『現実逃避』
そこに1匹の猫がいた。ある者は『タマ』と呼び、ある者は『にゃん太』と呼び、そしてまたある者は『エリザベス』と呼んだ。
堂々たる歩き方は孤高の雰囲気を醸し出し、そのピンと伸びた尻尾の先までもが野良のプライドと気高さを纏っているようだった。
だが実際のところ、本当の名前は誰も知らない。それどころか、その猫が彼なのか彼女なのかすらも誰も知らないのだ。
現に今この瞬間にも、ゆっくりと近づいてきた若い女性の伸ばした手を、するするっと抜けていく。まるで気安く触れてくれるなとでも言わんばかりに。
そして、少し行った先で再びあのゆったりとした歩みに戻るのだった。
彼は本当の名を『さすらいの小次郎』といった。誰かがつけた名前ではない。彼自身が自分のことをそう呼んでいるのだ。
彼がこの町に来たのは約半年前。その前の町もおよそ半年で後にしたので、この町ともそろそろ別れの頃合いだろう。
こうして日本各地を転々としているうちに、いつの間にか生まれ故郷の北国からこれほどまでも遠く離れた南の地域までやってきていた。
人の文化や言葉が地域ごとに少しずつ違うように、猫の文化もまた行く先々で異なる。挨拶の細かな違いや目上の猫への態度、さらにどんな食べ物を食べるのかまで、そこに住んでみないと分からないことだらけなのだ。
郷に入っては郷に従い、彼はこうして様々な地域で暮らしてきたのだった。
一番南まで行ったらどうしようか。彼は最近ふとそう考えることがあった。
今まで訪れたどこかの町に戻ってそこで余生をおくるのも悪くないかもしれない。その時はこの町も候補に入れておこう。
そんなことを思いながら、彼はこの町を旅立っていくのだった。そして、彼の旅はまだまだ続いていく……
「──ねぇ、さっきから何ぼーっと窓の外眺めてんの?」
隣に座った友人が怪訝そうにこっち見る。
「あ、いや。何でもない」
私は慌てて首を振って、手元のノートに視線を戻した。
「まったく受験生だってのに危機感がないね」
呆れた顔をする友人にごまかすような笑みを返す。
「まぁさ、サキは志望校余裕なんだろうけど。私は必死よ、必死」
そう言うと、友人は再び問題を解き始めた。
「私だって余裕なんかじゃ……」
私の声は静かな図書館に吸い込まれるように消えていく。
手に持った私のシャーペンはさっきから止まったままだ。今日はなんだか気分が乗らない。
日に日に募る不安や焦りを誤魔化すように、私は再びこそっと窓の外に視線をおくる。先ほどの猫はもうどこかに行ってしまったようだ。
あの猫はどこに行ったのだろうか。まさか本当に旅に出たわけでもないだろうから、少ししたらまた戻ってくるだろうか。でも、どこか本当にさすらいの旅人のような雰囲気の猫だったから、もしかしたらそんなこともあるのかも……
そんなことをまた考え始めたので、小さく首を振る。
さすらいの小次郎を次の旅に送り出した私は、頭の中の想像をかき消し、机の上の現実に向き直った。
『今日にさよなら』
「どーっちだ」
あずさが握った両手をこっちに差し出す。
「いきなりなんだよ」
そうは言ってみるものの、その両手の中身も彼女が言わんとしていることも、俺はよく知っている。
「いいからどっちか選んで」
「はいはい。じゃあこっちで」
あずさの右手を指差すと、彼女がニヤッと笑った。
「本当にそっちでいいの? 後悔しない?」
「うーん。じゃあ、やっぱこっち?」
次は反対の手を指差す。
「えー、そっちにしちゃうの?」
彼女が唇を尖らせながらこっちをジロッと見る。
正直どちらを選ぼうとなんてことはないのだ。手の中に入っているのはただの飴。右手にはレモン味、左手にはイチゴ味の飴が入っている。ただそれだけのことだった。
「じゃあこっちでいいよ」
俺は彼女の右手を少し強引にこじ開ける。
中から黄色い包み紙が顔を出した。
「残念でしたー! そっちはハズレ。レモン味。で、こっちがソウタの好きなイチゴ味」
彼女の左の手のひらにはピンク色のパッケージ。
「別にレモンも嫌いじゃないし……」
