今宵

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『星空の下で』


 星空の下で彼女と出会った。
 その冬一番の澄んだ空には見たこともないほどの数多の星が浮かんでいて、彼女はその空を僕と同じように見上げていた。
 吐く息は白く、陶器のような白い肌は鼻先だけが微かに赤い。僕が着ているのよりもずっと薄いコートを羽織り、両手を温めるように擦りながら、彼女はじっと夜の星を眺めていた。
 僕は自分の両手を見つめた。飾り気のない自分の灰色の手袋を。
「良かったらこれ」
 考えるより先にそう話しかけていた。
 突然差し出された手袋を見て、彼女がきょとんとした表情でこっちを見る。僕は慌てて言葉を続ける。
「今宵は一段と空気が冷たいようです。僕はこの通り温かくしてきたので、手袋一つくらいなくても平気です」
 身につけた帽子とマフラー、そして重たいコートにボアのついたブーツを順に見下ろして、最後に彼女の目を見る。
「──いいんですか?」
 その瞬間に初めて聞いた彼女の声は、僕が漠然と思い描いていた彼女の声そのものだった。薄いガラスのように繊細で透明な声。
「ご迷惑じゃなければ、ですが……」
「ご親切にありがとうございます。では少しだけお借りします」
 喜びを含んだような笑みを浮かべた彼女が、僕が差し出した手袋に手を伸ばす。
 その瞬間、微かに彼女の手が僕の指先に触れた。
 僕は咄嗟に首をすぼめた。彼女の手の冷たさに驚いたからなのか、それとも不意に肌が触れたことに戸惑ったからなのかは分からない。
 こんなに冷えて風邪をひいてしまわないだろうか、という僕の心配をよそに、彼女はそのまま手袋をつける。
「あったかいです、とても」
「それはよかった。ですが──それだけではまだ寒いでしょう。このマフラーもよければ……」
 僕が首元に手をかけると、彼女は小さく首を振った。
「それはいけません。それではあなたが風邪をひいてしまいますし、こう見えて私、寒さには強いんです」
 鼻の頭を真っ赤にした彼女がそう言って微笑む。
 その言葉で心配が拭えるはずはなかったものの、僕は出かかった言葉を飲み込んで首に伸ばした手をゆっくりと下ろした。

 彼女が再び空に視線を戻した後も、僕はたびたび彼女の横顔を見つめた。
 彼女は今、何を思ってこの今にも吸い込まれてしまいそうなほどの美しい星空を眺めているのだろうか。


「──ねぇ、何を考えているの?」
 あの日を思い出していた僕に彼女がそう尋ねた。
「何って、君のことに決まってるじゃないか」
 僕がそう言うと「ほんとかしら」と彼女が僕の目を覗き込む。
「本当さ。ここで君と出会った時の、君の真っ赤な鼻先を思い出していたんだよ」
 少し驚いたように息を呑んだ彼女は、すぐに頬をふくらませて、ふいっとそっぽを向いた。
 そのいじけた表情を見て、僕は「冗談だよ」と笑う。
「本当はあの時の君の冷たい手を思い出していたのさ」
 僕はそう言って彼女の手を握る。
 だが、今日は彼女の手の冷たさを感じることはない。僕も彼女も今日は手袋をしているのだ。
 僕はあれからずっと大事にしてきた灰色の手袋を。そして、彼女は真新しい濃紺の手袋を。
 あの日みたく寒さに凍えないようにと今日のために用意したその手袋は、彼女が好きな夜空の色を僕が選んだ。
「──だってあの日は特別寒い夜だったから……ちょうど今日のように」
 彼女が空を見上げるので、僕もあとに続く。
「それに私だって気づいてたのよ。あなたがこの美しい星空を差し置いて、こっちばかり見つめてたって」
「えっと、それは……」
 焦る僕の隣で彼女がくすっと笑う。
「せっかくこんなにも美しい星の下にいるっていうのに、私ったらそればかりに気を取られてしまったわ」
「それは知らなかったよ……」
 何気なく彼女の方を伺い見ると、自然と目があった。途端に笑いがこみ上げてくる。
 その時、後ろからシャッターをきる音がした。
「なかなかいい写真が撮れたよ。ほら見てごらんよ、主役のおふたりさん」
 そこに切り取られた満天の星の下には、特別な純白の衣装に、不似合いな防寒具を身をつけた2人が幸せそうに笑いあっていた。
「素敵……」
「ああ、本当に」
「じゃあもう一枚。次はみんなで」
 その言葉を合図にして、散らばっていた人々が僕たちを取り囲むように集まってくる。家族、友人、どこを見ても大切な人たちばかりだ。
「──はい、撮りますよ! 3、2、1 ……」


 この日。星空の下で、僕たちは2人の未来を星に誓った。

4/5/2024, 8:26:11 PM