今宵

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『優しさ』


「間宮。先方との打ち合わせ、急遽日程早まったから、急ぎ調整頼む」
「あ、はい、分かりました」
 時計の時刻は定時まであと15分を示している。だが、これを終わらせないことには帰れない。

 課長に頼まれた仕事を急いで片付けていると、隣の席の後輩が私のスーツの裾を少し引っ張って、何やら頼みごとのある顔をしてきた。
「間宮さん、ちょっとすみません。明日の会議の資料がまだ上手くまとまらなくて……」
「ちょっと見せてね……うん、前見たときより良くなってるから、あとは具体的な内容を盛り込むと良さそう」
 ついでに「こことここは……」と修正点も伝えていく。
「なるほどです……ただ、今日はちょっとこれから用があって、どうしても定時で帰らなきゃいけなくて……」
 そういうことか。
「じゃあ私やっとくから、先帰っていいよ」
「え、いいんですかぁ!?」
 彼女がそう、甘ったるい声で言う。
「うん。私は、この後予定ないから」
 少しばかり嫌味を言ったつもりだったが、彼女にそれを気にする素振りはない。
「先輩、優しいので好きです! ありがとうございまぁす」
 そう言いながらすでに、彼女は手にしっかりとバッグを握りしめていた。
 退勤する彼女の背中を目で追いながら、彼女に聞こえないようにため息をつく。
「間宮」
「……はい」
 また誰かの頼みごとだろうかと振り返る。
「何、気の抜けた返事してんだよ、まったく。そんなんで大丈夫なのか?」
 そう表情のないぶっきらぼうな言い方をするのは、この会社で私の唯一の同期、中川だ。
「大丈夫って何が? 困ってる時はお互いさまだし……」
「お互いさまっていうか、いつもお前が一方的に押し付けられてるだけだろ」
「……そんなことない。とにかく大丈夫だから」

 さっきはああ言ったものの、今日は終電コースかもしれない。
 ふと見上げた時計を見上げると、すでに定時から3時間以上が過ぎていた。
 机の引き出しに忍ばせていおいたエナジードリンクで、溜まった疲れを胃に流し込む。静かな部屋に、時計の秒針と私の叩くキーボードの音だけが響く。

「お前、まだいたのかよ」
 机の上に転がるエナジードリンクの空が4本に増えた頃、退勤したはずの中川がなぜか会社に戻って来た。
「まぁ、うん。思ったより時間かかっちゃって……てか中川こそ何でいるのよ」
「俺はその、あれだ。散歩の途中……てか、そんなことどうでもいいだろ」
 なぜか、いつも以上にトゲがある気がする。
「何? もしかして怒ってる?」
「別に、怒ってなんか……いや、やっぱ怒ってるのかもしれないな」
「ねぇ、何言ってんの?」
「だから、お前のそのバカみたいな優しさが鬱陶しいって言ってんだよ! もっと自分勝手に生きろよ!」
 中川の荒げた声が胸に突き刺さる。
「いや、私優しくなんかないし。鬱陶しいなんて言われる筋合いもないし。私は別に今のままでも……」
 無意識に私の頬に冷たいものが流れた。
「あ、いや、泣かせるつもりじゃなかったんだ。悪い……」
 私は黙って首を横に振る。
 どうして、涙が出るのだろう。かけられた言葉は優しい言葉じゃなくて、むしろキツイ事だったのに、どうしてこうも心が楽になったのだろうか。

「これ……」
 ハンカチでも貸してくれるのかと思ったら、差し出されたのは2本の缶コーヒーだった。
「どっちか選んで」
「じゃあ……」
 いつもはブラックコーヒーを好んで飲むが、今日は脳が甘いものを欲しがっていた。
 私がカフェオレを選ぶと中川は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに甘くない方の缶の口を開けた。
「ねぇ、中川ってさ、ブラック飲めないでしょ?」
「……んなわけないだろ」
 そう言ってコーヒーを流し込む様子は、意地を張って無理に飲んでいるようにしか見えない。
「あのさ……」
「ん?」
「ありがとね……コーヒーのこと」
 素直にお礼を言えなかった私は、そう言ってとっさに缶を傾けた。
「別に……ほら、さっさと続きやるぞ」
「え、手伝ってくれるの?」
「それ以外に何しに来んだよ」
「……散歩。でしょ?」
 私がいたずらっぽく笑うと、中川がムスッとした顔をした。

 自分勝手に生きるってどうしたらいいのか、私にはまだ分からない。それに、私は断るのが苦手なだけで優しくともなんともないんだ。
 自分の方が私なんかよりずっと優しいじゃないかと、私は2本のコーヒーの空き缶を見て思った。

1/28/2024, 10:26:31 AM