今宵

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4/2/2024, 8:31:03 PM

『大切なもの』


「これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます」
 そう言われたのは昨年、年の瀬のことだった。職場の同僚に半ば強引に誘われて占いに出向いた時に告げられた言葉だ。
「え、大切なものって……」
「あなたにとって、とても大切なもののはず。何かってところまでは──そうね、今はまだ分からないですが」
 いかにもな怪しいベールで顔を覆った占い師は、これまたいかにもなセリフを平然とした口調で述べた。
 彼女が指し示した手元のカードの意味は私にはよく分からなかったが、そのイラストが平和な絵ではないことは一目瞭然だった。
「じゃあ、私はどうしたらいいんですか」
 曖昧な忠告に、私は若干苛立ちながらそう尋ねる。
「うーん。もしかしたら何かそれに気づくきっかけがあるかもしれないですね。例えば──そうね、誰かとの出会いとか」
「え〜! それって男の人ですかぁ〜?」
 占い好きだという同僚が甘い声で嬉しそうにそう尋ねる。
 まだ微かながらその場に残っていた私の興味は、その時点でその次に控えるちょっとお高いランチへと焦点を移した。

 そんな出来事を何気なく思い出したのも、職場での部署移動が決まり、今の部署に残るその同僚ともしばらく顔を合わせることはないんだろうな、などと考えていたからだろう。
 年度末最終日の午前中、お世話になった部署の面々に簡単に挨拶をすませた私は、引き継ぎのために新しい部署を訪れた。
「すみません……」
 そう声をかけると、一人の男性が入り口の方までやってきた。
「もしかして百瀬さんですか?」
 男性が私にそう尋ねる。
「あ、はい。そうです。百瀬です」
「僕は田口といいます。百瀬さんに業務を引き継いでもらう予定の者です」
 そう名乗った彼は今年度で退職が決まっており、そのためにちょうど私物をダンボールに詰めているところらしかった。
 シャツのボタンは一番上を一つ開け、袖は肘までまくっている。
「あ、そうでしたか。お忙しいところすみません」
「こちらこそまだ片付いてなくてすみません。引き継ぎにいらしたんですよね。散らかってますが、どうぞ中へ」

 引き継ぎ内容はすでに彼によって丁寧にデータにまとめられていて、それについて質問を交えながら分かりやすく説明がなされた。
「ざっとですが、大体はこんな感じです」
 ふとパソコンから視線を上げて壁掛け時計をさり気なく見上げると、時刻はもうすでにお昼の1時を回ろうとしていた。
 そんな私の視線に気がついたのだろうか。彼がハッとした表情を浮かべる。
「もしかして、お昼まだでしたか? すみません。そこまで気が回らなくて」
「大丈夫です、そんなにお腹すいてないですし。それにこれが終わったらもう今日は上がりなので、あとで下のコンビニにでも寄って何か買って帰ります」
「あ。──あの、サンドイッチお好きですか?」
「え……?」
「いやその、近くにおいしいサンドイッチのお店があって。ご存知ですか?」
「いえ……知らない、と思います」
「じゃあ、もしお嫌いじゃなければですが。僕の業務を引き継いでもらうお礼に、ランチ奢らせてもらえたりしませんか」
 いきなりの申し出に私は目を見開いた。
「えっと、サンドイッチは好きですけど、そんな奢ってもらうなんて……」
 慌てて大きく首を振る。
「僕も今日で当分はこの辺に来ることもなくなりますし……そうだ、これも引き継ぎですよ。おいしいランチのお店の引き継ぎ」
 そうもまっすぐな笑顔で言われて断るに断れなかった私は、まぁ今日ぐらいはいいか、という気持ちなりその提案を受け入れた。

