『ずっと隣で』
「もうええわ! どうもありがとうございました」
まばらな拍手に追い立てられるように、舞台袖の狭い階段を下りる。
舞台を下りた俺と相方の間に会話はない。控室まで無言の時間が続く。
「あ、おつかれっす」
控室に戻ると、出番を待つ芸人の視線がパラパラとこちらに向く。後輩の形ばかりの挨拶に俺は「うっす」と軽く顎を引いた。
大部屋の芸人たちの中で、俺達はもう中堅近くの立ち位置となった。後輩でも、売れれば個室があてがわれていく。シビアな世界だ。
芸歴が長いからと言って、もれなく後輩たちから尊敬されるというわけでもない。面白いか、面白くないか。それは舞台上だけでなく、舞台を下りて、生身の人間としての生き方にも求められる。
つまり俺達は彼らにとって、舞台の上でも下でも面白くない先輩だということだ。
相方であるアツムとは大学で入った漫才サークルで出会った。
学年でいうと1つ下だったが、アツムは1浪していたため年は俺と同じで、なんだかんだとすぐに意気投合した。
アツムの考えたネタを初めて聞かせてもらった時、コイツは天才なんじゃないか俺は本気で思った。
漫才を見たり真似したりするのは好きで、漫才師として売れることを夢見る俺だったが、ネタ作りの方はからっきしだめだった。だからアツムにネタ作りに才能があると分かった時には、大きく胸が高鳴った。
「一緒にやらないか」
心の準備に数日を費やした俺は、一応の先輩としての、それに一友人としての見栄もプライドもすべて捨ててアツムにそう声をかけた。
しばらく沈黙があった後、考え込むように口を開いた。
「お前とまったく同じことを、ついこの間先輩にも言われたよ」
思ってもみなかった言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「……そっちと、組むのか?」
掠れた声で尋ねた。アツムの目は見られなかった。
「時間をくれ」
アツムはそう一言言い残してその場を立ち去ると、それからしばらくサークルに顔を出さなくなった。
そんなアツムが久しぶりに顔を見せたのは、アツムを相方に誘った日から1ヶ月ほどが過ぎた時だった。
「なぁ! ついに出来たぞ!」
アツムが脇目も振らず大声でそう言いながら、まっすぐに俺の元へやってくる。
「出来たって、何が!?」
「何がじゃないだろ? ネタだよネタ! 俺とお前がする初めての漫才のネタ!」
「な、それってつまり、俺と組むってことか?」
「何言ってんだよ今さら。この1ヶ月、何のために頭を捻りに捻ってネタを考えてきたと思ってんだ」
後から分かったことだが、あの時の「時間をくれ」というのは俺とコンビを組むかどうかを考えるためではなく、俺とやるネタを考えるための時間だったらしい。
「まあそんなことはどうでもいい。とりあえず早く読んで感想聞かせてくれ」
俺達コンビの初舞台は──大成功だった。
俺が左で、アツムが右。その方が何かしっくりくるからとアツムが言い、俺も同意した。
テンポよく進む会話に、あちこちから笑い声が上がった。終わった時の盛大な拍手と客席のざわめきは、今でも忘れられない。後にも先にも、あんなに興奮する舞台はなかった。
「俺達、これからもやってけるだろうか」
舞台から下り、興奮が少し落ち着いた時俺はぽつりと呟いた。
「やるに決まってんだろ。まだ始まったばかりじゃないか」
大学を卒業した俺は、バイトをしながら劇場で漫才をさせてもらう日々を続けた。そしえ、アツムも実家の農場を手伝いながら漫才に明け暮れた。
周りの就職していったやつらのことが気にならなかったと言ったら嘘になる。だがそれでも、夢を追いかけ続けることに大きな誇りを持っていた。
「いつか絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」
何度そのやり取りをしただろうか。
だがいつからか、お互いにそう口に出すこともなくなった。
思うようにお客さんを笑わせられないし、場の空気が掴めない。そんなだから、ネタを作る方もいろんな方向に迷走した。
衝突するたびに「だったらお前がネタ書けよ」と言われると、それ以上何も言い返せなかった。
ただ、俺の中で、アツムのネタで売れたいという気持ちは揺るがなかった。舞台の上で、他の誰かの横に立っている自分が想像できなかった。俺の右側にはアツム以外考えられなかった。
そう思っているのは俺だけじゃないと思っていたのに。信じていたのに。──現実は違っていた。
劇場からの帰り道、突然のことだった。
「この辺で終わりにしないか」
「──え……」
「終わり」という言葉が頭の中で反芻する。
「もう潮時だと思うんだ。この辺で夢はきっぱり諦めて、実家に戻って農家にでもなろうと思う」
俺は言葉を失った。
正直、いつかそう言われる日が来るかもしれないと考えることはこれまでにもあった。ただ、その"いつか"が"今"だとは少しも想像していなかった。
重たい沈黙が、暗い夜道に更なる影を落とす。
そんな沈黙を破ったのはアツムだった。
「お前は、俺のネタじゃなくてもやってける。だから、他の──俺よりもっと面白いやつと組んだ方がいい」
「何言ってんだよ!」
考えるより先にそう言っていた。
「お前の他にいるわけないじゃないか! 俺の隣はこれまでも、これからも、お前しかいないんだよ!」
驚いたように口を開けてこっちを見るアツムの表情で気がついた。俺は泣いていた。そして、そのまま泣き叫ぶように続ける。
「ああいいよ! 分かったさ! お前が辞めるなら俺も辞めるよ!」
そう叫び残して俺は早足で歩き始める。そんな俺の背中に後ろから声が飛んでくる。
「お前には……お前には! 漫才でてっぺんとるって夢があるだろ!」
アツムがこっちに走り寄って、俺の肩を掴んだ。
「俺の分まで、その夢叶えてくれよ……」
アツムの声が滲む。
「俺の夢は、そんなんじゃない。お前がいない漫才なんて楽しくないし、お前が隣にいないなんて想像できないし、俺はアツムの隣でずっと漫才がしてたいんだよ!」
普段なら気恥ずかしく決して口に出せない言葉が、感情に任せて口から出た。
「──このままずっと売れなくてもか?」
俺の肩を掴むアツムの手に、さらに力がこもる。
「……いやまあ、そりゃ売れるに越したことはないけどもな」
俺がそう言うとアツムが笑った。そんなアツムを見て俺も吹き出した。
「俺達、まだやっていけると思うか」
ふと笑顔が消えたアツムがそう呟いた。
あの時──初舞台が終わった後、俺がアツムに聞いた言葉が重なる。
体中からかき集めたありったけの自信をこめて、俺は答える。
「やるに決まってんだろ。まだ終わってたまるもんか」
「やるからには絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」
3/13/2024, 6:42:14 PM