今宵

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1/25/2024, 5:55:24 PM

『安心と不安』


 片道およそ900km、車で夜通し走ってようやく朝に着くくらいの距離。その夜と朝くらいの距離が私たちの間にあった。
 行こうと思えば行けないこともない、でもわざわざ会いに行かなくてもまたすぐに会える。そんな認識がお互いにあった。

「ねぇ、週末そっちに行こうかな……」
 精一杯さり気なくそう言ってみた。
『ん? なんで?』
 その一言でこの話題は終わった。
 "何かあったの?"と心配されたわけじゃない。そこには単純に、"こっち来てどうすんの?"という感情が垣間見えていた。
「ううん、ただ何となく」
 そう答えるしかなかった。
 ただ電話を繋いでいるだけのこの時間。寝る前の日課として、ただこなして終わるだけのこの時間。
 いつの間にか、今何をしているとも今日は何があったとも話さなくなった。電話の向こうにある生活音に、ただ耳を澄ませるだけ。
 彼は一体今、何を考えているのだろうか。
『なんかもう眠い。そろそろ寝るわ』
「あ、うん……おやすみ」
 通話時間は32分。最短記録更新だ。
 そんなことを考えているのはきっと私だけなんだろう。

 付き合って4年、遠距離恋愛を始めて2年に差し掛かろうとしている。
 遠距離恋愛が難しいとは聞いていたものの、それは想像以上に困難だった。そのせいでほんやりと意識していた結婚の文字は遠退き、いわゆる倦怠期を味わうことになった。
 会いに行くまでの距離に比例して、心の距離までも延びてしまったのだ。
「ねぇ、私のこと好き?」
 そう聞くことが出来たらどれだけ良かっただろう。
 そんな勇気もない私は、日々惰性の電話をかけ続けた。

 彼に電話をかける私の右手は、最近よく小さく震える。
 もし電話に出なかったらどうしよう。ついにもう終わりかもしれない。
 いつ別れを切り出されてもおかしくないような重たい空気が、もう数カ月も私たちの間に居座っているのだ。言いようのない負の感情は、日に日に膨れ上がっていくばかりだった。
 自分から別れを切り出すことさえ出来ない。
 重ねた年月、過ごした時間、数え切れないほどの思い出。そのどれもが無かったことになるのが涙が出るほど怖いのだ。


 呼び出し音が数回鳴ったあと、途切れた。
「……もしもし?」
 好きという感情の輪郭がぼやけていく中で、私は彼の答えを待つ。

『うん、もしもし』
 彼の声がしたその瞬間だけ、私の不安は晴れた。
 今日はまだ大丈夫……
 私は電話の向こうに聞こえないよう、深く息を吐いた。

1/24/2024, 10:10:15 PM

『逆光』


 夕暮れ時の小さな公園。水平線に沈む夕日にレンズを向ける君。真っ赤な空と対象的に、影の落ちた君の背中。
 一瞬吹いた風が君の髪をなびかせた瞬間、それを逃すまいとファインダー越しにシャッターを切った。


「今日も暇だね〜」
「事件がないのは実にいいことではないか、ワトソンくん」
「それはそうだね。ところで、松田くん。いい加減、その呼び方はやめてくれない?」
「桜高のホームズと呼ばれるこの名探偵にその座を任されたというのに、君は何の不満があるというのかね」
 自称桜高のホームズを名乗る僕のクラスメイト、松田くんが変人……いや、こう風変わりであるのはいつものことだ。
「この座を任されたも何も、他に候補がいなかっただけのことじゃないか」
 僕はそう言って周りに視線をやる。行事の飾り付け用の花飾りや、脚のガタつく椅子、未開封のチョークの箱の山に、いつの時代のものか分からない古いカメラなどが、視界のほとんどを埋め尽くしているこの部屋には僕と松田くんの2人しかいない。