 建物を出ると外はすっかり春めいていた。朝着てきた上着は羽織らずに手に持つくらいでちょうどいい、過ごしやすい気温だ。
 同じようなことを考えていたのか「春ですね」と彼が言い、「そうですね」と私が返す。
 会社から歩いて5分ほど行ったところ、少し路地に入った場所にその店はあった。
 彼は慣れた様子で注文をする。
「僕はオリジナルサンドイッチとアイスコーヒーで。百瀬さんはどうしますか?」
 メニューにさっと目を通す。メニューに添えられた写真のサンドイッチはどれもおいしそうで、値段も思ったより手頃だ。
「じゃあ私も同じものを」
「はい。では、オリジナル2つとアイスコーヒー2つですね。店内で召し上がっていかれますか」
 店員さんがこっちを見る。私が隣に視線を送ると、彼は少し考えたあと前を向き微笑んでこう答えた。
「テイクアウトでお願いします」

「あの、どこに行くんですか?」
 お店でサンドイッチを受け取ったあと、「せっかくだからちょっと歩きましょうか」と彼は言い、どこかへ向かって歩き始めた。
「もう見えてきますよ──ほら!」
 彼の視線の先を見ると、ベンチとブランコが1つずつあるだけの小さな公園があった。そしてその真ん中に大きな桜の木が薄桃色の花びらをいっぱいにつけて咲き誇っていた。
「うわー!」
 ちょうど満開で見頃を迎えた美しい桜に、私は言葉を失った。
「どうでしょう、この桜。綺麗でしょう。ここ、僕のおすすめランチスポットなんです。いつ来てもあのベンチは空いてるのでおすすめなんです」
 彼がいたずらな笑みを浮かべる。
「さぁ、そこに座ってお花見しながらサンドイッチ食べましょう」

 ほとんど初対面の人間と、こうしてベンチで桜を見ながらお昼を食べていることがなんだかおかしく思えてきた。でも不思議と嫌な気持ちではない。
 春の心地に身を委ねると、時の流れが心なしかゆっくりに感じる。
「本当に綺麗ですね。それに何と言うか、すごく生命力を感じます。この今しかない美しさを存分に見てって言われてるような」
 私がそう言うと、彼もゆっくり頷いた。
「分かります。負けてられないって、僕も思います」
 その声のトーンは、さっきまでとどこか少し違うように感じた。さり気なく隣を見ると、彼の視線はただぼんやりと桜の木の方を見つめていた。
「桜、あと何日持ちますかね」
 静かに彼がそう尋ねるのと同時に、肌寒い風が吹いて、花びらをいくつか落とした。
「どうですかね、来週くらいまで持つでしょうか。もう新芽も開きそうですし」
「そうですね。でもやっぱり植物は強いですね。咲いて散っても、すぐに葉をつけてまた来年には咲く。ずっと何十年も何百年もそれを繰り返す。人間は散ったら終わり。もう咲くことはできない……生まれ変わったら僕も桜になろうかな」
 彼はそっと微笑んだ。風に散ってゆく花びらと同じくらい、儚げに。
 私は彼の言った言葉の意味を考えながら、ただ黙って満開の桜を眺めた。


 それから数カ月が経ち、朝礼で上司から話があった。
 数日前に彼が病院で息を引き取り、すでに近親者のみで葬儀を終えたという。
 後から聞いた話では、私が彼と桜を見ながらお昼ご飯を食べたあの時、もうすでに彼は病気で余命を告げられていたらしい。彼には自分の命の残り時間が分かっていたのだ。おそらくあれが最後に見る桜だということも。
 まだ若かったのに──などと弔えるほど私は彼のことを知らない。ただ彼と見た桜を、私はきっと一生忘れない。
 あれからふと考えることがある。前に占い師が言った言葉。
『これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます』
 人は生きていれば、当然日に日に残りの時間が短くなっていく。気づかないうちに、大切なものが少しずつ減っていくのだ。
 でもそのことに気づけば、もうそれはその時間を"失う"ことにはならない。残りの時間をどう使うか、何を得るか何を失うかは全て自分次第なのだ。

