今宵

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『街へ』


 私は山の麓の集落で生まれ育った。
 今ではトンネルが通り、街まで車で30分ほどで行けるようになったが、当時はまだ街に行くまで1時間ほどかかっていた。
 当然、歩くには長すぎる距離なので、集落の人々の移動手段は主に自家用車か、1日2本、朝と夕方に1本ずつのバスだけだった。

 小学校に上がった年、私は初めて一人バスに乗り、街まで買い物に行くことになった。
 その当時、私は一人で街に行きたいお年頃で、流行りのかわいい動物の絵がついたボールペンが欲しいからと、母に駄々をこねたのだ。
 普段、買い物をしに街に行く時は父の軽自動車を使っていて、時々私も一緒に連れて行ってもらっていたが、バスに乗るのは以前母と乗ったきりで2度目だった。
「いってきまーす」
「くれぐれも帰りのバスには乗り遅れないようにね」
「はぁーい」
 母にバス代とボールペン代をもらった私はそれをお気に入りのポシェットにしまい、緊張しながらも心踊るような気持ちで朝早くにバスへと乗り込んだ。

 最初こそ窓からの景色を眺めて街への期待を膨らませていたものの、早起きをしたせいか、すぐに私のまぶたはゆっくりと落ちていった。
 乗り物の振動というのは不思議なもので、私はゆりかごに揺られるようにだんだんと眠たくなっていったのだ。

 夢の中で鳴るアナウンスにハッと目を覚ますと、そこはすでに降りるはずのバス停だった。
 慌てて飛び降りたバスを見送り、振り返った私は、目の前に現れた街並みに困惑した。
 何度も訪れたことがあるはずの景色が、いつもと全く違って見えたのだ。カラフルな街並みをカラフルな装いの人々が歩き、辺りからは嗅いだことのない甘い香りがふんわりと漂ってきた。
 気のせいかなと街をしばらく歩き回ってみても、やはりそこにはいつもと違う不思議な景色が広がっていた。
「すみません、近くに文房具屋さんはありませんか?」
 道行く人にそう尋ねてみても首を横に振るばかりで、目当ての店は見つからない。
「すみません、かわいい動物のボールペンを探してるんですが、知りませんか?」
 そう尋ねてもやはり同じだった。
 どうしたらいいのか訳も分からず泣きそうになっていた私の元に、遠くから一人のお兄さんが近づいてきた。
 赤いトンガリ帽にオレンジの大きな襟がついた青いシャツ。黄色いズボンの広がった裾をヒラヒラとなびかせながら歩くそのお兄さんは、まるで小さい頃に読んだ絵本の中から飛び出してきたようだった。
「やぁ、お嬢さん。動物のボールペンをお探しなのかい?」
 私がコクリと頷くと、彼は「じゃあ、ついてきて」と行って歩き出した。
 彼は人混みの中をかき分けて進んでいく。見失わないように必死に足を動かすと、やがて人混みの中を抜けて大きな広場に出た。
 広場の真ん中には大きくてカラフルな三角屋根のテントが立っていて、中からはたくさんの歓声が聞こえてくる。テントの周りにはこれまたカラフルな旗がいくつも立っていて、私はその光景に目を奪われた。
「これは何?」
「この街で一番人気のサーカスだよ。君はサーカスを見るのは初めてかい?」
「サーカスって、絵本とかで見るあのサーカス?」
「そうさ。ちょっとこっちへおいで」
 人差し指を口に当てて私を手招いた。

 カラフルなお兄さんはテントの裏側に回ると、身を潜めながら小さな入り口をくぐった。私も同じようにマネをする。
 テントの中は木の骨組みに支えられていて、表からは想像のつかないような手作り感が溢れていた。
「このハシゴを登るよ。さぁ手を貸して」
 ヒンヤリとした彼の手を握ってハシゴを登ると、大人が2人入れるか入れないかくらいの小さな屋根裏部屋に出た。
「ほら、ここから覗いてごらん」
 言われた通りテントの布に空いた小さな穴を覗いてみると、そこからはサーカスのステージがよく見下ろせた。
「ここは秘密の特等席なんだ」
 私はそこから見える初めてのサーカスに夢中になった。
 人間離れした団員達、中に人間が入っているのではと疑うような賢い動物たち。ある者はクルッと回り、ある者はピョンと飛び越え、体の大きなゾウが火の輪っかをくぐり抜けた時には、観客たちと一緒になって私も大きな拍手をした。