 人より備品の方が圧倒的に場所を取る四畳ほどのここ、備品倉庫は、3階建て校舎の最上階の廊下を進んだ1番奥の角部屋に位置する。角部屋ゆえに日当たりがいいことだけをメリットに持った、現在の僕らの活動拠点だ。
 ドアに取り付けられた備品倉庫と書かれてあるネームプレートの上には、この春“推理研究会”と手書きされたA4の紙が貼られた。もちろんこの推理研究会、通称“推研”の言い出しっぺであり発足者である松田くんの手によってだ。
 僕達が通う桜木高校は、県下一の進学校であると同時に、文武問わず様々な部活動でも結果を残していることで有名な歴史ある高校だ。
 そんな格式高い桜高で新しく正式に部活動として認めてもらうにはいくつかの条件がある。
 部員が5人以上であること。そして、顧問を引き受けてくれる先生を見つけること。これが部活動を名乗る最低条件だ。その上、部員が3人未満だと同好会としてすら認めてもらえない。
 部活動であればそれ相応の部室と潤沢な予算をもらえ、同好会であれば許可を得て空いた部屋を部室代わりに使わせてもらうことができる。
 僕ら推理研究会は、推理研究同好会というのが正式名称だ。推理研究同好会、略して推理研究会なのだからこれで問題はないというのが松田くんの主張だ。
 僕らが同好会として活動するからには、僕らの他にもう1人の部員が存在する。ただ、僕はまだその人の名前を知らない。
 松田くんが推研を立ち上げる際にその存在について聞いてみたが、そのうち分かるとはぐらかされてしまった。

 推理研究会と言っても探偵の出番があるような事件などこの学校で起きるはずもなく、未だ知名度もない推研は開店休業状態だ。
 そんな時にやることといえば、名の知れた推理小説を読み返したり、世界の未解決事件の記事にああだこうだと持論を展開することぐらいだった。
 この日も例に漏れず、同じように過ごしていた僕らの元に、推研の発足以来、初めての依頼が舞い込んできた。

「この写真に写る彼女を探して欲しいんだ」
 松田くんがどこからか拾ってきた少し傾いた学校机の上に、1枚の写真が置かれた。
「君はえっと……あぁ、隣のクラスの野島くん」
「佐々木だよ。同じクラスの」
 そう言った佐々木くんは、堂々と失礼な事を言う松田くんに対して少し眉をひそめた。
 入学して半年も経ったというのに、まだ自分の顔も名前も覚えていないクラスメイトがいたとしたら、誰だってこういう顔になるだろう。
「松田くんが事件にしか興味ないことは分かってたけど、さすがにクラスメイトにまで無関心だなんてあんまりだよ」
「申し訳ないんだけど彼に悪気はないんだ、ごめんね」と僕が言うと「別にいいよ」と佐々木くんが愛想笑いをした。
 僕が代わりに謝っているというのに松田くんはそれを気にも留めず、ただ顎に手を置いて机の上の写真に見入っている。
「ところで野島くん」
「佐々木くん!」
「では、佐々木くん。この写真の場所は緑が丘公園かい?」
「あぁ。1週間くらい前にそこで撮ったんだ」
 彼が撮ったその写真は、夕日が沈む水平線の写真を撮っている人を、そのさらに後ろから撮るという構図で、そこに写った人がちょうど夕日によって逆光で影になっているのがとても幻想的な1枚だった。
「佐々木くんって写真撮るの上手なんだね」
「え……ありがと」
 佐々木くんは褒められていないのか、長い腕を自分の首の後ろにまわした。