 私にそう気づかせてくれたのが彼だった。

3/15/2024, 9:04:48 PM

『星が溢れる』


 流れ星たちは、これまで多くの願い事を託されてきた。
 星たちはその輝きで願いに光を当て、それが叶うように力を貸してくれる。だが残念なことに、必ずしもすべての願いが叶うわけではない。
 宿った願いが叶った星は役目を終えてその光を落とすが、願いが叶わないままの星は、流れ着いた場所で微かな光を残したまま、いつかその光が消える日がくるのををただずっと待ち続ける。
 願いを叶えられなかったそんな星々が辿り着く場所を、いつからか誰かが『星捨て場』と呼ぶようになった。

 誕生してから途方もないほどの長い年月を経た星たちは、最後の最後にそこに流れ着いた。そして、それからまた途方もないほどの年月をここで過ごしている。
 ここにある願いのほとんどがもう叶うことはない。叶わないならば、消えゆくこともできないのだ。

 幾年が過ぎ、星捨て場の星は時が経つにつれてその数を増やしていった。夜空の光が一つ、また一つと落ちていくたびに、その中から小さく寂しげな光がそこに集まっていく。
 そして、空の星のほとんどが願いとともに流れ落ちてしまった頃。最初は別々だった小さな光たちは、徐々に1か所に押し集められていた。
 だんだんと、だんだんと集まった光たちは大きくて明るい1つの光へと変わっていき、最期には目もくらむほどの眩い光を放って空に弾け散った。
 叶わなかった数多の願いは光となって空に散らばり、また幾千もの新しい星々が暗い夜空に誕生した。

 再び星でいっぱいになった空に、またすぐに願い事が託される。
 消えゆく光もあれば、消えることのできないままの光も確かにそこに存在する。星たちはただ、自分の運命をまっすぐに受け入れるのだ。


 一度からっぽになった星捨て場。でももしかしたら、すでにそこは再び流れ着いた次の世代の星々によって、僅かな光を帯びはじめているかもしれない。

3/13/2024, 6:42:14 PM

『ずっと隣で』


「もうええわ! どうもありがとうございました」
 まばらな拍手に追い立てられるように、舞台袖の狭い階段を下りる。
 舞台を下りた俺と相方の間に会話はない。控室まで無言の時間が続く。

「あ、おつかれっす」
 控室に戻ると、出番を待つ芸人の視線がパラパラとこちらに向く。後輩の形ばかりの挨拶に俺は「うっす」と軽く顎を引いた。
 大部屋の芸人たちの中で、俺達はもう中堅近くの立ち位置となった。後輩でも、売れれば個室があてがわれていく。シビアな世界だ。
 芸歴が長いからと言って、もれなく後輩たちから尊敬されるというわけでもない。面白いか、面白くないか。それは舞台上だけでなく、舞台を下りて、生身の人間としての生き方にも求められる。
 つまり俺達は彼らにとって、舞台の上でも下でも面白くない先輩だということだ。


 相方であるアツムとは大学で入った漫才サークルで出会った。
 学年でいうと1つ下だったが、アツムは1浪していたため年は俺と同じで、なんだかんだとすぐに意気投合した。
 アツムの考えたネタを初めて聞かせてもらった時、コイツは天才なんじゃないか俺は本気で思った。
 漫才を見たり真似したりするのは好きで、漫才師として売れることを夢見る俺だったが、ネタ作りの方はからっきしだめだった。だからアツムにネタ作りに才能があると分かった時には、大きく胸が高鳴った。

「一緒にやらないか」
 心の準備に数日を費やした俺は、一応の先輩としての、それに一友人としての見栄もプライドもすべて捨ててアツムにそう声をかけた。
 しばらく沈黙があった後、考え込むように口を開いた。
「お前とまったく同じことを、ついこの間先輩にも言われたよ」
 思ってもみなかった言葉に、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「……そっちと、組むのか?」
 掠れた声で尋ねた。アツムの目は見られなかった。
「時間をくれ」
 アツムはそう一言言い残してその場を立ち去ると、それからしばらくサークルに顔を出さなくなった。

