今宵

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『特別な夜』


「ねぇ、お母さん」
「うん?」
 こうやって布団を横に並べて寝るのも、もう当分ないのかもしれないと思うと胸がギュッとなる。
 灯りを消した部屋の天井を私は見つめた。
「お父さんと結婚する時さ、どんな感じだった……?」
「何よいきなり」
「いや、聞いたことなかったなと思って」
 さっきまで冷たかった布団がやっと体温で温まってきた。
「どんな感じって言われてもね」
「ほら……緊張したとか、眠れなかったとかさ、怖かったとか逃げたくなったとか……」
 私がそう言うと母が吹き出して笑った。
「何で笑うのよ」
「だって前向きな気持ちが1つもないじゃない」
「まぁそうだよね。お母さん、私と違ってめちゃくちゃ前向きだもん」
「そう。だから結婚する前の晩も、自分でもびっくりするぐらいぐっすり眠ったわよ」
 押入れに仕舞ってある母の若い頃の写真を思い浮かべてみる。
「なんか想像つく」
「でしょ? で、ちなみにさっきのは胡桃の今の心境?」
「うーん……緊張とか眠れそうにないとかはそうなんだけど、逃げたいかと言われると分かんない」
「まぁ感情なんてそうハッキリと言葉に出来ないものよ」
「何でお母さんは怖いと思わなかったの? 私なんて結婚するのは彼よりむしろ私の希望だったのに、今になって少し考えちゃってるっていうのに……」
 少し間があったあと、母が口を開いた。
「人はね、知らないものが怖いのよ。知らないから最悪の想像をするの。最良の想像をすればいいのに大抵はそうならない。これは私もそう。でも一度知ってしまえば、実際は案外大したことないって思えたりするものなのよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
 母のこういうはっきりとした物言いは、いつも不安ばかりを募らせる私の気持ちを落ち着かせてくれる。
「ねぇ……」
「うん」
 いつの頃からかできていた天井の染みを眺めながら私は言う。
「あのさ。私、生まれてきて良かった……」
「どうしたのよ突然」
 昔、母に放った一言が頭をよぎる。
「そう思えるまで時間がかかったけど、やっと言えそうな気がした。あの時言った言葉は無かったことにはならないと思うけどさ……」 
「ううん。あなたが今そう思っているだけで十分」
 天井の染みが滲んでいく。
 そんな私に気づいた母からお叱りが飛んでくる。
「ちょっと。明日、目が腫れたらどうするの」
「うん、分かってる。明日のためにすごく準備してきたのに全部台無しになっちゃう」
「分かってるなら早く寝なさい」
 私はいつまで経っても母の前では子供のままだ。

「……おやすみ」
「うん。おやすみ」

 こっちに向いた母の背中を見るように、私は体の向きを変えた。
 羽毛布団に丸まった母の背は、昔はもっと大きく見えていたような気がする。それだけ私が大きくなったんだろう。

『生まれてこなければ良かった』
 あの時私はこう言った。
 母を責め立てるつもりで、母に向かって。
 その時の罪悪感は、今でもまだ胸のしこりとして残ったままだ。
 ゆっくり上下する母の背中からは、母がもう眠っているかどうか分からない。
 ずっと言いたくて、言えなくて、でも言わなきゃいけなかった言葉があった。

「産んでくれてありがとう」
 私は小さくそう呟いた。

1/21/2024, 6:00:50 PM