今宵

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『今日にさよなら』


「どーっちだ」
 あずさが握った両手をこっちに差し出す。
「いきなりなんだよ」
 そうは言ってみるものの、その両手の中身も彼女が言わんとしていることも、俺はよく知っている。
「いいからどっちか選んで」
「はいはい。じゃあこっちで」
 あずさの右手を指差すと、彼女がニヤッと笑った。
「本当にそっちでいいの? 後悔しない?」
「うーん。じゃあ、やっぱこっち?」
 次は反対の手を指差す。
「えー、そっちにしちゃうの?」
 彼女が唇を尖らせながらこっちをジロッと見る。
 正直どちらを選ぼうとなんてことはないのだ。手の中に入っているのはただの飴。右手にはレモン味、左手にはイチゴ味の飴が入っている。ただそれだけのことだった。
「じゃあこっちでいいよ」
 俺は彼女の右手を少し強引にこじ開ける。
 中から黄色い包み紙が顔を出した。
「残念でしたー! そっちはハズレ。レモン味。で、こっちがソウタの好きなイチゴ味」
 彼女の左の手のひらにはピンク色のパッケージ。
「別にレモンも嫌いじゃないし……」
「またまた大人ぶっちゃって〜。素直にイチゴ味か好きだって認めなさい」
「レモンが嫌いでイチゴ味しか食べないのはお前の方だろ」
「もぉー。そんなこと言ってるとイチゴ味あげないからね」
 彼女は制服のポケットからもう一つイチゴ味の飴を出してちらつかせた。
「……別にいいし」
 イチゴ味になんか興味がないような素振りで、俺は黄色の包み紙を大ざっぱに開き、中身を口に放り込んだ。口の中に爽やかな甘酸っぱさが広がる。
 イチゴ味が有名なこの飴。今はもう、レモン味は売られていない。だが俺は、この瞬間のレモン味を何度も繰り返し味わっている。
 淡々とレモン味を味わうような俺の姿を見てあずさが不満そうな顔をする。そして、「やっぱイチゴが良かったなんて言っても遅いんだからね」と言いながらピンクの包み紙を開く。
「いいの、俺は。レモンは今しか食べられないんだから……」
 そうぼそっと呟くと、「え?」とした表情の顔がこっちを見つめる。
「ううん、何でもない」
 昔は確かにイチゴ味しか食べられなかったが、大人になると味覚は変わってしまったようだ、
 ただ、大人になってレモン味が好きになったからというのも確かにあるが、実はそれだけではない。隣でイチゴ味を美味しそうに頬張る姿こそ、俺がこの日を繰り返し訪れる理由だった。

 なぜこの日のこの出来事だけを繰り返すことができるのかは自分でも分からない。ただ毎回決まって、彼女が両手を差し出し、俺がどちらかの味の飴を舐めおわるまでの時間が繰り返される。
 ずっと昔の過去にも同じ場面があったように思うが、あの時の俺は一体どちらの手を選んだのだろうか。今となっては思い出すこともできない。
 ただ気を抜くと、現実の──大人になった世界の光景が目に浮かび上がってくる。喪服姿の人々の中、無邪気に笑うまだ若い彼女の写真が頭から離れなかった。

 葬式の帰り道。随分とくたびれてしまった印象の昔なじみの駄菓子屋の前で、俺は久しぶりに懐かしいあの飴玉を買った。
 店にはもうイチゴ味しか置いてなくて、俺はイチゴ味の飴を2つ買った。自分で食べる分と、彼女にあげる分とで2つ。
 そうしないと彼女がいじけるから。自分だけ食べて、と俺を見て口をとがらせるから。
 そんなことを考えながら、俺は店の近くの土手で飴を舐めた。打ちひしがれるような現実から目を背けるように、昔彼女と過ごした時間を手繰り寄せた。
 そして気がついたら、10年前のあの日に遡っていた。
 最初は夢や幻覚を疑ったが、目を開けた時の俺の口の中には確かに、今はもうないはずのレモン味が残っていたのだ。

 それからというもの、俺は何度も何度もあの日を繰り返した。話したいことは山ほどあったが、話せることは限られていた。でも、ろくなことが話せなくても、彼女がそこで笑っていてくれるだけで俺の心は満たされた。辛い現実をその瞬間だけ忘れることができたから。

「あのさ……」
「ん、なに?」
 イチゴ味の飴を口の中で転がしながら、モゴモゴと彼女が答える。
「もし……この先レモン味がなくなるとしたらどう思う?」
 ふと、何気なく、俺はそう尋ねた。
「うーん……」
 彼女が考え込むように視線を空に投げる。
「私はイチゴ味の方が好きだから別にいいけど……」
「──けど……?」
 彼女の横顔を食い入るように見つめていると、急に視線がパッとあった。
「ソウタにレモン味を選ばせるっていう私の楽しみはなくなるから、やっぱり嫌かな」
「なんだよそれ」
 俺が吹き出したように笑うとあずさも声を出して笑った。
「だよなー。嫌だよなー、レモン味でもなくなんのは」
「うん、だね」
 再び空を見上げた彼女の視線を追って、俺も空を見上げる。
 雲のない青空。頬を掠めるまだ冷たい風は、どことなく青春の匂いがする気がする。

 あっという間に口の中の飴玉は、もう噛めばすぐになくなってしまうほどの小ささになった。
「ねぇ、イチゴ味はなくなんないかな?」
 彼女が微かに眉を下げてそう言った。
「ん?」
「例えこの先レモン味が売れなくなったとしても、イチゴ味はずっとなくならないかな」
「うーん。どうかな」
 俺がそう言うとあずさの目に悲しみの色が浮かんだ。
「でもさ」
 少し声に明るさを含ませて俺が言う。
「イチゴ味の販売はやめますって言われないように、俺らがいっぱいイチゴ味を買えばいいんじゃない?」
「え、なにそれ」
 ほんの少し間が空いたあと、彼女がお腹を抱えて笑った。
「私たちだけでそんなに買えるかな?」
 笑いすぎて目に涙を浮かべている。
「やってみなきゃ分からないだろ? それに本気で好きならそのくらいの心意気は必要だろ」
「うん。分かった。その代わり、ソウタも忘れないでね今言ったこと。一緒にたくさん買ってイチゴ味守るんだからね」
「ああ、分かった」
 そう頷いた瞬間口の中の飴が完全に姿を消した。
 そして視界がだんだんとぼやけていく。

 目を開けると現実に戻っていた。口の中にはまだほんのりレモンの香りがする。
 見上げた空は、あの日と同じで晴れ渡っていた。
 俺は土手から腰をあげ、少し早歩きで進み出す。
 きっともうあの日に戻ることはないだろう。たった今、俺にはやることができたから。
 もうイチゴ味を食べて笑ってくれる人は隣にいないけど、イチゴ味までなくなってしまったらきっと彼女がどこかで悲しんでしまう。そんな気がした。
 レモン味を失ったようにイチゴ味まで失ってしまわないように、俺がどうにかしないと。
 そんな馬鹿げたことをする大人になった俺を彼女は笑うだろうか。きっとお腹を抱えて笑ってくれるだろう。
 でも、それでいいんだ。
 今度は大人になった彼女をどこかで笑顔にできるのなら、俺は両手いっぱいにだってイチゴ味の飴を抱えてみせるんだから。

「さよなら」
 一瞬立ち止まり振り返って呟いた言葉は、風に乗ってどこかへ流れていった。
 もう会うことはないだろう制服姿の彼女に別れを告げた俺は、シワになったスーツの襟をピンと正して、前を向いて歩き出した。

2/19/2024, 7:49:02 AM