 そんなアツムが久しぶりに顔を見せたのは、アツムを相方に誘った日から1ヶ月ほどが過ぎた時だった。
「なぁ! ついに出来たぞ!」
 アツムが脇目も振らず大声でそう言いながら、まっすぐに俺の元へやってくる。
「出来たって、何が!?」
「何がじゃないだろ? ネタだよネタ! 俺とお前がする初めての漫才のネタ!」
「な、それってつまり、俺と組むってことか?」
「何言ってんだよ今さら。この1ヶ月、何のために頭を捻りに捻ってネタを考えてきたと思ってんだ」
 後から分かったことだが、あの時の「時間をくれ」というのは俺とコンビを組むかどうかを考えるためではなく、俺とやるネタを考えるための時間だったらしい。
「まあそんなことはどうでもいい。とりあえず早く読んで感想聞かせてくれ」

 俺達コンビの初舞台は──大成功だった。
 俺が左で、アツムが右。その方が何かしっくりくるからとアツムが言い、俺も同意した。
 テンポよく進む会話に、あちこちから笑い声が上がった。終わった時の盛大な拍手と客席のざわめきは、今でも忘れられない。後にも先にも、あんなに興奮する舞台はなかった。
「俺達、これからもやってけるだろうか」
 舞台から下り、興奮が少し落ち着いた時俺はぽつりと呟いた。
「やるに決まってんだろ。まだ始まったばかりじゃないか」

 大学を卒業した俺は、バイトをしながら劇場で漫才をさせてもらう日々を続けた。そしえ、アツムも実家の農場を手伝いながら漫才に明け暮れた。
 周りの就職していったやつらのことが気にならなかったと言ったら嘘になる。だがそれでも、夢を追いかけ続けることに大きな誇りを持っていた。
「いつか絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」
 何度そのやり取りをしただろうか。
 だがいつからか、お互いにそう口に出すこともなくなった。
 思うようにお客さんを笑わせられないし、場の空気が掴めない。そんなだから、ネタを作る方もいろんな方向に迷走した。
 衝突するたびに「だったらお前がネタ書けよ」と言われると、それ以上何も言い返せなかった。
 ただ、俺の中で、アツムのネタで売れたいという気持ちは揺るがなかった。舞台の上で、他の誰かの横に立っている自分が想像できなかった。俺の右側にはアツム以外考えられなかった。
 そう思っているのは俺だけじゃないと思っていたのに。信じていたのに。──現実は違っていた。

 劇場からの帰り道、突然のことだった。
「この辺で終わりにしないか」
「──え……」
「終わり」という言葉が頭の中で反芻する。
「もう潮時だと思うんだ。この辺で夢はきっぱり諦めて、実家に戻って農家にでもなろうと思う」
 俺は言葉を失った。
 正直、いつかそう言われる日が来るかもしれないと考えることはこれまでにもあった。ただ、その"いつか"が"今"だとは少しも想像していなかった。
 重たい沈黙が、暗い夜道に更なる影を落とす。
 そんな沈黙を破ったのはアツムだった。
「お前は、俺のネタじゃなくてもやってける。だから、他の──俺よりもっと面白いやつと組んだ方がいい」
「何言ってんだよ!」
 考えるより先にそう言っていた。
「お前の他にいるわけないじゃないか! 俺の隣はこれまでも、これからも、お前しかいないんだよ!」
 驚いたように口を開けてこっちを見るアツムの表情で気がついた。俺は泣いていた。そして、そのまま泣き叫ぶように続ける。
「ああいいよ! 分かったさ! お前が辞めるなら俺も辞めるよ!」
 そう叫び残して俺は早足で歩き始める。そんな俺の背中に後ろから声が飛んでくる。
「お前には……お前には! 漫才でてっぺんとるって夢があるだろ!」
 アツムがこっちに走り寄って、俺の肩を掴んだ。
「俺の分まで、その夢叶えてくれよ……」
 アツムの声が滲む。
「俺の夢は、そんなんじゃない。お前がいない漫才なんて楽しくないし、お前が隣にいないなんて想像できないし、俺はアツムの隣でずっと漫才がしてたいんだよ!」
 普段なら気恥ずかしく決して口に出せない言葉が、感情に任せて口から出た。
「──このままずっと売れなくてもか?」
 俺の肩を掴むアツムの手に、さらに力がこもる。
「……いやまあ、そりゃ売れるに越したことはないけどもな」
 俺がそう言うとアツムが笑った。そんなアツムを見て俺も吹き出した。