「またまた大人ぶっちゃって〜。素直にイチゴ味か好きだって認めなさい」
「レモンが嫌いでイチゴ味しか食べないのはお前の方だろ」
「もぉー。そんなこと言ってるとイチゴ味あげないからね」
彼女は制服のポケットからもう一つイチゴ味の飴を出してちらつかせた。
「……別にいいし」
イチゴ味になんか興味がないような素振りで、俺は黄色の包み紙を大ざっぱに開き、中身を口に放り込んだ。口の中に爽やかな甘酸っぱさが広がる。
イチゴ味が有名なこの飴。今はもう、レモン味は売られていない。だが俺は、この瞬間のレモン味を何度も繰り返し味わっている。
淡々とレモン味を味わうような俺の姿を見てあずさが不満そうな顔をする。そして、「やっぱイチゴが良かったなんて言っても遅いんだからね」と言いながらピンクの包み紙を開く。
「いいの、俺は。レモンは今しか食べられないんだから……」
そうぼそっと呟くと、「え?」とした表情の顔がこっちを見つめる。
「ううん、何でもない」
昔は確かにイチゴ味しか食べられなかったが、大人になると味覚は変わってしまったようだ、
ただ、大人になってレモン味が好きになったからというのも確かにあるが、実はそれだけではない。隣でイチゴ味を美味しそうに頬張る姿こそ、俺がこの日を繰り返し訪れる理由だった。
なぜこの日のこの出来事だけを繰り返すことができるのかは自分でも分からない。ただ毎回決まって、彼女が両手を差し出し、俺がどちらかの味の飴を舐めおわるまでの時間が繰り返される。
ずっと昔の過去にも同じ場面があったように思うが、あの時の俺は一体どちらの手を選んだのだろうか。今となっては思い出すこともできない。
ただ気を抜くと、現実の──大人になった世界の光景が目に浮かび上がってくる。喪服姿の人々の中、無邪気に笑うまだ若い彼女の写真が頭から離れなかった。
葬式の帰り道。随分とくたびれてしまった印象の昔なじみの駄菓子屋の前で、俺は久しぶりに懐かしいあの飴玉を買った。
店にはもうイチゴ味しか置いてなくて、俺はイチゴ味の飴を2つ買った。自分で食べる分と、彼女にあげる分とで2つ。
そうしないと彼女がいじけるから。自分だけ食べて、と俺を見て口をとがらせるから。
そんなことを考えながら、俺は店の近くの土手で飴を舐めた。打ちひしがれるような現実から目を背けるように、昔彼女と過ごした時間を手繰り寄せた。
そして気がついたら、10年前のあの日に遡っていた。
最初は夢や幻覚を疑ったが、目を開けた時の俺の口の中には確かに、今はもうないはずのレモン味が残っていたのだ。
それからというもの、俺は何度も何度もあの日を繰り返した。話したいことは山ほどあったが、話せることは限られていた。でも、ろくなことが話せなくても、彼女がそこで笑っていてくれるだけで俺の心は満たされた。辛い現実をその瞬間だけ忘れることができたから。
「あのさ……」
「ん、なに?」
イチゴ味の飴を口の中で転がしながら、モゴモゴと彼女が答える。
「もし……この先レモン味がなくなるとしたらどう思う?」
ふと、何気なく、俺はそう尋ねた。
「うーん……」
彼女が考え込むように視線を空に投げる。
「私はイチゴ味の方が好きだから別にいいけど……」
「──けど……?」
彼女の横顔を食い入るように見つめていると、急に視線がパッとあった。
「ソウタにレモン味を選ばせるっていう私の楽しみはなくなるから、やっぱり嫌かな」
「なんだよそれ」
俺が吹き出したように笑うとあずさも声を出して笑った。
「だよなー。嫌だよなー、レモン味でもなくなんのは」
「うん、だね」
再び空を見上げた彼女の視線を追って、俺も空を見上げる。
雲のない青空。頬を掠めるまだ冷たい風は、どことなく青春の匂いがする気がする。
あっという間に口の中の飴玉は、もう噛めばすぐになくなってしまうほどの小ささになった。
「ねぇ、イチゴ味はなくなんないかな?」
彼女が微かに眉を下げてそう言った。
「ん?」
「例えこの先レモン味が売れなくなったとしても、イチゴ味はずっとなくならないかな」
