のコンテストに応募するつもりなんだ」
「え! それすごくいいね!」
佐々木くんの答えに僕が密かに胸を打たれていると、今まで黙っていた松田くんが突然口を開いた。
「正直なところ、人探しの依頼は我が推理研究会の出る幕ではない」
「え!? せっかく初めての依頼が来たのに、そんなあっさり断っちゃうの? 推研の名をみんなに知ってもらうチャンスじゃん!」
呆気に取られた僕がそう前のめりに言うと、松田くんは演技がかったような余裕のある表情を作って笑った。
「まぁまぁ落ち着きたまえ、ワトソンくん。誰も断るとは言っていない」
誰かに説明を求めるように佐々木くんの方を見たが、彼の言っていることの意味が分からないのはどうも僕だけではなかったようだ。
「それはつまり、この依頼を受けるってこと?」
僕がそう聞くと、松田くんは何故か佐々木くんに近寄り、何やら僕に聞こえないように耳打ちした。
一瞬驚いた表情を浮かべた佐々木くんだったが、松田くんが何か企みのありそうな笑みを浮かべると、彼は静かに頷いた。
「さぁ、我らが推研の初仕事といこうか」
桜高のある山の裏手を流れる田上川は辺りを田んぼに囲まれていて、山からの湧き水が流れるその川の水は濁りがほとんどなく、都会では見られないような様々な魚が生息している。
「この辺りのはずなんだけど……」
一面田んぼばかりのこの辺りに紺色の制服が混ざれば、一目で分かりそうなものだが。
桜高からの坂を下る紺のセーラーや学ランのほとんどが、坂を降りてすぐ街の方へと続く道に進むというのに、僕はというと学校から見て街と反対側にあるこの田んぼ道に足を向けた。
多くの生徒が部活動を終え帰宅する時間にも関わらず、そこに学生の姿は1つもない。
そう思い、諦めて帰ろうとしたその時、草むらの中で何かが動くのが分かった。
「ヒャッ」と情けない声を上げた僕の前に、大きな紺色の影が現れる。
「もしかしてワトソンくん? 鈴之助から聞いてるよ」
そう僕をワトソン呼びした人は、僕と同じく桜高の学ランを着ており、肩には立派なカメラを掛けている。名札に引かれた濃紺のラインからするに、1学年上の先輩だ。
鈴之助と言われてすぐにはピンとこなかったが、それが松田くんの下の名前であったことを思い出す。
「あ、はい。いや、ワトソンじゃないですけど」
「あぁ、ごめんごめん。鈴之助がいつも君をワトソンって呼ぶから、つい」
「あ、いえ」
「じゃあ君を何て呼べばいい?」
好奇心に溢れた表情でそう聞かれる。
「えーと……名字で……あ、いやでも、やっぱりワトソンでいいです」
「そう。じゃあワトソンくん。見せたい写真があるって聞いてるけど」
「あ、はい!」
リュックの中からクリアファイルを取り出し、そこに挟んでおいた写真を取り出す。データは別に持ってるからと、昨日佐々木くんが写真を借してくれたのだ。
「これなんですが……」
「あぁ確かに。にしても随分と古いモデルだね」
「こんな影だけの写真でも分かるんですか!?」
カメラのことに関して僕は全くの素人だから、何が何だかさっぱりだ。
「まぁ、これはフィルムカメラの中でも特徴のあるモデルだから。で、これの持ち主を探しているのかい?」
「はい……分かりそうですか」
ここで写真を撮ってる人に聞けば何か手がかりを得られるかもしれないと言われて来たものの、写真1枚で、しかも逆光でそこに写るカメラも人も姿が分からないというのに、持ち主を探すだなんて向こう見ず過ぎはしないか。
そう僕は思っていたが、先輩の反応は意外なものだった。
「正直僕にはちょっと難しいんだけど、他に当てがないこともないよ」
「え、本当ですか!?」
明らかに音の高くなった僕の言葉に対して、心強く頷いてくれたその人の顔に、僕はどこか見覚えを感じた。
「すみませーん! 誰かいらっしゃいますかー」
店の扉が開いていたため営業中だろうと入って来たが、中には客はおろか店の人の姿もなかった。
カウンターの奥の扉は覗き窓にカーテンが引かれていて、中の様子は伺えない。
「すみませーん!!」
もう一度そう呼びかけると、扉の向こうでカーテンが開き、中から店主らしき年配の男性が出てきた。
「あぁ、お待たせして申し訳ないね。ベルが鳴らなかったから、てっきり空耳かと思ったよ」
店主の視線を追うと、カウンターの上に『ご用の際はこのボタンを押してください』と丁寧に添え書きされた呼び出しボタンが置かれていた。
「あ、すみません。気づかなかったです」