「俺達、まだやっていけると思うか」
 ふと笑顔が消えたアツムがそう呟いた。
 あの時──初舞台が終わった後、俺がアツムに聞いた言葉が重なる。
 体中からかき集めたありったけの自信をこめて、俺は答える。
「やるに決まってんだろ。まだ終わってたまるもんか」


「やるからには絶対売れてやろうな」
「ああ。漫才でてっぺんとろう」

3/12/2024, 7:36:22 PM

『もっと知りたい』


 あれは、中学2年生の春のことだ。
 平年より開花が遅れたせいで、その年の始業式の日にはまだ桜が残っていた。
 クラス替えに浮足立った生徒もそのほとんどが席についた頃に彼女は現れた。窓際の席に座った僕が、何気なく窓の外で散っていく桜の花びらを見ていた時のことだった。
 校門の前で立ち止まっている女子がいるかと思った後、彼女はその大量に舞う花びらの中を、淡々と校舎に向かい進んでいった。
 背中まである長い髪を風になびかせ、制服は模範通りに着こなしていて、そこから伸びる手足は午前の光に照らされ透き通るほどに美しかった。
 彼女は誰だろうか。何年のどのクラスの生徒だろうか。
 彼女が校舎に入っていくのを見送りながら、僕はそう考えていた。そう考えるほどに、僕はすでにその時から彼女に興味を惹かれていたのだろう。

 叶うならば──と願ったことが、信じられないが現実的となった。
「今から転校生を紹介します」
 先生のその言葉にざわめいていた教室が、彼女がドアを開けた瞬間、一斉に静まった。そして、まるで時が止まったかのようにみんなの動きが止まる。
「今年からうちの中学に転校してきた和田さんです。自己紹介をお願いできる? 名前と一言だけで構わないから」
 先生の方を小さく一瞥した彼女はすぐにみんなの方に向き直り、本当に名前とただ一言だけを発した。
「和田杏(わだ あん)です。よろしくお願いします」
 彼女の発した声が静かな空気を伝い、小さな振動となって耳まで届いた。
 感情の起伏のない淡々とした口調。感情の見えない表情。
 だが僕の彼女への印象は、決して悪いものではなかった。むしろ、そんな態度に彼女の芯の強さを感じてすらいたかもしれない。
 彼女は、休み時間に女子たちから矢継ぎ早に投げられる質問のすべてに素っ気なく返し、男子たちから向けられる様々な視線はすべて彼女に届く手前で折れてしまうようだった。かく言う僕の視線もそうだ。

 彼女が現れてからひと月が経った頃。彼女のまわりの人だかりは早々になくなっていて、彼女は一人にしておかなければならない、という暗黙の空気が教室には流れていた。
 とうの彼女自身もそれを気にする素振りはなく、休み時間になると彼女はいつも1人でどこかに行ってしまった。
 ある日の昼休み。彼女は一体、いつもどこに行っているのだろうかとどうしても気になった僕は、こっそりと彼女の後をつけた。
 彼女は階段を最上階まで上り、ひと気のない踊り場の錆びかけたドアノブに手をかけた。
 その先にあるのは屋上だ。それも立入禁止のはずの。
 ドアの向こうに消えた彼女を追って、僕も取っ手に手を伸ばす。心臓の音が耳のすぐそばで大きく鳴り、指先が緊張で強張った。
 小さく息をついた僕は、そっと扉を引いた。
 一瞬、外の眩しさに目を細める。そして、ゆっくり目を開けると、視界の奥に何かを手に持った彼女の後ろ姿があった。
 彼女がゆっくりと、その何かを口元に構える。