「うーん。どうかな」
俺がそう言うとあずさの目に悲しみの色が浮かんだ。
「でもさ」
少し声に明るさを含ませて俺が言う。
「イチゴ味の販売はやめますって言われないように、俺らがいっぱいイチゴ味を買えばいいんじゃない?」
「え、なにそれ」
ほんの少し間が空いたあと、彼女がお腹を抱えて笑った。
「私たちだけでそんなに買えるかな?」
笑いすぎて目に涙を浮かべている。
「やってみなきゃ分からないだろ? それに本気で好きならそのくらいの心意気は必要だろ」
「うん。分かった。その代わり、ソウタも忘れないでね今言ったこと。一緒にたくさん買ってイチゴ味守るんだからね」
「ああ、分かった」
そう頷いた瞬間口の中の飴が完全に姿を消した。
そして視界がだんだんとぼやけていく。
目を開けると現実に戻っていた。口の中にはまだほんのりレモンの香りがする。
見上げた空は、あの日と同じで晴れ渡っていた。
俺は土手から腰をあげ、少し早歩きで進み出す。
きっともうあの日に戻ることはないだろう。たった今、俺にはやることができたから。
もうイチゴ味を食べて笑ってくれる人は隣にいないけど、イチゴ味までなくなってしまったらきっと彼女がどこかで悲しんでしまう。そんな気がした。
レモン味を失ったようにイチゴ味まで失ってしまわないように、俺がどうにかしないと。
そんな馬鹿げたことをする大人になった俺を彼女は笑うだろうか。きっとお腹を抱えて笑ってくれるだろう。
でも、それでいいんだ。
今度は大人になった彼女をどこかで笑顔にできるのなら、俺は両手いっぱいにだってイチゴ味の飴を抱えてみせるんだから。
「さよなら」
一瞬立ち止まり振り返って呟いた言葉は、風に乗ってどこかへ流れていった。
もう会うことはないだろう制服姿の彼女に別れを告げた俺は、シワになったスーツの襟をピンと正して、前を向いて歩き出した。
『街へ』
私は山の麓の集落で生まれ育った。
今ではトンネルが通り、街まで車で30分ほどで行けるようになったが、当時はまだ街に行くまで1時間ほどかかっていた。
当然、歩くには長すぎる距離なので、集落の人々の移動手段は主に自家用車か、1日2本、朝と夕方に1本ずつのバスだけだった。
小学校に上がった年、私は初めて一人バスに乗り、街まで買い物に行くことになった。
その当時、私は一人で街に行きたいお年頃で、流行りのかわいい動物の絵がついたボールペンが欲しいからと、母に駄々をこねたのだ。
普段、買い物をしに街に行く時は父の軽自動車を使っていて、時々私も一緒に連れて行ってもらっていたが、バスに乗るのは以前母と乗ったきりで2度目だった。
「いってきまーす」
「くれぐれも帰りのバスには乗り遅れないようにね」
「はぁーい」
母にバス代とボールペン代をもらった私はそれをお気に入りのポシェットにしまい、緊張しながらも心踊るような気持ちで朝早くにバスへと乗り込んだ。
最初こそ窓からの景色を眺めて街への期待を膨らませていたものの、早起きをしたせいか、すぐに私のまぶたはゆっくりと落ちていった。
乗り物の振動というのは不思議なもので、私はゆりかごに揺られるようにだんだんと眠たくなっていったのだ。
夢の中で鳴るアナウンスにハッと目を覚ますと、そこはすでに降りるはずのバス停だった。
慌てて飛び降りたバスを見送り、振り返った私は、目の前に現れた街並みに困惑した。
何度も訪れたことがあるはずの景色が、いつもと全く違って見えたのだ。カラフルな街並みをカラフルな装いの人々が歩き、辺りからは嗅いだことのない甘い香りがふんわりと漂ってきた。
気のせいかなと街をしばらく歩き回ってみても、やはりそこにはいつもと違う不思議な景色が広がっていた。
「すみません、近くに文房具屋さんはありませんか?」
道行く人にそう尋ねてみても首を横に振るばかりで、目当ての店は見つからない。
「すみません、かわいい動物のボールペンを探してるんですが、知りませんか?」
そう尋ねてもやはり同じだった。