 丘の上にあるこの緑が丘公園からは、街と海が一望できる。僕は知らなかったが、そこは知る人ぞ知る夕日の絶景スポットなんだそうだ。
 佐々木くんはフィルムカメラが趣味で、休日はいろんなところを訪れては、景色や人物など様々な被写体をカメラに収めているらしい。その日は夕日を撮ろうと緑が丘公園に行ったところ、そこで同じように夕日を写真に撮る彼女に出会い、思わずシャッターを切ったという。
「で、この女性を探して欲しいと?」
「あぁ。あの後何度かその公園を探したんだが見つからなくてさ、結局彼女がどこの誰かも分からないんだよ……」
 そう視線を落とした佐々木くんには見向きもせず、松田くんは何か考え込んでいるような様子だ。
「どうしてその時彼女に声を掛けなかったの?」
「それはその、思わず勝手に写真を撮っちゃったから、なんか後ろめたくなっちゃって……」
「なるほど……じゃあ一応なんだけど、もし彼女が誰か分かったとして、佐々木くんはその後どうしたいのか聞いてもいいかな」
 少し言い淀んだあと、彼はこう答えた。
「もう1度俺の写真の被写体になってくれないか頼もうと思ってる。今度はちゃんと許可を取って、そしたらその写真で次のコンテストに応募するつもりなんだ」
「え! それすごくいいね!」
 佐々木くんの答えに僕が密かに胸を打たれていると、今まで黙っていた松田くんが突然口を開いた。
「正直なところ、人探しの依頼は我が推理研究会の出る幕ではない」
「え!? せっかく初めての依頼が来たのに、そんなあっさり断っちゃうの? 推研の名をみんなに知ってもらうチャンスじゃん!」
 呆気に取られた僕がそう前のめりに言うと、松田くんは演技がかったような余裕のある表情を作って笑った。
「まぁまぁ落ち着きたまえ、ワトソンくん。誰も断るとは言っていない」
 誰かに説明を求めるように佐々木くんの方を見たが、彼の言っていることの意味が分からないのはどうも僕だけではなかったようだ。
「それはつまり、この依頼を受けるってこと?」
 僕がそう聞くと、松田くんは何故か佐々木くんに近寄り、何やら僕に聞こえないように耳打ちした。
 一瞬驚いた表情を浮かべた佐々木くんだったが、松田くんが何か企みのありそうな笑みを浮かべると、彼は静かに頷いた。
「さぁ、我らが推研の初仕事といこうか」


 桜高のある山の裏手を流れる田上川は辺りを田んぼに囲まれていて、山からの湧き水が流れるその川の水は濁りがほとんどなく、都会では見られないような様々な魚が生息している。
「この辺りのはずなんだけど……」
 一面田んぼばかりのこの辺りに紺色の制服が混ざれば、一目で分かりそうなものだが。
 桜高からの坂を下る紺のセーラーや学ランのほとんどが、坂を降りてすぐ街の方へと続く道に進むというのに、僕はというと学校から見て街と反対側にあるこの田んぼ道に足を向けた。
 多くの生徒が部活動を終え帰宅する時間にも関わらず、そこに学生の姿は1つもない。
 そう思い、諦めて帰ろうとしたその時、草むらの中で何かが動くのが分かった。
「ヒャッ」と情けない声を上げた僕の前に、大きな紺色の影が現れる。
「もしかしてワトソンくん? 鈴之助から聞いてるよ」
 そう僕をワトソン呼びした人は、僕と同じく桜高の学ランを着ており、肩には立派なカメラを掛けている。名札に引かれた濃紺のラインからするに、1学年上の先輩だ。
 鈴之助と言われてすぐにはピンとこなかったが、それが松田くんの下の名前であったことを思い出す。
「あ、はい。いや、ワトソンじゃないですけど」
「あぁ、ごめんごめん。鈴之助がいつも君をワトソンって呼ぶから、つい」
「あ、いえ」
「じゃあ君を何て呼べばいい?」
 好奇心に溢れた表情でそう聞かれる。
「えーと……名字で……あ、いやでも、やっぱりワトソンでいいです」
「そう。じゃあワトソンくん。見せたい写真があるって聞いてるけど」
「あ、はい!」
 リュックの中からクリアファイルを取り出し、そこに挟んでおいた写真を取り出す。データは別に持ってるからと、昨日佐々木くんが写真を借してくれたのだ。
「これなんですが……」
「あぁ確かに。にしても随分と古いモデルだね」
「こんな影だけの写真でも分かるんですか!?」
 カメラのことに関して僕は全くの素人だから、何が何だかさっぱりだ。
「まぁ、これはフィルムカメラの中でも特徴のあるモデルだから。で、これの持ち主を探しているのかい?」
「はい……分かりそうですか」
 ここで写真を撮ってる人に聞けば何か手がかりを得られるかもしれないと言われて来たものの、写真1枚で、しかも逆光でそこに写るカメラも人も姿が分からないというのに、持ち主を探すだなんて向こう見ず過ぎはしないか。
 そう僕は思っていたが、先輩の反応は意外なものだった。
「正直僕にはちょっと難しいんだけど、他に当てがないこともないよ」
「え、本当ですか!?」
 明らかに音の高くなった僕の言葉に対して、心強く頷いてくれたその人の顔に、僕はどこか見覚えを感じた。