 あれがフルートという楽器だったことは、後から知った。
 美しくて、でもまっすぐな音。まさに彼女のようだった。
 演奏の間その場に立ち尽くしていた僕を、彼女が振り返る。そして、少しだけ目を大きくした。
 僕は慌てて話し出す。
「あの……ごめんね。その、いつも何してるのか気になったから……」
 咄嗟に謝った僕の言葉と少し間が空いてから、彼女の声がした。
「ここ、練習するのにいいの。誰も来ないし、静かだから」
「えっと、そうなんだ……」
 次につなげる言葉を探す。
「その楽器は何?」
「音楽が好きなの?」
「ここに入って怒られないの……?」
 ただ、僕はそのどれもを飲み込んだ。また、彼女の音が聴こえたから。
 一人にしてと言われるかと思ったが、彼女は何も言わなかった。だから僕はその瞬間、彼女のたった一人の観客になった。
 彼女の演奏が終わった時、僕は彼女に小さく、だけど気持ちを込めて拍手を送った。そして、やっと尋ねた。
「その曲、なんていうの?」
 僕の質問に、彼女がほんの少しだけ微笑んだ──気がした。それは初めて見る彼女の感情だった。
 その瞬間に僕は思ったのだ。
 もっと、もっと。彼女のことを知りたいと。

3/11/2024, 7:41:12 PM

『平穏な日常』


「ふわぁあ。今日も早いね」
 紅太(こうた)がリビングに入ると、部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がっていた。
「早いってもう10時なんだが。紅太が遅いんだよ」
 そう言いながらじっくりとコーヒーを淹れているのは、濃紺のエプロンを身に着けた青夜(せいや)だ。
「だってさ、仕事がない間はすることもないし、早く起きるよりいっぱい寝たほうがいいじゃん。ほら、寝る子は育つって言うでしょ?」
 紅太はそうのんびりな口調で言うと、目をこすりながらダイニングテーブルにゆっくりと腰を下ろした。
「寝る子って……あのなぁ」
 呆れたよう小さくため息をついたものの、「紅太もコーヒー飲むか?」とさりげなく勧める。
「あーうん……でもカフェオレがいいな」
「はいはい」
 青夜が冷蔵庫の扉を開けて、中から牛乳を取り出す。

「そういえば、桃乃と緑子は? あれ、もしかして黄助(おうすけ)もいない?」
 キッチンには、3人のマグカップがすでに洗い終わって干されている。
「桃乃はジョギング中。緑子は本を返しに図書館に。黄助は知らない。どうせ、どこかその辺を当てもなくうろついてるんだろ」
 鍋に移した牛乳をじっくり温めながら青夜が答える。
「黄助は自由だなぁ。俺も黄助を見習ってもう少し自由になろうかなぁ」
「あんな自由人は黄助1人で充分だ。それに黄助ときたら、いざという時に連絡がつかないと困るから、行き先はちゃんと言ってから行けって何度も言ってるのに……」
 青夜がまたため息をこぼす。
 だが、動かす手は一切止まっていなかったようで、紅太好みのカフェオレがすでに完成していた。
「はい、どうぞ。これ飲んだら、身支度ぐらいちゃんとしておけよ」
 そう言って紅太を見た青夜が「それ」と、紅太の頭を指差す。
 紅太はその指先を追って自分の頭を撫でる。今日の寝癖はいつも以上にひどそうだ。
「そうだね。いつどこで呼ばれるか分からないからね」
「あぁ。だらしない格好でみんなの理想を壊すわけにもいかないしな」
「うん」
 出来たてのカフェオレを口に運びながら紅太は小さく頷いた。ほどよい苦味と牛乳のまろやかな味が口いっぱいに広がる。