「いいの、いいの。それでご用は何でしょう」
「あ、えっと……」
先程と同様にリュックから出した写真を店主に見せる。
「突然で申し訳ないんですが、このカメラの持ち主を知りたいんです……」
恐る恐るそう尋ねた僕の言葉と間も開けずに店主が答えた。
「あぁ、これは瑠璃ちゃんのカメラだね」
「え、彼女をご存知なんですか!?」
「もちろん。ここの常連さんだからねぇ。こんな古くて珍しいカメラを使ってるのはここらじゃ彼女だけだと思うよ」
正直、僕はこんなにあっさりと見つかるとは思っていなかったため、驚き入ってしまった。
「あの……彼女と連絡を取りたいんですが……」
「あぁ、少し待ってね。このノートに連絡先が乗ってるから……」
こんなに簡単に個人情報を話していいのかと思ったが、今はありがたいので黙っておく。
「瑠璃ちゃんの名字は確か……あぁ、夏川、夏川……」
店主がそう呟いたとき、僕はハッとした。
「あのう、その瑠璃さんの名字は夏川なんですか?」
「あぁ、そうだよ」
店主が頷き終わるのを待たず僕は店を飛び出していく。
「あの、ありがとうございました!」
「もういいのかい!?」と後ろからかかる声に僕は「はい!」と大きな声で答えた。
「さて、皆さん本日はお集まりいただきありがとうございます」
僕と松田くんを入れて5人もの人数は、さすがにあの窮屈な備品倉庫には入り切らないので、僕達は学校の中庭にあるベンチに集合した。
「あの……この方達は……」
心当たりのない顔が2人も増えたことに佐々木くんは困惑しているようだ。
「まぁ、待ちたまえ。せっかくこの桜高のホームズと呼ばれる私が、我が推研初の謎解きを始めようというのだから、楽しみは後に取っておいた方がいい」
みんなが松田くんの発言に納得したのかは分からないが、佐々木くんをはじめ、その場の全員がそれぞれベンチに腰を下ろした。
「まず、私は先日、ここにいる佐藤くん」
「佐々木くん!」
「佐々木くんにこの写真に写る人物を探すように依頼された。本来、人探しは私の専門ではないのだが、今回はやむを得ず……」
話が横道に逸れそうになり、僕はまたツッコミを入れた。
「あぁ、そうだな。それで、私はこの写真を見てある2点に注目した」
全員の視線が松田くんが持つ写真に集まる。
「まず、私は彼女の服装に注目した。これはおそらく、うちの高校の制服だろう」
「え!?」
写真の女性の格好は影になっていて、一見、彼女がうちの制服を着ているのかどうかの判断は難しいように思える。
「松田、どうしてそう言えるのか説明してくれ」
「簡単だ、ここを見ればな」
そう言って松田くんは写真の女性の襟元を指差した。
僕が首を捻っていると「これ、セーラー服!?」と佐々木くんが答えを口にした。
言われてみると確かに、真っ暗な影の中に僅かに風に揺れたセーラー服特有の襟が見受けられる。
「あ、そうか。この辺りの高校でセーラー服なのは、桜高だけだ!」
「そういうことだワトソンくん」
「でもこの町の中学校は、ほとんどがうちと似たセーラー服だよね」
そう指摘を入れたのは、この謎解きに呼ばれたうちの1人、昨日田上川でこの写真について尋ねた先輩だ。
いたずらを仕掛けた少年のように片方の口角を上げた先輩に、松田くんが満足気な笑みで答える。
「確かにこの町の中学校にはうちと同じようにセーラー服の学校がある。ただ……」
「ただ……?」
肝心なところを焦らす松田くんに痺れを切らして思わず催促する。
「この辺りの中学生はローファーを履かない」
「「あ!」」
僕と佐々木くんの声が重なった。
この町の中学校はすべて、白いスニーカーを指定靴にしている。僕も中学生の頃はそれを履いていた。
「なるほどね。だからこの写真の彼女がうちの学校の生徒だと分かったわけだ。やるな鈴之助」
「まぁね」
探偵役に成り切っていた松田くんに一瞬幼い表情が浮かんだような気がした。
「さて。どこか遠くの町から来た可能性を除けば、これで彼女は桜高の生徒であると推理できた」
こんなにちゃんと推理をする松田くんは初めて見た。桜高のホームズという名はあながち間違ってはいないのかもしれない。
「最初に、この写真で注目したところは2つって言ってたけど、もう1つの点は何なの?」
「さすがワトソンくん。スムーズな進行だ」
「え、あ、ありがとう」
不意に褒められて、急に自分がワトソン役であることを実感してきた。
