今宵

Open App

『これからも、ずっと』


 それは、お昼ご飯を食べ終えた私が休憩室の時計を眺めながらぼんやりしていた時のことだった。
「畑野さんって、音楽やってたんですか?」
「え!?」と咄嗟に振り返ると、同僚の斎藤さんが後ろに立っていた。肩までの茶髪を傾けた彼女がこっちを見る。
「えっと……どうしてですか?」
「いやぁそれ、ちょくちょく見かけるなと思って」
 斎藤さんが机の上に置かれた私の両手に視線を移した。
 何を言ってるのか分からないといった表情をした私に、彼女が続ける。
「それって、ピアノでこの曲弾いてるんですよね? 私はちっちゃい頃にほんの少し習ってた程度なので詳しくないですけど、畑野さんってもしかしてピアノすごくお上手なんじゃないですか?」
 私はハッとした。
 私が事務として勤めるこの整骨院では、BGMにクラシックのCDを流している。仕事中は業務に集中しているためおそらくこんなことはしてないはずだが、気が抜けている休憩中には曲に合わせて勝手に指が動いていたらしい。それもおそらく今日が初めてではなく、度々。
「そんなそんな。私も昔ピアノやってだけです。今はもう全然弾いてないですし。今のも無意識でした。すみません」
 申し訳ない気持ちといたたまれない気持ちで頭を下げる。
「何で謝るんですか。すごいことじゃないですか。私なんて指が動くどころかこの曲の名前すら覚えてないんですよ。ピアノ習わせてくれた親には申し訳ないくらいです」
 斎藤さんはそう言って苦笑いを浮かべた。
 そこに、「何の話?」と院長が休憩室に入ってきた。
「畑野さんが昔、ピアノを習ってたって話ですよー」
 斎藤さんが答える。「そうなの?」と興味を示す視線が私の方に飛んでくる。
 そんな状況から今すぐにでも逃げ出したくてたまらない私の頭に、思い出したくない記憶が蘇ってきた。

「──ダメだった……」
 そう両親に告げたあの日、私はピアノをやめた。高校3年生の夏休みのことだ。
 3歳からピアノを習い始めた私は、すぐに音楽に夢中になった。毎日何時間もピアノの前に座り、友達と遊ぶよりピアノを弾いてる時間の方がずっと長い幼少期を過ごした。
 だんだんと上達する自分が誇らしくて、家族やうちを訪れた人々には積極的に演奏を披露した。あの頃の私は、みんなに褒めてもらえるのがたまらなく嬉しかったのだ。
 小さい頃の私はピアノのことがとにかく大好きで、その分上達も早かった。小学校低学年の時に初めて参加したコンクールでも賞をとったし、それからも小さな大会ばかりとはいえ、コンクール上位の常連組の一人となった。そして、将来の夢もピアニストになった。
 ただ、そんな日は長く続かない。
 歳を重ねるごとになかなか思うように上達しなくなり、中学生の頃には音楽を楽しめなくなっていた。成長しないから楽しくないのか、楽しめないから成長しないのか。
 ただはっきりしていたことは、自分は今全然楽しくないということだった。
 それでもこれまで続けてきたピアノを辞めてしまう勇気はなく、高校に入ってもピアノは続けた。
「お前の音を聴いていても楽しくない」
 中学から指導を受けていた先生にそう言われた時、私は怒りや悲しみというより、妙に納得した気持ちになった。そりゃそうだろう、だってこっちも楽しくないんだから、と。
「このコンクールで賞とれなかったら、ピアノ辞める」
 高3になってすぐ、私はそう宣言した。
 学業をおろそかにしてまでも、私は最後の意地で練習に励んだ。結果次第では、今までの人生がすべて無駄になるような気がした。怖かった。
 そんな恐怖と不安に追い立てられるように、私は毎日ピアノに向き合った。
 これで最後だと決めたコンクール、私の結果は惨敗だった。
 その時、糸が切れた音がした。胸の中でぷつりと。
 次の日から、私は目標を受験勉強に切り替えた。すべての感情を取り払うように、私は無心で手を動かして受験勉強に励んだ。

 あれから私は、音楽から距離を置いて生きてきた。
 大学でも就職してからも、何かを演奏することはもちろん音楽を聴くことすらほとんどない。
 ただ、街中で知っている曲が流れて来ると、無意識に耳がそれを追ってしまう。頭の中に、昔何度も練習した譜面が自然と思い浮かんでくる。その思考を止めることはできなかった。
「──ねぇ畑野さん。もし良かったらお願いできないかな」
 顔を上げると、2人がこちらに注目していた。
「えっと……」
 一体何の話だろうかと、頭の上に疑問符が浮かぶ。
「来月やる開業10周年記念の音楽会で、畑野さんも何か演奏してくれないかな」
「えっ!?」
 あまりの驚きに声が裏返る。
「小さな集まりの予定なんだけど、僕の下手くそなバイオリンだけじゃ来てくれる人に申し訳なくってさ」
「でも、私もう何年もピアノ触ってないんです。なのに人前で弾くだなんてとても……」
「そっか。そうだよね……でも残念だな」
 これで何とか断れそうだと思った矢先、斎藤さんが口を開いた。
「じゃあ練習しましょうよ!」
「──え!?」
「だって、今でもあれだけ指が動くんですもん! 1ヶ月練習すればきっと弾けるようになりますよ!」
 なぜか自信満々な彼女がこちらを見た。私は必死に断る理由を探す。
 だが、私がそれを見つける前に院長が笑顔を作った。
「そうなの? じゃあぜひ弾いてよ。畑野さんのピアノ、楽しみだな」
 院長のその言葉でどうにも断ることができなくなった私は、途端に心の中に不安が襲ってきて、音を立てないように深くその場に息を吐いた。

 本番当日。音楽会用に飾り付けた院内に、いつも通ってくれる患者さんや職員の家族が十数人ほど集まった。
 始めて1年ちょっとだという院長のバイオリンの演奏に盛大な拍手が送られたあと、私の出番がやってきた。
 院長がどこからか手配してきたアップライトピアノに手を乗せる。
 あのコンクール以来、初めて人前で演奏する。胸が破れそうなくらいに強く鼓動を打つ。
 小さく息を吸って鍵盤を押す。
 練習して分かったことだが、曲を覚えていたのは頭ではなく何度も練習したこの指先の方だった。今もこうして緊張で真っ白になった頭に変わって、指先が自然とメロディを奏でていく。体に染み込んだメロディが弦を伝って、空気を振動させる。
 それは懐かしい感情だった。楽しい。音楽って楽しいんだ。
 そうやって心が弾むと同時に音が弾んだ。
 そんな感情で胸がいっぱいになっていた私にとって、それは本当にあっという間だった。
 椅子から立ち上がり後ろを振り返ると、その場の観客たちの拍手が私を包み込んだ。院長や斎藤さんをはじめとする同僚たち、患者さんや今日初めましての人でさえも私の方にこぼれんばかりの笑顔を向けていた。
 その光景を、滲んでいく自分の目の中にしっかりと焼き付ける。そしてその感情を、私は心の中にしっかりと刻み込んだ。


 きっと私は、この数年の間も決して音楽を嫌いにはなれなかった。むしろ嫌いになろうとしても、私は音楽の側からずっと離れられなかった。
 なぜなら、私が音楽に出会ったあの時から、音楽は私のこの中にずっとあったから。
 そして──これからもずっと、私の中にあり続ける。

4/8/2024, 6:58:01 PM