 この家に5人で住み始めてこの春でもう3年になる。
 最初こそ慣れない共同生活に諍いが起こることもあったが、最近はそれもほとんどなくなった。それぞれがそれぞれの性格や価値観を理解したからかもしれない。
 この仕事は常に緊張感と隣合わせな反面、気を張ってばかりいると体がもたないので、何も起きていない時はしっかり体と心を休ませなければいけない。
 そう教えてくれたのは、紅太たちにこの仕事を引き継いだ先代の5人だ。紅太たちの永遠の憧れの5人。

「暇だねぇ」
 紅太が窓の外を見ながらそう言うと、「暇は平和あってこそだよ」と青夜が呟いた。そして、続ける。
「僕達は暇の方がいいんだ」
「うん、そうだね」
 ゆっくり流れる時間に身を委ねるように、紅太はまたカフェオレの入ったカップを静かに傾けた。

「ただいまー」
 紅太のカップが空になった頃、玄関から元気な声がリビングまで響いてきた。
 すぐにリビングのドアが開き、その向こうにピンクのジャージ姿の桃乃と、シンプルなシャツに緑のカーディガンを羽織った緑子が立っていた。
「あれ? 2人、一緒だったの?」
 紅太が聞くと、「違う違う」と桃乃が大きく首を振る。
「偶然下でばったりと。ね、緑子」
「う、うん」
 頷いた緑子は、肩から重そうなトートバックを提げている。またいつものように、図書館でたくさん本を借りてきたのだろう。
 いつそんなに本を読んでいるのだろうかと、紅太は密かにいつも疑問に思っている。
「2人ともおかえり。……ああ、そういえば、黄助もその辺にいなかった?」
 青夜が2人に尋ねる。
「え? またアイツ行き先言わずにどっか行ったの?」
 青夜が首をすくめると、「もぉ〜」と桃乃が口を尖らせた。
「あの……私、探してきましょうか」
 緑子が青夜の方を見る。
 青夜が一瞬考え込む仕草をしたその時、また玄関の鍵が開く音がした。
「いやぁ、今日は猫達にモテモテだったな」
 そう言いながら、黄助がリビングに入ってきた。
「『モテモテだったな』じゃないでしょ! どこ行くかくらいは言ってから出かけてっていつも言ってるじゃん!」
「公園すぐそこだから、いいかなと思って」
 悪気ない様子の黄助が着ている黄色のパーカーには、確かに猫の毛がたくさんついている。
「黄助、その毛。ちゃんと取ってしまってから洗濯機に入れてくれよな」
「うん、分かってるって」
 青夜の指摘を聞き流すように頷く。

 こうして偶然にも5人が揃うタイミングを見計らったかのようひ、リビングの緊急アラームがなった。
「3丁目の森田さんからの要請だ。みんな、行こう!」
 紅太の呼びかけに全員が頷く。
 紅太が服を着替えて家を出ようとした時、青夜に玄関で引き止められた。
「レッド、忘れ物だ」
「あ、危ないとこだったよ。ありがと、ブルー」
 それにブルーが頷き、ピンクが「もう、しっかりしてよね」とこぼす。
 改めて、ヒーロースーツ姿のレッドが赤いマスクを被る。
「さぁ、急ごう」
 

 この街には5人組のヒーローがいる。
 助けを呼ぶ声があれば、いつでもどこでも駆けつける。
 3年前に先代からヒーローを受け継いだ彼らも、今や先代と同様、街の人々にとってなくてはならない存在となった。

 並んだ5色の後ろ姿は、今日も街の平和を守る。


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