『こんな夢を見た』
プールいっぱいのあんこ。表面はしっかりと粒が立っていて、甘い香りが漂ってくる。
どうしたことだろう。私好みの粒あんが、あろうことか25mプールをいっぱいにしている。
母校である近所の中学校のプールは、本来この時期水が抜かれて空っぽのはずだ。冬場は水の代わりにあんこを詰めておくなど聞いたことがない。いや、そんな馬鹿な話あるわけないのだ。
このあまりにおかしな状況をどう受け止めようかと辺りを見渡したものの、夜の学校にひと気はない。
どこからか猫の声がするようだが、この夜の闇の中ではその姿を捉えることもできない。
ただ、プールの粒をぼんやりと浮かび上がらせる唯一の光は今にも落ちてきそうなほど大きな月の明かりだけだ。
そこで私は1つの欲望を抱いた。
履いていた靴下を脱ぎ、羽織っていた上着を脱ぎ捨て身軽になった私は、プールの縁にかかとを掛けるとそのまま背中からあんこの海に倒れ込んだ。
「ボテッ」というような思ったより重たい音がしたが、何故か体は痛くない。むしろゆっくりと沈み込んで行く感じが心地いいときた。
あっという間に埋まってしまった手のひらを水面に出す。いや、この場合は水面ではないのかもしれないが……
まぁいい。そして、その手で掬えるだけのあんこを掬って口に運ぶ……
ん、ちょっと待て。
私はあんこを持ったままの手を止めて、視界に映った白くて丸いものを見つめた。
あんなところに美味そうな餅があるじゃないか。あの白くてまんまるいかたまりは、このあんこを食べ切るのに丁度いい大きさと見た。あんこに餅。最高の組み合わせだ。
私は頭上に向かって目一杯手を伸ばす。
もう少しで手が届きそうになった私の口元には、すでにだらしない笑みが浮かぶ。
その時。何やら大きくて黒いものが私の顔に落ちてきた。
さっきまで漂っていた甘い香りとは打って変わって、妙に嗅ぎなれた獣臭がする。
いや匂いがどうこうと言っている場合ではない。人間一にも二にも息を吸わなければ始まらない。
口を塞がれてバタバタと手足を動かす私の耳元で、どこかの猫が鳴いた。
だが私がその事に考えを巡らせる前に、私は限界を迎えた。
目を開けると顔の上に飼い猫が尻を下ろしていた。
私がそれを持ち上げると猫が不機嫌な声で「ニャー」と鳴く。
「あと少しで美味そうなあんこ餅が食えたっていうのに、お前ってやつは……」
私が自分に文句を言っていると知って知らずか、猫がもう一度声をあげた。
とまぁ今日はこんな夢を見たわけたが、一月ももう終わろうとしているのにまだ気分は正月のようで情けない。
この時期にこたつでうたた寝なんかをすると、よくこんな滑稽な夢を見る。きっと浅い眠りのせいだろうが、せめて最後は欲を満たして目覚めたいものだ。
それにしても、随分とあからさまな夢の中にいるにも関わらず、目覚めるまでそこが夢の中だと気が付かないというのは一体どうしてなのだろうか。
いや、夢と知らずに食う餅の方がきっと美味かろう。
『タイムマシーン』
私には憧れの人がいる。
背はスラッと高く、優しい低い声を持ち、頭の中に浮かぶ顔はもうはっきりとしないけど、抱きかかえてくれた時の腕の心強さだけは覚えている。
その人は私の命の恩人であり、おそらく私が初めて好きになった人。
「で、その初恋の相手が忘れられないから佐伯くんを振ったと?」
「え!? いやそういうわけじゃなくて……」
中学からの親友、なおちゃんは私の唯一何でも話せる相手だ。
「じゃあ何? うちの学年の女子達が何人も狙っているという彼をその場で振った理由が他にあるとおっしゃるんですか?」
まるで記者の取材のような勢いで、なおちゃんがマイク代わりのシャーペンを私に向ける。
「理由ってほどではないんだけど、今はそういうのはいいかなって……」
これは嘘じゃなかった。三ヶ月後には本格的に受験生となる今、部活はともかく、勉強以外のことが考えられるほど私は器用じゃない。
「ふ〜ん……まぁ葉月がそう言うならいいけどさ」