「どうだいサーカスは。素晴らしいだろ?」
「はい!」
「俺ももうすぐこの舞台に立つんだ」
「お兄さんもサーカスに出るんですか?」
「あぁ、そうさ」
 彼は誇らしげに頷いた。

「観客が出てくる前に、土産屋でボールペンを探そう」
 ハシゴを降り、中のテントの下をくぐり抜けると、そこにはサーカスをモチーフにした様々なお土産が並んでいた。
「ボールペンはここだね」
 ウマやライオン、トラにクマ。そして演目の中で私が一番感動した火をくぐるゾウのボールペンもあった。元々欲しいと思っていた猫のボールペンはなかったが、私はそのゾウのボールペンをとても気に入った。
「これにします!」
「実は、僕もそれがオススメだったんだ」
 お兄さんはそう言って優しく笑った。

 ボールペンの会計を済ませてテントの外に出ると、外はもう空がオレンジ色に染まっていた。
「この街にはもっと楽しい場所があるんだ。せっかくだから、もう少し見て回らないかい?」
 本当は、私もそうしたかった。だが、バスに乗り遅れると母に怒られてしまう。
 正直にそう伝えると、お兄さんはバス停まで私を送ってくれた。
「さぁ、バスが来たよ」
「はい。今日はありがとうございました! とっても楽しかったです!」
「それは良かった。今度はぜひ、僕がステージに立ってる姿を見にきて。また特等席を用意しておくからさ」
 私を見てそう言った彼は、片目を閉じて笑った。

 そこから家へ着くまでの記憶はなぜかはっきりしない。ただ、次の日の朝、起きたら枕元にゾウのボールペンが転がっていた。
 それからその話を家族や友達にしたが、街にサーカスが来ていたと言っても誰も信じてはくれなかった。
 直接サーカスを見てもらえば分かるだろうと、数日後に両親と街に行って探してもみたが、サーカスどころかあのカラフルな街並みすらどこにもなかった。
 今でもあの時の観客の歓声とステージ上から伝わる火の熱さははっきりと覚えていて、あれが夢の中だったとは思えない。
 でもしばらくすると、それを唯一裏付ける証拠だったボールペンもどこかに失くしてしまったので、私はその記憶に自信が持てなくなった。

 大学入学で遠くの町に引っ越し、そこで就職と結婚、出産を経た私は、17年ぶりに生まれ故郷に帰ってきた。
「あのね、お母さん。街にかわいい文房具がたくさん置いてある新しいお店ができたって、舞ちゃんが言ってたんだけどね」
 娘はそう小学校の友達の名前を出すと、バスに乗って一人でその店に行きたいと言い出した。
 昔と違って今は、昔の半分ほどの時間があれば街まで行くことができる。ただ、バスの本数は相変わらずだ。

「バスに乗り遅れたら帰ってこられないからね」
 翌朝そう言って私が見送ると、「分かった分かった」と娘は頷き、意気揚々と家を出て行った。

 夕方、眠そうな目で帰ってきた娘が手にしていたものを見て、私は驚いた。
 あの時私が買ったものと同じゾウのボールペンを、彼女が握りしめていたのだ。

 夕食も食べずにすぐに布団に潜り、眠ってしまった娘の寝顔を私は見つめる。
 心なしかいつもより楽しそうな寝顔をしている気がする。
 一体どんな夢を見ているのだろうか。もしかしたら、サーカスの続きを楽しんでいるのかもしれない。
 私はそんな不思議なことを考えながら、静かに寝息を立てる娘の頭をそっと撫でた。

1/29/2024, 10:18:30 AM