『君に会いたくて』
電車が揺れて、バランスを崩した。
ドアの前に立っていた私は、空いていた方の手でとっさに近くの手すりを掴んだ。
通学時間帯にはまだ少し早いこの時間の車内には制服を来た姿はまばらで、多くの学生はこの一本後の電車を利用している。
私も高校に入学した当初はその電車に乗っていたが、自宅の最寄り駅に到着する頃にはすでに混雑しているその電車に、毎朝押し込まれるようにして乗らなければならないことが私には苦痛だった。
ある時からこの時間の電車に乗り始めたところ、通学が随分と楽になった。
代わりに朝起きる時間も早くなってしまったが、その分通学時間と学校に着いてからの時間を趣味の読書に充てられるようになったので十分満足している。
今日も私はいつものように早朝の電車に揺られながら小説に読み耽っていた。
ちょうど昨日から読み始めた推理小説のクライマックスに差し掛かり、私は夢中でページをめくる。
「……あの……あの!」
誰かが私の肩を叩いた。
顔を上げると、最近この時間によく見かける他校の男子高生が目の前に立っていた。
どうやら彼はずっと私に喋りかけていたようだったが、本に集中しすぎていて全然耳に入っていなかったらしい。
「えっと……?」
「降りなくていいんですか!?」
「え!」
慌ててドアの方を振り返ると、そこは私が降りなければいけない駅だった。
「あ、はい!」
読みかけの本に急いで栞を挟んだ私は、発車ベルの鳴るホームに飛び降りた。
次の日。私が電車に乗り込むと、昨日声をかけてくれた男子の姿を見つけた。
あの制服は確か、私の高校の2駅先の高校のものだ。何やら熱心に本を読んでいるから、どうやら彼も読書好きらしい。
そんなことを思いながら彼の方に視線を送っていると、本から顔を上げた彼と目が合った。
昨日のお礼がまだだったことを思い出し、彼の方に歩み寄る。そして、「ここいいですか」と空いていた彼の隣の席を指差したところ、彼は快く頷いてくれた。
「あの、昨日はありがとうございました。お礼も言わずに行ってしまいすみません」
腰を下ろした私が頭を下げると、彼はいえいえと首を振った。
「僕もたまにやっちゃうので。ついこの間も、3駅先まで乗り過ごしました。この時間は友達も乗ってないので、誰も教えてくれなくて」
彼が苦々しい笑みをこぼしたので、私も激しく同意する。
「分かります! 私も何度か乗り過ごしてしまって、その度に気をつけようと思うんですが、本を読んでると夢中になりすぎちゃうんですよね……」
しばらくの間2人で読書あるある話に花を咲かせたところで、私は彼の膝の上に伏せられた本に目を落とした。
「それ、面白いですよね!」
「あ、はい!」
彼が読んでいた本はなかなかにマニアックな外国の小説だったが、外国のストーリーに有りがちな小難しさがなく、ところどころフッと笑える面白さが私は印象に残っていた。
「私もその小説少し前に読んで、お気に入りなんです」
「僕もこの本が好きで、何度も読み返してます」
確かに彼の本には読み込んだ跡が残っていて、彼がその本をどれだけ大切にしているかが伝わってきた。
「私、小説の好みがなかなか人と合わないんですよね。だからいい小説に出会ってもいつも誰とも共有できないままなのが残念で」
「僕も同じこと思ってました。だからこの電車の中で、この本を読んでいるあなたを見かけたときはすごくびっくりて……」
「え……?」
驚いて彼の方を見ると、彼は本の上で強く握しめた拳をただ一点見つめていた。
「あ、あの、実は僕……あなたに会うためにこの電車に乗ってました!」
勢いよく言い放った彼の言葉が静かな車内にこだまする。
「えっと、それは……」
「以前、たまたまいつもより早く起きてこの電車に乗ったときにあなたがこの本を読んでいるのを見かけて。それから、あなたが他にどんな本を読んでいるのか、どんな作家が好きなのか興味が湧いてきて。話しかけたいけど勇気もないし、ただあなたが本を読む姿を遠くから眺めるのが精一杯で……」
そう早口で言葉を並べた彼の背中がだんだんと丸まっていく。
「昨日あなたが駅に着いても気づいてない様子だったので、迷惑かと思いましたが勇気を出して声をかけました」
「迷惑だなんて、そんな……」
「今日こうして話しかけてもらえて、内心は緊張が止まらなくて。あの……突然こんな話をして不快な気持ちにさせてしまってたらすみません」
私は慌てて首を横に振って否定する。
何と返したらいいか迷ってるうちにしばらく空白の時間が過ぎ、私はようやく口を開いた。
「驚きはしたけど、不快になったりしてないです。むしろ誰かと本の話が出来るとしたら、本当に嬉しいくらいで。だから話してくれてありがとうございます」
私がそう笑いかけると、彼の表情が和らいだ。
車内アナウンスが次の停車駅を告げる。
「あ、今日はちゃんと降りなくちゃ」
私がそう言うと彼が「ですね」と静かに笑った。
「あの……」
私はカバンの中から昨日読み終えたばかりの本を取り出した。
「これ推理小説なんですが、新しい切り口が結構面白くて。もし嫌じゃなければ、読んだあとに感想を交換できたら嬉しいなと思って……」
「全然嫌じゃないです! あ、でもお借りしていいんですか……」
「はい、ぜひ!」
手渡した本を嬉しそうに受け取った彼を見て、私の心も弾んだ。
ブレーキをかけた電車がゆっくりと駅に停まり、私は電車を降りる。
「あの、ありがとうございました!」
貸した本を両手で大事そうに抱えた彼がホームに立つ私に向かってそう頭を下げたので、私も返事をする。
「こちらこそ、おしゃべりに付き合ってくれてありがとうございました」
顔を上げた彼は閉まりかけたドアを見て、慌てて「また明日!」とこちらに手を振った。
耳まで真っ赤にしてそう言われると、私も顔が熱くなる。
閉まった扉の向こうの彼に私は小さく手を振った。
電車が発車し、人々がホームを後にしていく。
私は彼の言った言葉を思い出した。
「あなたに会うために、か……」
小説の主人公になったみたいで、嬉しさと気恥ずかしさが込み上げてきた。
まだ今日は始まったばかりなのに、もう明日が待ち遠しい。
早く君に会いたくて。私は駅の階段を駆け下りた。
1/19/2024, 6:21:51 PM