まだ納得がいってなさそうな顔でなおちゃんはそう言う。
「てかさ、その葉月の初恋の人。近所に住んでる人じゃなかったの? そんな田舎のアパートの前を通りかかった人なんて、探せばすぐに見つかりそうなもんなのに」
「それがね、私もそう思ってお母さんとか近所の人とかに聞いてまわったけど、誰一人そんな人を知ってる人はいなかったの」
「じゃあホントにただの通りすがりの他所の町の人だったのかもねぇ」
「逃げる時ね、あの人は腕に抱えた私を庇いながら火の中に飛び込んだから、外に出たとき腕に火傷を負ってたの。でも手当てもせずにすぐにどこかに消えちゃった。私、お礼すら言えなくてさ……」
「そんなヒーローみたいな人が相手じゃ、あの佐伯くんでもさすがに敵わないかぁ」
なおちゃんが茶化すように笑う。
「だから、そんなんじゃないって」
「でも、条件だけでいったら碧もいい線いってると思うけどなぁ」
「何で碧が出てくるの!?」
「だって2人は幼馴染でしょ? それも幼稚園の時からの。背が高くて、声がいい感じに低くて、あいつあぁ見えて筋肉も結構あるし。もしかしたら今の葉月でも抱えられるんじゃない?」
ニヤニヤしながらこっちを見るなおちゃんの言葉を私はすぐに否定する。
「ないない。碧はただの幼馴染、ていうか腐れ縁。第一、あいつはあの人みたいに優しくない。今朝だって、風で髪がグシャグシャになってるからってさ、『お前髪型変えた? 似合ってるな』ってバカにして笑うんだよ! ホントありえないんだから!」
真面目にそう言ったつもりなのに、なおちゃんには、またいつものが始まったと言わんばかりに「はいはい」と聞き流された。
私は課題のプリントを眺めながら10年前の出来事を思い出す。
小学1年生の冬、当時私の住んでいたアパートが火事で全焼した。火元は下の階の住人が消し忘れたストーブだった。
学校が休みだったその日、母が家を空けていたほんの20分の間にそれは起きた。気づいた時にはもう玄関の所に火がまわっていて、私はどうすることもできずに幼いながらに死を覚悟したのだ。
ところが、煙が充満した部屋で意識が朦朧となっていく中、彼は現れた。
その人は『もう大丈夫』と私を抱きかかえると、その場にあった父の厚手のコートを私に掛け、出口を塞ぐ火の中に飛び込んでいった。
呼吸もままならない程の熱気を抜け、どうにか火を避けながら下まで辿り着くと、彼は丁度到着した消防隊員に私を預けてその場を離れていった。
人混みの中に母の姿を見つけ安堵の気持ちでいっぱいになった私は彼の背中を目で追うことはなく、その後、彼の行方は分からなくなった。
あの時、彼がいなかったら私は今ここにいない。
彼の姿を思い出すたび、返すことのできない程の感謝と、きっと伝えることのできないだろう思いの狭間で私の心は揺れた。
「おはよ〜葉月! 今日もギリギリセーフ」
なおちゃんが遅刻ギリギリに登校してくるのはいつもの事だ。
「おはよー。なおちゃん、家すぐそこなのに相変わらずだね」
「これが近すぎるとかえってさ、家出るタイミングが難しいんだよね〜」
どうやらなおちゃんには余裕を持って早めに家を出るという選択肢はないらしい。
もうほとんどの生徒が揃った教室をなおちゃんは見渡した。
「あれ、碧まだ来てないの? 私より遅いなんてめずらしいじゃん」
なおちゃんに言われて碧の席に視線を送ると、確かにまだ姿がなかった。
「ホントだ。寝坊でもしたんでしょ。そのうち開き直って登校してくるよ」
でも、1時限目が終わり、2限目と3限目が終わり、4時限目が始まっても碧は学校に来なかった。
4時限目が終わったあと、授業終わりの担任を捕まえた私は碧が休んだ理由を知らないか尋ねてみた。
「あぁ。なんや怪我したって病院行ったらしいわ。様子見て2、3日は休ませますってあいつの母親から連絡があったわ……」
担任の言葉は途中から耳に入ってこなかった。
怪我したってなんだ。どれくらいの程度のどんな怪我なのか。