どうしたらいいのか訳も分からず泣きそうになっていた私の元に、遠くから一人のお兄さんが近づいてきた。
赤いトンガリ帽にオレンジの大きな襟がついた青いシャツ。黄色いズボンの広がった裾をヒラヒラとなびかせながら歩くそのお兄さんは、まるで小さい頃に読んだ絵本の中から飛び出してきたようだった。
「やぁ、お嬢さん。動物のボールペンをお探しなのかい?」
私がコクリと頷くと、彼は「じゃあ、ついてきて」と行って歩き出した。
彼は人混みの中をかき分けて進んでいく。見失わないように必死に足を動かすと、やがて人混みの中を抜けて大きな広場に出た。
広場の真ん中には大きくてカラフルな三角屋根のテントが立っていて、中からはたくさんの歓声が聞こえてくる。テントの周りにはこれまたカラフルな旗がいくつも立っていて、私はその光景に目を奪われた。
「これは何?」
「この街で一番人気のサーカスだよ。君はサーカスを見るのは初めてかい?」
「サーカスって、絵本とかで見るあのサーカス?」
「そうさ。ちょっとこっちへおいで」
人差し指を口に当てて私を手招いた。
カラフルなお兄さんはテントの裏側に回ると、身を潜めながら小さな入り口をくぐった。私も同じようにマネをする。
テントの中は木の骨組みに支えられていて、表からは想像のつかないような手作り感が溢れていた。
「このハシゴを登るよ。さぁ手を貸して」
ヒンヤリとした彼の手を握ってハシゴを登ると、大人が2人入れるか入れないかくらいの小さな屋根裏部屋に出た。
「ほら、ここから覗いてごらん」
言われた通りテントの布に空いた小さな穴を覗いてみると、そこからはサーカスのステージがよく見下ろせた。
「ここは秘密の特等席なんだ」
私はそこから見える初めてのサーカスに夢中になった。
人間離れした団員達、中に人間が入っているのではと疑うような賢い動物たち。ある者はクルッと回り、ある者はピョンと飛び越え、体の大きなゾウが火の輪っかをくぐり抜けた時には、観客たちと一緒になって私も大きな拍手をした。
「どうだいサーカスは。素晴らしいだろ?」
「はい!」
「俺ももうすぐこの舞台に立つんだ」
「お兄さんもサーカスに出るんですか?」
「あぁ、そうさ」
彼は誇らしげに頷いた。
「観客が出てくる前に、土産屋でボールペンを探そう」
ハシゴを降り、中のテントの下をくぐり抜けると、そこにはサーカスをモチーフにした様々なお土産が並んでいた。
「ボールペンはここだね」
ウマやライオン、トラにクマ。そして演目の中で私が一番感動した火をくぐるゾウのボールペンもあった。元々欲しいと思っていた猫のボールペンはなかったが、私はそのゾウのボールペンをとても気に入った。
「これにします!」
「実は、僕もそれがオススメだったんだ」
お兄さんはそう言って優しく笑った。
ボールペンの会計を済ませてテントの外に出ると、外はもう空がオレンジ色に染まっていた。
「この街にはもっと楽しい場所があるんだ。せっかくだから、もう少し見て回らないかい?」
本当は、私もそうしたかった。だが、バスに乗り遅れると母に怒られてしまう。
正直にそう伝えると、お兄さんはバス停まで私を送ってくれた。
「さぁ、バスが来たよ」
「はい。今日はありがとうございました! とっても楽しかったです!」
「それは良かった。今度はぜひ、僕がステージに立ってる姿を見にきて。また特等席を用意しておくからさ」
私を見てそう言った彼は、片目を閉じて笑った。
そこから家へ着くまでの記憶はなぜかはっきりしない。ただ、次の日の朝、起きたら枕元にゾウのボールペンが転がっていた。
それからその話を家族や友達にしたが、街にサーカスが来ていたと言っても誰も信じてはくれなかった。
直接サーカスを見てもらえば分かるだろうと、数日後に両親と街に行って探してもみたが、サーカスどころかあのカラフルな街並みすらどこにもなかった。
今でもあの時の観客の歓声とステージ上から伝わる火の熱さははっきりと覚えていて、あれが夢の中だったとは思えない。