「すみませーん! 誰かいらっしゃいますかー」
 店の扉が開いていたため営業中だろうと入って来たが、中には客はおろか店の人の姿もなかった。
 カウンターの奥の扉は覗き窓にカーテンが引かれていて、中の様子は伺えない。
「すみませーん!!」
 もう一度そう呼びかけると、扉の向こうでカーテンが開き、中から店主らしき年配の男性が出てきた。
「あぁ、お待たせして申し訳ないね。ベルが鳴らなかったから、てっきり空耳かと思ったよ」
 店主の視線を追うと、カウンターの上に『ご用の際はこのボタンを押してください』と丁寧に添え書きされた呼び出しボタンが置かれていた。
「あ、すみません。気づかなかったです」
「いいの、いいの。それでご用は何でしょう」
「あ、えっと……」
 先程と同様にリュックから出した写真を店主に見せる。
「突然で申し訳ないんですが、このカメラの持ち主を知りたいんです……」
 恐る恐るそう尋ねた僕の言葉と間も開けずに店主が答えた。
「あぁ、これは瑠璃ちゃんのカメラだね」
「え、彼女をご存知なんですか!?」
「もちろん。ここの常連さんだからねぇ。こんな古くて珍しいカメラを使ってるのはここらじゃ彼女だけだと思うよ」
 正直、僕はこんなにあっさりと見つかるとは思っていなかったため、驚き入ってしまった。
「あの……彼女と連絡を取りたいんですが……」
「あぁ、少し待ってね。このノートに連絡先が乗ってるから……」
 こんなに簡単に個人情報を話していいのかと思ったが、今はありがたいので黙っておく。
「瑠璃ちゃんの名字は確か……あぁ、夏川、夏川……」
 店主がそう呟いたとき、僕はハッとした。
「あのう、その瑠璃さんの名字は夏川なんですか?」
「あぁ、そうだよ」
 店主が頷き終わるのを待たず僕は店を飛び出していく。
「あの、ありがとうございました!」
「もういいのかい!?」と後ろからかかる声に僕は「はい!」と大きな声で答えた。