そんな止めどない疑問と漠然した不安で私の頭はいっぱいになり、私は午後の授業をずっと上の空で過ごした。
放課後、私は久しぶりに碧の家を訪ねた。
インターフォンを押してしばらく待つと、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「おう」
そう言って顔を出した碧の右腕には肩の近くまで痛々しげな包帯が巻かれていた。
「『おう』じゃないでしょ! 病院行って学校休んだ上に、あと2、3日も休むだなんて」
「ったく大げさなんだよあの人は。明日には学校行くっつうの」
「そんなんで大丈夫なの? ていうか何でそんな怪我したの」
「これはその……別に」
そう顔を背けて片方の口角を歪めるのは、碧が嘘をついてる時に表れる癖だ。
問いただそうとしたその時、碧の包帯をしていない方の腕に付けられた古い時計が私の目に入った。文字盤は何故か数字が10までしかなく、その文字盤を覆う部分には深くヒビが入っている。
「ちょっと待って。私、この時計どこかで……」
頭の中に10年前の映像が浮かぶ。
迫りくる炎の中、私をしっかりと抱えたその腕にそれと同じような時計があった。
「いや違う。これは貰い物で、今はこの包帯に合うかなってたまたま……」
「数字が10までしかない時計なんて普通ないよ! その怪我ってまさか火傷だったり……いや、そんなわけ……」
いろんな可能性が私の頭の中によぎった。
私は混乱を振り払うように、陽が落ちかけた家の前の道路に飛び出した。
「危ない!!」
その声に振り返ると、すぐそこにトラックのヘッドライトが迫ってきていた。
不意の出来事にその場に立ち尽くした私は、突然どこからか強い力に引っ張られた。
「危ないだろ! お前がここで死んだら助けた意味がないじゃないか!」
気がつくと私は碧の腕に引き寄せられていた。
「……今、なんて……」
「だから、お前が死ぬなんてのは一度で十分なんだよ!」
「私が死んだって……私、生きてるよ」
「そうだ。でも俺が元いた世界では死んでんだよ、あの火事で」
「じゃあ……やっぱり、あの時のあの人……あの時、火の中から私を助けてくれたのは……」
「俺はお前のいなくなった世界を生きていた。あの火事を、どうすることもできずにただ見ているしかなかったことをずっと後悔しながら」
あの時、同じく小学生だった碧もあの現場にいたのだ。
「それから10年が経って、お前を助けるチャンスをもらった。この時計で過去に戻れるってな」
碧がヒビの入った時計をこちらに向ける。
「そんな危ないことして、碧まで死んだらどうするの」
「俺が死ぬわけないだろ。お前を助けないままで死ねるかよ」
私の命の恩人は碧だったのだ。10年憧れて、探し続けた相手はこんなにも遠くて近くにいたのだ。
「碧……私ずっと探してた。あの時私を助けてくれた誰かを。まだお礼も言ってなかったから」
私は碧と視線を合わせた。
「私を助けてくれてありがとう」
私がそう言うと碧は黙って頷いた。
「あのさ、こんな事言って申し訳ないんだけど」
「ん?」
「どうせ助けに戻るんだったら、火の中にじゃなくて、もっと早くに来てくれれば良かったんじゃない?」
碧が意表を突かれたような目でこっちを見る。
「だってそうでしょ。わざわざ火事が起こってから助けに来るなんて」
「俺はただ、あの時助けられなかった瞬間に戻ろうと思って……」
「碧って、前の世界でも相変わらずだったんだね」
「はぁ!? それを言うならあの頃の葉月はもっとこう、おしとやかで愛嬌があって……」
「それどういう意味! まるで今の私がそうじゃないみたいじゃん!」
私が食って掛かると碧がニヤッと笑う。
その表情に一瞬顔をしかめた私は、ふと浮かんだ疑問を口に出した。
「今の碧が別の世界から来た碧なら、この世界にいた碧はどこに行ったんだろ」
私の疑問に少し考え込んだ碧が口を開こうとした時、突然夜の住宅街に冷たい風が吹き込んだ。その風で私の髪が乱れる。