でもしばらくすると、それを唯一裏付ける証拠だったボールペンもどこかに失くしてしまったので、私はその記憶に自信が持てなくなった。
大学入学で遠くの町に引っ越し、そこで就職と結婚、出産を経た私は、17年ぶりに生まれ故郷に帰ってきた。
「あのね、お母さん。街にかわいい文房具がたくさん置いてある新しいお店ができたって、舞ちゃんが言ってたんだけどね」
娘はそう小学校の友達の名前を出すと、バスに乗って一人でその店に行きたいと言い出した。
昔と違って今は、昔の半分ほどの時間があれば街まで行くことができる。ただ、バスの本数は相変わらずだ。
「バスに乗り遅れたら帰ってこられないからね」
翌朝そう言って私が見送ると、「分かった分かった」と娘は頷き、意気揚々と家を出て行った。
夕方、眠そうな目で帰ってきた娘が手にしていたものを見て、私は驚いた。
あの時私が買ったものと同じゾウのボールペンを、彼女が握りしめていたのだ。
夕食も食べずにすぐに布団に潜り、眠ってしまった娘の寝顔を私は見つめる。
心なしかいつもより楽しそうな寝顔をしている気がする。
一体どんな夢を見ているのだろうか。もしかしたら、サーカスの続きを楽しんでいるのかもしれない。
私はそんな不思議なことを考えながら、静かに寝息を立てる娘の頭をそっと撫でた。
『優しさ』
「間宮。先方との打ち合わせ、急遽日程早まったから、急ぎ調整頼む」
「あ、はい、分かりました」
時計の時刻は定時まであと15分を示している。だが、これを終わらせないことには帰れない。
課長に頼まれた仕事を急いで片付けていると、隣の席の後輩が私のスーツの裾を少し引っ張って、何やら頼みごとのある顔をしてきた。
「間宮さん、ちょっとすみません。明日の会議の資料がまだ上手くまとまらなくて……」
「ちょっと見せてね……うん、前見たときより良くなってるから、あとは具体的な内容を盛り込むと良さそう」
ついでに「こことここは……」と修正点も伝えていく。
「なるほどです……ただ、今日はちょっとこれから用があって、どうしても定時で帰らなきゃいけなくて……」
そういうことか。
「じゃあ私やっとくから、先帰っていいよ」
「え、いいんですかぁ!?」
彼女がそう、甘ったるい声で言う。
「うん。私は、この後予定ないから」
少しばかり嫌味を言ったつもりだったが、彼女にそれを気にする素振りはない。
「先輩、優しいので好きです! ありがとうございまぁす」
そう言いながらすでに、彼女は手にしっかりとバッグを握りしめていた。
退勤する彼女の背中を目で追いながら、彼女に聞こえないようにため息をつく。
「間宮」
「……はい」
また誰かの頼みごとだろうかと振り返る。
「何、気の抜けた返事してんだよ、まったく。そんなんで大丈夫なのか?」
そう表情のないぶっきらぼうな言い方をするのは、この会社で私の唯一の同期、中川だ。
「大丈夫って何が? 困ってる時はお互いさまだし……」
「お互いさまっていうか、いつもお前が一方的に押し付けられてるだけだろ」
「……そんなことない。とにかく大丈夫だから」
さっきはああ言ったものの、今日は終電コースかもしれない。
ふと見上げた時計を見上げると、すでに定時から3時間以上が過ぎていた。
机の引き出しに忍ばせていおいたエナジードリンクで、溜まった疲れを胃に流し込む。静かな部屋に、時計の秒針と私の叩くキーボードの音だけが響く。
「お前、まだいたのかよ」
机の上に転がるエナジードリンクの空が4本に増えた頃、退勤したはずの中川がなぜか会社に戻って来た。
「まぁ、うん。思ったより時間かかっちゃって……てか中川こそ何でいるのよ」
「俺はその、あれだ。散歩の途中……てか、そんなことどうでもいいだろ」
なぜか、いつも以上にトゲがある気がする。
「何? もしかして怒ってる?」
「別に、怒ってなんか……いや、やっぱ怒ってるのかもしれないな」
「ねぇ、何言ってんの?」
「だから、お前のそのバカみたいな優しさが鬱陶しいって言ってんだよ! もっと自分勝手に生きろよ!」
