『タイムマシーン』
私には憧れの人がいる。
背はスラッと高く、優しい低い声を持ち、頭の中に浮かぶ顔はもうはっきりとしないけど、抱きかかえてくれた時の腕の心強さだけは覚えている。
その人は私の命の恩人であり、おそらく私が初めて好きになった人。
「で、その初恋の相手が忘れられないから佐伯くんを振ったと?」
「え!? いやそういうわけじゃなくて……」
中学からの親友、なおちゃんは私の唯一何でも話せる相手だ。
「じゃあ何? うちの学年の女子達が何人も狙っているという彼をその場で振った理由が他にあるとおっしゃるんですか?」
まるで記者の取材のような勢いで、なおちゃんがマイク代わりのシャーペンを私に向ける。
「理由ってほどではないんだけど、今はそういうのはいいかなって……」
これは嘘じゃなかった。三ヶ月後には本格的に受験生となる今、部活はともかく、勉強以外のことが考えられるほど私は器用じゃない。
「ふ〜ん……まぁ葉月がそう言うならいいけどさ」
まだ納得がいってなさそうな顔でなおちゃんはそう言う。
「てかさ、その葉月の初恋の人。近所に住んでる人じゃなかったの? そんな田舎のアパートの前を通りかかった人なんて、探せばすぐに見つかりそうなもんなのに」
「それがね、私もそう思ってお母さんとか近所の人とかに聞いてまわったけど、誰一人そんな人を知ってる人はいなかったの」
「じゃあホントにただの通りすがりの他所の町の人だったのかもねぇ」
「逃げる時ね、あの人は腕に抱えた私を庇いながら火の中に飛び込んだから、外に出たとき腕に火傷を負ってたの。でも手当てもせずにすぐにどこかに消えちゃった。私、お礼すら言えなくてさ……」
「そんなヒーローみたいな人が相手じゃ、あの佐伯くんでもさすがに敵わないかぁ」
なおちゃんが茶化すように笑う。
「だから、そんなんじゃないって」
「でも、条件だけでいったら碧もいい線いってると思うけどなぁ」
「何で碧が出てくるの!?」
「だって2人は幼馴染でしょ? それも幼稚園の時からの。背が高くて、声がいい感じに低くて、あいつあぁ見えて筋肉も結構あるし。もしかしたら今の葉月でも抱えられるんじゃない?」
ニヤニヤしながらこっちを見るなおちゃんの言葉を私はすぐに否定する。
「ないない。碧はただの幼馴染、ていうか腐れ縁。第一、あいつはあの人みたいに優しくない。今朝だって、風で髪がグシャグシャになってるからってさ、『お前髪型変えた? 似合ってるな』ってバカにして笑うんだよ! ホントありえないんだから!」
真面目にそう言ったつもりなのに、なおちゃんには、またいつものが始まったと言わんばかりに「はいはい」と聞き流された。
私は課題のプリントを眺めながら10年前の出来事を思い出す。
小学1年生の冬、当時私の住んでいたアパートが火事で全焼した。火元は下の階の住人が消し忘れたストーブだった。
学校が休みだったその日、母が家を空けていたほんの20分の間にそれは起きた。気づいた時にはもう玄関の所に火がまわっていて、私はどうすることもできずに幼いながらに死を覚悟したのだ。
ところが、煙が充満した部屋で意識が朦朧となっていく中、彼は現れた。
その人は『もう大丈夫』と私を抱きかかえると、その場にあった父の厚手のコートを私に掛け、出口を塞ぐ火の中に飛び込んでいった。
呼吸もままならない程の熱気を抜け、どうにか火を避けながら下まで辿り着くと、彼は丁度到着した消防隊員に私を預けてその場を離れていった。
人混みの中に母の姿を見つけ安堵の気持ちでいっぱいになった私は彼の背中を目で追うことはなく、その後、彼の行方は分からなくなった。
あの時、彼がいなかったら私は今ここにいない。
彼の姿を思い出すたび、返すことのできない程の感謝と、きっと伝えることのできないだろう思いの狭間で私の心は揺れた。
「おはよ〜葉月! 今日もギリギリセーフ」
なおちゃんが遅刻ギリギリに登校してくるのはいつもの事だ。
「おはよー。なおちゃん、家すぐそこなのに相変わらずだね」
「これが近すぎるとかえってさ、家出るタイミングが難しいんだよね〜」
どうやらなおちゃんには余裕を持って早めに家を出るという選択肢はないらしい。
もうほとんどの生徒が揃った教室をなおちゃんは見渡した。
「あれ、碧まだ来てないの? 私より遅いなんてめずらしいじゃん」
なおちゃんに言われて碧の席に視線を送ると、確かにまだ姿がなかった。
「ホントだ。寝坊でもしたんでしょ。そのうち開き直って登校してくるよ」
でも、1時限目が終わり、2限目と3限目が終わり、4時限目が始まっても碧は学校に来なかった。