「ここでまず私の話なんだが。私はある人物のおかげでカメラにはそれなりに精通している。もちろん探偵たるもの何事にも精通していなければならないので、カメラはその1つに過ぎないのだが」
少なからずその場の人間は、さっきの推理で松田くんを見直していたところだっただろうに、彼自身のその自慢話とも取れる発言により、彼を称える空気は一気に冷え切ってしまった。
「そこで私は、その写真に写るカメラに注目した」
ようやく本題だ。
「そのカメラが珍しいものだと気づいた私は、さらにカメラに詳しい者の元に私の助手を向かわせた」
松田くんが先輩の方を見た。
「それでワトソンくんが僕の元に来たわけだ。で、僕はこの古いフィルムカメラに不可欠な定期メンテナンスを、この町でただ1つ可能な店を紹介したんだ」
「あぁ。そして、最後の大事なピースをワトソンくん、君が持って帰ってくれた」
みんなの視線が一気に僕に集まる。
「えっと、はい。先輩から教えてもらったお店でその写真を見せると、やはりそのカメラは珍しいようで、すぐに持ち主が分かりました。下の名前だけ聞いた時には分からなかったんですが、その人の名字を聞いて驚きました。だって……」
僕が言葉を続けようと息を吸い込んだとき、今までただ黙って僕達の話に耳を傾けていた彼女が口を開いた。
「あの……話は何となく分かりました。そして最初は気づかなかったんですけど、その写真に写ったのが私だというのも分かりました」
「え!」
佐々木くんが文字通り目を丸くしている。
「あの時あそこにいたのは夏川……だったのか……?」
彼女がコクンと頷いたのを見て、佐々木くんの目がより一層見開いた。
「僕も驚いたんだ。佐々木くんの探していた人が、まさか同じクラスにいるなんてね」
「夏川もカメラ、好きなのか?」
「うん、特にフィルムカメラが。去年の誕生日に、おじいちゃんからそのカメラをもらってさ……」
「……あの、ごめん!」
佐々木くんが彼女に向かって勢い良く頭を下げた。
「え、どうしたの!?」
「だって俺許可も取らずに、ただすごく綺麗だなと思って、夏川の写真勝手に撮っちゃったから」
「ううん、謝る必要なんてないよ。むしろありがとう。こんなにいい写真を撮ってくれて」
彼女がそう微笑むと、佐々木くんはホッと胸を撫で下ろしたように笑った。
「さて、では約束通り、佐々木くんは我が推理研究会に入部してくれるということでいいかな?」
「え!?」
突然の展開に言葉を失った僕を横目に佐々木くんが頷いた。
「ワトソンくんには言いそびれていたが、写真の彼女を見つけた暁には、うちの部に入ると彼と約束を交わしていたのだよ」
佐々木くんがうちに写真を持ってきた時、2人で何やら話していたのはこの事だったのか。
「でも、佐々木くんは推研より写真部とかがいいんじゃ……」
「うちには写真部がないんだよね〜、それが。だから僕も従兄弟の鈴之助が作った推研に間借りさせてもらっているわけで。まぁ僕はカメラオタクの野鳥好きで、趣味の野鳥撮影がメインだから学校での活動実績はほとんどないんだけどね〜」
……先輩が松田くんの従兄弟……? どうりで、どこかで見覚えのある顔立ちだと思ったわけだ。
「ついでにどうかな、そこの君も」
松田くんがそう言って夏川さんの方を見た。
「どうって私が推研にですか!?」
思いも寄らない提案に驚いている彼女に向かって、松田くんはさも当然かのような顔で頷く。
彼女は言葉を詰まらせたものの、佐々木くんの方に視線をやると覚悟が決まったのか、松田くんに大きく頷き返した。
「私も……推研に入部します! いつか私もこんな写真が撮れるようにもっと上達したいので!」
「では決まりだ。これで5人揃った。晴れて、我らが推理研究会が部活動として認められることになる」
「え? 待って。じゃあ、松田くんは最初からこれが目的で今回の件を引き受けたの?」
あまりに完璧な事の運びに、僕の理解はまだ追いつかない。
「あぁいかにも。なぜなら私は、桜高のホームズとまで呼ばれる名探偵だからね」
名探偵の“めい”を強調して言った松田くんの顔は、今日1番の満足気な顔だった。
「ときにワトソンくん」
「あ、うん」
この呼ばれ方もすっかり馴染んでしまった。
「君に頼みたいことがあるんだ。この名探偵の良き友人にして名助手、ワトソンくんにしか頼めないことだ」
名助手はもちろん、良き友人と呼ばれたのも初めてだった。
「うん、どうしたの?」
「我が推理研究会の顧問を引き受けてくれる先生を、急ぎ探してくれないか」