そんな私を見て隣にいた碧が吹き出した。
「なんなの、失礼な」
私に合わせて少し腰を落とした碧が私の目を見て笑う。
「その髪型似合ってるよ」
『特別な夜』
「ねぇ、お母さん」
「うん?」
こうやって布団を横に並べて寝るのも、もう当分ないのかもしれないと思うと胸がギュッとなる。
灯りを消した部屋の天井を私は見つめた。
「お父さんと結婚する時さ、どんな感じだった……?」
「何よいきなり」
「いや、聞いたことなかったなと思って」
さっきまで冷たかった布団がやっと体温で温まってきた。
「どんな感じって言われてもね」
「ほら……緊張したとか、眠れなかったとかさ、怖かったとか逃げたくなったとか……」
私がそう言うと母が吹き出して笑った。
「何で笑うのよ」
「だって前向きな気持ちが1つもないじゃない」
「まぁそうだよね。お母さん、私と違ってめちゃくちゃ前向きだもん」
「そう。だから結婚する前の晩も、自分でもびっくりするぐらいぐっすり眠ったわよ」
押入れに仕舞ってある母の若い頃の写真を思い浮かべてみる。
「なんか想像つく」
「でしょ? で、ちなみにさっきのは胡桃の今の心境?」
「うーん……緊張とか眠れそうにないとかはそうなんだけど、逃げたいかと言われると分かんない」
「まぁ感情なんてそうハッキリと言葉に出来ないものよ」
「何でお母さんは怖いと思わなかったの? 私なんて結婚するのは彼よりむしろ私の希望だったのに、今になって少し考えちゃってるっていうのに……」
少し間があったあと、母が口を開いた。
「人はね、知らないものが怖いのよ。知らないから最悪の想像をするの。最良の想像をすればいいのに大抵はそうならない。これは私もそう。でも一度知ってしまえば、実際は案外大したことないって思えたりするものなのよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
母のこういうはっきりとした物言いは、いつも不安ばかりを募らせる私の気持ちを落ち着かせてくれる。
「ねぇ……」
「うん」
いつの頃からかできていた天井の染みを眺めながら私は言う。
「あのさ。私、生まれてきて良かった……」
「どうしたのよ突然」
昔、母に放った一言が頭をよぎる。
「そう思えるまで時間がかかったけど、やっと言えそうな気がした。あの時言った言葉は無かったことにはならないと思うけどさ……」
「ううん。あなたが今そう思っているだけで十分」
天井の染みが滲んでいく。
そんな私に気づいた母からお叱りが飛んでくる。
「ちょっと。明日、目が腫れたらどうするの」
「うん、分かってる。明日のためにすごく準備してきたのに全部台無しになっちゃう」
「分かってるなら早く寝なさい」
私はいつまで経っても母の前では子供のままだ。
「……おやすみ」
「うん。おやすみ」
こっちに向いた母の背中を見るように、私は体の向きを変えた。
羽毛布団に丸まった母の背は、昔はもっと大きく見えていたような気がする。それだけ私が大きくなったんだろう。
『生まれてこなければ良かった』
あの時私はこう言った。
母を責め立てるつもりで、母に向かって。
その時の罪悪感は、今でもまだ胸のしこりとして残ったままだ。
ゆっくり上下する母の背中からは、母がもう眠っているかどうか分からない。
ずっと言いたくて、言えなくて、でも言わなきゃいけなかった言葉があった。
「産んでくれてありがとう」
私は小さくそう呟いた。
『海の底』
頭上に広がる青は、空の青ではない。
ここでは何もかもが青に染まっている。舗装された道路も、高くそびえ立つビルも、電気で動く車も、鏡に映った自分の顔さえも。
だが、実際にそれらが青色をしているわけではない。
深い海の底にたった1つ届く青色の光が、この街を青色に染め上げているのだ。
ぼくは海の底にあるこの街で生まれた。海から出たことは一度もない。だから本当は本物の空の色を知らない。