中川の荒げた声が胸に突き刺さる。
「いや、私優しくなんかないし。鬱陶しいなんて言われる筋合いもないし。私は別に今のままでも……」
無意識に私の頬に冷たいものが流れた。
「あ、いや、泣かせるつもりじゃなかったんだ。悪い……」
私は黙って首を横に振る。
どうして、涙が出るのだろう。かけられた言葉は優しい言葉じゃなくて、むしろキツイ事だったのに、どうしてこうも心が楽になったのだろうか。
「これ……」
ハンカチでも貸してくれるのかと思ったら、差し出されたのは2本の缶コーヒーだった。
「どっちか選んで」
「じゃあ……」
いつもはブラックコーヒーを好んで飲むが、今日は脳が甘いものを欲しがっていた。
私がカフェオレを選ぶと中川は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに甘くない方の缶の口を開けた。
「ねぇ、中川ってさ、ブラック飲めないでしょ?」
「……んなわけないだろ」
そう言ってコーヒーを流し込む様子は、意地を張って無理に飲んでいるようにしか見えない。
「あのさ……」
「ん?」
「ありがとね……コーヒーのこと」
素直にお礼を言えなかった私は、そう言ってとっさに缶を傾けた。
「別に……ほら、さっさと続きやるぞ」
「え、手伝ってくれるの?」
「それ以外に何しに来んだよ」
「……散歩。でしょ?」
私がいたずらっぽく笑うと、中川がムスッとした顔をした。
自分勝手に生きるってどうしたらいいのか、私にはまだ分からない。それに、私は断るのが苦手なだけで優しくともなんともないんだ。
自分の方が私なんかよりずっと優しいじゃないかと、私は2本のコーヒーの空き缶を見て思った。
『ミッドナイト』
『続きまして、ラジオネーム北風さん。しずくさん、こんばんは。はい、こんばんは。最近一段と冷え込んできましたが……』
窓際に動かした椅子に私は両膝を抱えて座る。
膝の上には冷えを凌ぐクマのブランケットと、うっすら明かりを帯びたスマートフォン。そのスマホに繋がったイヤフォンは私の耳まで延びている。
もこもこの上着に身を包んだ私は、遠くの誰かの声にそっと耳を澄ませる。
眠れない夜はこうしてラジオを聴く。布団に入って聴くことも多いが、目が冴えた日には椅子に座って外を眺めながら聴いたりもする。
昔はラジオを聴く習慣はなかったので、ラジオを聴くようになったのは大人になってからだ。
まったくの未知の世界だったが、飛び込んでみると案外面白かった。
聴き手はただの客ではなく、一緒にものを作る作り手でもあり、聴き手のセンスが番組のセンスを担っているようなところがあるように思う。
もちろん話し手や話の選び手の力があってこそだが。
『素敵なお話ですね。温かいお話は温かい気持ちになれてホッとします。こんな寒い日、私は家でいつもより甘くしたココアを飲むのがお気に入りです。さて、北風さんのリクエスト曲は……』
曲名を告げられたあと、すぐに音楽が流れ始めた。私の知らない曲だ。新しい曲だろうか。
最近は何事においても、自分の興味のある物事にしか出会わなくなり、新しいものに出会う機会は、ぐんと減った。
それは便利である一方、もったいないようにも思う。まだ出会っていない好きなものだって、世界にはたくさんあるはずだ。
ラジオではその点、いろんなものに出会える。
始めて聴く音楽、クスッと笑えるエピソード、自分と同じようにどこかの誰かが抱える悩み。
それらは自然と心地よく耳に入ってくる。喋る声の良さももちろんあるが、顔が見えないからこそ言葉がストレートに伝わってくることが私は心地良いのだと思う。
ラジオから流れる音楽を聴いていると眠たくなってきたので、素直に布団に入ることにした。
イヤフォンをしたまま目を閉じる。
この曲は何という曲名だっただろうか。曲終わりに確かめて、明日調べてみよう。
そんなことを考えながら、私は眠りにつく。
真夜中、私は一人ぼっちだと思っていた。
だけど今は違う。
こうして今も、誰かの声に耳を傾けているのだから。