4時限目が終わったあと、授業終わりの担任を捕まえた私は碧が休んだ理由を知らないか尋ねてみた。
「あぁ。なんや怪我したって病院行ったらしいわ。様子見て2、3日は休ませますってあいつの母親から連絡があったわ……」
担任の言葉は途中から耳に入ってこなかった。
怪我したってなんだ。どれくらいの程度のどんな怪我なのか。
そんな止めどない疑問と漠然した不安で私の頭はいっぱいになり、私は午後の授業をずっと上の空で過ごした。
放課後、私は久しぶりに碧の家を訪ねた。
インターフォンを押してしばらく待つと、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「おう」
そう言って顔を出した碧の右腕には肩の近くまで痛々しげな包帯が巻かれていた。
「『おう』じゃないでしょ! 病院行って学校休んだ上に、あと2、3日も休むだなんて」
「ったく大げさなんだよあの人は。明日には学校行くっつうの」
「そんなんで大丈夫なの? ていうか何でそんな怪我したの」
「これはその……別に」
そう顔を背けて片方の口角を歪めるのは、碧が嘘をついてる時に表れる癖だ。
問いただそうとしたその時、碧の包帯をしていない方の腕に付けられた古い時計が私の目に入った。文字盤は何故か数字が10までしかなく、その文字盤を覆う部分には深くヒビが入っている。
「ちょっと待って。私、この時計どこかで……」
頭の中に10年前の映像が浮かぶ。
迫りくる炎の中、私をしっかりと抱えたその腕にそれと同じような時計があった。
「いや違う。これは貰い物で、今はこの包帯に合うかなってたまたま……」
「数字が10までしかない時計なんて普通ないよ! その怪我ってまさか火傷だったり……いや、そんなわけ……」
いろんな可能性が私の頭の中によぎった。
私は混乱を振り払うように、陽が落ちかけた家の前の道路に飛び出した。
「危ない!!」
その声に振り返ると、すぐそこにトラックのヘッドライトが迫ってきていた。
不意の出来事にその場に立ち尽くした私は、突然どこからか強い力に引っ張られた。
「危ないだろ! お前がここで死んだら助けた意味がないじゃないか!」
気がつくと私は碧の腕に引き寄せられていた。
「……今、なんて……」
「だから、お前が死ぬなんてのは一度で十分なんだよ!」
「私が死んだって……私、生きてるよ」
「そうだ。でも俺が元いた世界では死んでんだよ、あの火事で」
「じゃあ……やっぱり、あの時のあの人……あの時、火の中から私を助けてくれたのは……」
「俺はお前のいなくなった世界を生きていた。あの火事を、どうすることもできずにただ見ているしかなかったことをずっと後悔しながら」
あの時、同じく小学生だった碧もあの現場にいたのだ。
「それから10年が経って、お前を助けるチャンスをもらった。この時計で過去に戻れるってな」
碧がヒビの入った時計をこちらに向ける。
「そんな危ないことして、碧まで死んだらどうするの」
「俺が死ぬわけないだろ。お前を助けないままで死ねるかよ」
私の命の恩人は碧だったのだ。10年憧れて、探し続けた相手はこんなにも遠くて近くにいたのだ。
「碧……私ずっと探してた。あの時私を助けてくれた誰かを。まだお礼も言ってなかったから」
私は碧と視線を合わせた。
「私を助けてくれてありがとう」
私がそう言うと碧は黙って頷いた。
「あのさ、こんな事言って申し訳ないんだけど」
「ん?」
「どうせ助けに戻るんだったら、火の中にじゃなくて、もっと早くに来てくれれば良かったんじゃない?」
碧が意表を突かれたような目でこっちを見る。
「だってそうでしょ。わざわざ火事が起こってから助けに来るなんて」
「俺はただ、あの時助けられなかった瞬間に戻ろうと思って……」
「碧って、前の世界でも相変わらずだったんだね」
「はぁ!? それを言うならあの頃の葉月はもっとこう、おしとやかで愛嬌があって……」
「それどういう意味! まるで今の私がそうじゃないみたいじゃん!」
私が食って掛かると碧がニヤッと笑う。
その表情に一瞬顔をしかめた私は、ふと浮かんだ疑問を口に出した。
「今の碧が別の世界から来た碧なら、この世界にいた碧はどこに行ったんだろ」
私の疑問に少し考え込んだ碧が口を開こうとした時、突然夜の住宅街に冷たい風が吹き込んだ。その風で私の髪が乱れる。
そんな私を見て隣にいた碧が吹き出した。
「なんなの、失礼な」
私に合わせて少し腰を落とした碧が私の目を見て笑う。
「その髪型似合ってるよ」
1/22/2024, 7:36:23 PM