「さて、皆さん本日はお集まりいただきありがとうございます」
 僕と松田くんを入れて5人もの人数は、さすがにあの窮屈な備品倉庫には入り切らないので、僕達は学校の中庭にあるベンチに集合した。
「あの……この方達は……」
 心当たりのない顔が2人も増えたことに佐々木くんは困惑しているようだ。
「まぁ、待ちたまえ。せっかくこの桜高のホームズと呼ばれる私が、我が推研初の謎解きを始めようというのだから、楽しみは後に取っておいた方がいい」
 みんなが松田くんの発言に納得したのかは分からないが、佐々木くんをはじめ、その場の全員がそれぞれベンチに腰を下ろした。
「まず、私は先日、ここにいる佐藤くん」
「佐々木くん!」
「佐々木くんにこの写真に写る人物を探すように依頼された。本来、人探しは私の専門ではないのだが、今回はやむを得ず……」
 話が横道に逸れそうになり、僕はまたツッコミを入れた。
「あぁ、そうだな。それで、私はこの写真を見てある2点に注目した」
 全員の視線が松田くんが持つ写真に集まる。
「まず、私は彼女の服装に注目した。これはおそらく、うちの高校の制服だろう」
「え!?」
 写真の女性の格好は影になっていて、一見、彼女がうちの制服を着ているのかどうかの判断は難しいように思える。
「松田、どうしてそう言えるのか説明してくれ」
「簡単だ、ここを見ればな」
 そう言って松田くんは写真の女性の襟元を指差した。
 僕が首を捻っていると「これ、セーラー服!?」と佐々木くんが答えを口にした。
 言われてみると確かに、真っ暗な影の中に僅かに風に揺れたセーラー服特有の襟が見受けられる。
「あ、そうか。この辺りの高校でセーラー服なのは、桜高だけだ!」
「そういうことだワトソンくん」
「でもこの町の中学校は、ほとんどがうちと似たセーラー服だよね」
 そう指摘を入れたのは、この謎解きに呼ばれたうちの1人、昨日田上川でこの写真について尋ねた先輩だ。
 いたずらを仕掛けた少年のように片方の口角を上げた先輩に、松田くんが満足気な笑みで答える。
「確かにこの町の中学校にはうちと同じようにセーラー服の学校がある。ただ……」
「ただ……?」
 肝心なところを焦らす松田くんに痺れを切らして思わず催促する。
「この辺りの中学生はローファーを履かない」
「「あ!」」
 僕と佐々木くんの声が重なった。
 この町の中学校はすべて、白いスニーカーを指定靴にしている。僕も中学生の頃はそれを履いていた。
「なるほどね。だからこの写真の彼女がうちの学校の生徒だと分かったわけだ。やるな鈴之助」
「まぁね」
 探偵役に成り切っていた松田くんに一瞬幼い表情が浮かんだような気がした。
「さて。どこか遠くの町から来た可能性を除けば、これで彼女は桜高の生徒であると推理できた」
 こんなにちゃんと推理をする松田くんは初めて見た。桜高のホームズという名はあながち間違ってはいないのかもしれない。
「最初に、この写真で注目したところは2つって言ってたけど、もう1つの点は何なの?」
「さすがワトソンくん。スムーズな進行だ」
「え、あ、ありがとう」
 不意に褒められて、急に自分がワトソン役であることを実感してきた。
「ここでまず私の話なんだが。私はある人物のおかげでカメラにはそれなりに精通している。もちろん探偵たるもの何事にも精通していなければならないので、カメラはその1つに過ぎないのだが」
 少なからずその場の人間は、さっきの推理で松田くんを見直していたところだっただろうに、彼自身のその自慢話とも取れる発言により、彼を称える空気は一気に冷え切ってしまった。
「そこで私は、その写真に写るカメラに注目した」
 ようやく本題だ。
「そのカメラが珍しいものだと気づいた私は、さらにカメラに詳しい者の元に私の助手を向かわせた」
 松田くんが先輩の方を見た。
「それでワトソンくんが僕の元に来たわけだ。で、僕はこの古いフィルムカメラに不可欠な定期メンテナンスを、この町でただ1つ可能な店を紹介したんだ」
「あぁ。そして、最後の大事なピースをワトソンくん、君が持って帰ってくれた」
 みんなの視線が一気に僕に集まる。
「えっと、はい。先輩から教えてもらったお店でその写真を見せると、やはりそのカメラは珍しいようで、すぐに持ち主が分かりました。下の名前だけ聞いた時には分からなかったんですが、その人の名字を聞いて驚きました。だって……」
 僕が言葉を続けようと息を吸い込んだとき、今までただ黙って僕達の話に耳を傾けていた彼女が口を開いた。
「あの……話は何となく分かりました。そして最初は気づかなかったんですけど、その写真に写ったのが私だというのも分かりました」
「え!」
 佐々木くんが文字通り目を丸くしている。
「あの時あそこにいたのは夏川……だったのか……?」
 彼女がコクンと頷いたのを見て、佐々木くんの目がより一層見開いた。
「僕も驚いたんだ。佐々木くんの探していた人が、まさか同じクラスにいるなんてね」
「夏川もカメラ、好きなのか?」
「うん、特にフィルムカメラが。去年の誕生日に、おじいちゃんからそのカメラをもらってさ……」
「……あの、ごめん!」
 佐々木くんが彼女に向かって勢い良く頭を下げた。
「え、どうしたの!?」
「だって俺許可も取らずに、ただすごく綺麗だなと思って、夏川の写真勝手に撮っちゃったから」
「ううん、謝る必要なんてないよ。むしろありがとう。こんなにいい写真を撮ってくれて」
 彼女がそう微笑むと、佐々木くんはホッと胸を撫で下ろしたように笑った。