ただ昔、人間が地上で生活していたことは知ってるし、その時の映像も見たことがある。
桃色の花を咲かせる桜、燃え盛る炎、黄色に茶色の網目が映えるキリン。ぼくの知らないたくさんの色がそこにはあった。
なぜ地上で暮らせないのかと大人に聞いたことがある。
だけど誰も答えてはくれなかった。ただ大人たちは真っ青な顔で互いに視線を送りあった。この街のすべてが元々真っ青だというのにこんな言い方をするのはおかしな話なんだけど、やっぱりあの顔は真っ青って言うのが正しいと思う。
このことを同い年で親友のたっちゃんに話してみたけど、たっちゃんは「ふ〜ん」と言っただけで、あんまり深く考えてないみたいだった。
だからといってはなんだけど、ぼくは自分で調べてみることにした。1度でいいから青以外の色を見てみたかったんだ。
ぼくはこの街で一番重要な施設(父さんがそう言ってた)にこっそり忍び込んだ。前にたっちゃんが空気口を使って忍び込むのについて行ったから簡単だった。まぁ、途中で頭を5回くらいぶつけたけど。
でもぼくは後悔した。秘密なんて知るもんじゃなかったって。
大人が何も答えなかった理由。いや、答えられなかった理由。
すべては大人のせいだ。こんな海の底深くで暮らさなければならなかったのは大人が原因だったんだ。
正しくは、今の大人がまだ子どもたった頃の大人がしたことらしい。
争いが絶えなかったその頃の地上で、その大人たちは間違った答えを選んで世界を壊してしまった。
壊したものは元には戻らない。それをぼくは知ってる。
だけどぼくはあきらめないって決めた。
だって青しかない世界なんてつまらないじゃないか。
いつかぼくらも大人になる。
でも大人みたいな大人にはならない。
ぼくはこの手で、色に溢れた世界を取り戻す。
『君に会いたくて』
電車が揺れて、バランスを崩した。
ドアの前に立っていた私は、空いていた方の手でとっさに近くの手すりを掴んだ。
通学時間帯にはまだ少し早いこの時間の車内には制服を来た姿はまばらで、多くの学生はこの一本後の電車を利用している。
私も高校に入学した当初はその電車に乗っていたが、自宅の最寄り駅に到着する頃にはすでに混雑しているその電車に、毎朝押し込まれるようにして乗らなければならないことが私には苦痛だった。
ある時からこの時間の電車に乗り始めたところ、通学が随分と楽になった。
代わりに朝起きる時間も早くなってしまったが、その分通学時間と学校に着いてからの時間を趣味の読書に充てられるようになったので十分満足している。
今日も私はいつものように早朝の電車に揺られながら小説に読み耽っていた。
ちょうど昨日から読み始めた推理小説のクライマックスに差し掛かり、私は夢中でページをめくる。
「……あの……あの!」
誰かが私の肩を叩いた。
顔を上げると、最近この時間によく見かける他校の男子高生が目の前に立っていた。
どうやら彼はずっと私に喋りかけていたようだったが、本に集中しすぎていて全然耳に入っていなかったらしい。
「えっと……?」
「降りなくていいんですか!?」
「え!」
慌ててドアの方を振り返ると、そこは私が降りなければいけない駅だった。
「あ、はい!」
読みかけの本に急いで栞を挟んだ私は、発車ベルの鳴るホームに飛び降りた。
次の日。私が電車に乗り込むと、昨日声をかけてくれた男子の姿を見つけた。
あの制服は確か、私の高校の2駅先の高校のものだ。何やら熱心に本を読んでいるから、どうやら彼も読書好きらしい。
そんなことを思いながら彼の方に視線を送っていると、本から顔を上げた彼と目が合った。
昨日のお礼がまだだったことを思い出し、彼の方に歩み寄る。そして、「ここいいですか」と空いていた彼の隣の席を指差したところ、彼は快く頷いてくれた。
「あの、昨日はありがとうございました。お礼も言わずに行ってしまいすみません」
腰を下ろした私が頭を下げると、彼はいえいえと首を振った。
「僕もたまにやっちゃうので。ついこの間も、3駅先まで乗り過ごしました。この時間は友達も乗ってないので、誰も教えてくれなくて」
彼が苦々しい笑みをこぼしたので、私も激しく同意する。
「分かります! 私も何度か乗り過ごしてしまって、その度に気をつけようと思うんですが、本を読んでると夢中になりすぎちゃうんですよね……」
しばらくの間2人で読書あるある話に花を咲かせたところで、私は彼の膝の上に伏せられた本に目を落とした。
「それ、面白いですよね!」
「あ、はい!」
彼が読んでいた本はなかなかにマニアックな外国の小説だったが、外国のストーリーに有りがちな小難しさがなく、ところどころフッと笑える面白さが私は印象に残っていた。
「私もその小説少し前に読んで、お気に入りなんです」
「僕もこの本が好きで、何度も読み返してます」
確かに彼の本には読み込んだ跡が残っていて、彼がその本をどれだけ大切にしているかが伝わってきた。
「私、小説の好みがなかなか人と合わないんですよね。だからいい小説に出会ってもいつも誰とも共有できないままなのが残念で」
「僕も同じこと思ってました。だからこの電車の中で、この本を読んでいるあなたを見かけたときはすごくびっくりて……」
「え……?」
驚いて彼の方を見ると、彼は本の上で強く握しめた拳をただ一点見つめていた。
「あ、あの、実は僕……あなたに会うためにこの電車に乗ってました!」
勢いよく言い放った彼の言葉が静かな車内にこだまする。
「えっと、それは……」
「以前、たまたまいつもより早く起きてこの電車に乗ったときにあなたがこの本を読んでいるのを見かけて。それから、あなたが他にどんな本を読んでいるのか、どんな作家が好きなのか興味が湧いてきて。話しかけたいけど勇気もないし、ただあなたが本を読む姿を遠くから眺めるのが精一杯で……」
そう早口で言葉を並べた彼の背中がだんだんと丸まっていく。
「昨日あなたが駅に着いても気づいてない様子だったので、迷惑かと思いましたが勇気を出して声をかけました」
「迷惑だなんて、そんな……」
「今日こうして話しかけてもらえて、内心は緊張が止まらなくて。あの……突然こんな話をして不快な気持ちにさせてしまってたらすみません」
私は慌てて首を横に振って否定する。
何と返したらいいか迷ってるうちにしばらく空白の時間が過ぎ、私はようやく口を開いた。
「驚きはしたけど、不快になったりしてないです。むしろ誰かと本の話が出来るとしたら、本当に嬉しいくらいで。だから話してくれてありがとうございます」
私がそう笑いかけると、彼の表情が和らいだ。
車内アナウンスが次の停車駅を告げる。
「あ、今日はちゃんと降りなくちゃ」
私がそう言うと彼が「ですね」と静かに笑った。
「あの……」
私はカバンの中から昨日読み終えたばかりの本を取り出した。
「これ推理小説なんですが、新しい切り口が結構面白くて。もし嫌じゃなければ、読んだあとに感想を交換できたら嬉しいなと思って……」
「全然嫌じゃないです! あ、でもお借りしていいんですか……」
「はい、ぜひ!」
手渡した本を嬉しそうに受け取った彼を見て、私の心も弾んだ。
ブレーキをかけた電車がゆっくりと駅に停まり、私は電車を降りる。
「あの、ありがとうございました!」
貸した本を両手で大事そうに抱えた彼がホームに立つ私に向かってそう頭を下げたので、私も返事をする。
「こちらこそ、おしゃべりに付き合ってくれてありがとうございました」
顔を上げた彼は閉まりかけたドアを見て、慌てて「また明日!」とこちらに手を振った。
耳まで真っ赤にしてそう言われると、私も顔が熱くなる。
閉まった扉の向こうの彼に私は小さく手を振った。
電車が発車し、人々がホームを後にしていく。
私は彼の言った言葉を思い出した。
「あなたに会うために、か……」
小説の主人公になったみたいで、嬉しさと気恥ずかしさが込み上げてきた。
まだ今日は始まったばかりなのに、もう明日が待ち遠しい。
早く君に会いたくて。私は駅の階段を駆け下りた。