「さて、では約束通り、佐々木くんは我が推理研究会に入部してくれるということでいいかな?」
「え!?」
 突然の展開に言葉を失った僕を横目に佐々木くんが頷いた。
「ワトソンくんには言いそびれていたが、写真の彼女を見つけた暁には、うちの部に入ると彼と約束を交わしていたのだよ」
 佐々木くんがうちに写真を持ってきた時、2人で何やら話していたのはこの事だったのか。
「でも、佐々木くんは推研より写真部とかがいいんじゃ……」
「うちには写真部がないんだよね〜、それが。だから僕も従兄弟の鈴之助が作った推研に間借りさせてもらっているわけで。まぁ僕はカメラオタクの野鳥好きで、趣味の野鳥撮影がメインだから学校での活動実績はほとんどないんだけどね〜」
 ……先輩が松田くんの従兄弟……? どうりで、どこかで見覚えのある顔立ちだと思ったわけだ。
「ついでにどうかな、そこの君も」
 松田くんがそう言って夏川さんの方を見た。
「どうって私が推研にですか!?」
 思いも寄らない提案に驚いている彼女に向かって、松田くんはさも当然かのような顔で頷く。
 彼女は言葉を詰まらせたものの、佐々木くんの方に視線をやると覚悟が決まったのか、松田くんに大きく頷き返した。
「私も……推研に入部します! いつか私もこんな写真が撮れるようにもっと上達したいので!」
「では決まりだ。これで5人揃った。晴れて、我らが推理研究会が部活動として認められることになる」
「え? 待って。じゃあ、松田くんは最初からこれが目的で今回の件を引き受けたの?」
 あまりに完璧な事の運びに、僕の理解はまだ追いつかない。
「あぁいかにも。なぜなら私は、桜高のホームズとまで呼ばれる名探偵だからね」
 名探偵の“めい”を強調して言った松田くんの顔は、今日1番の満足気な顔だった。

「ときにワトソンくん」
「あ、うん」
 この呼ばれ方もすっかり馴染んでしまった。
「君に頼みたいことがあるんだ。この名探偵の良き友人にして名助手、ワトソンくんにしか頼めないことだ」
 名助手はもちろん、良き友人と呼ばれたのも初めてだった。
「うん、どうしたの?」


「我が推理研究会の顧問を引き受けてくれる先生を、急ぎ探してくれないか」

1/23/2024, 4:57:25 PM

『こんな夢を見た』


 プールいっぱいのあんこ。表面はしっかりと粒が立っていて、甘い香りが漂ってくる。
 どうしたことだろう。私好みの粒あんが、あろうことか25mプールをいっぱいにしている。
 母校である近所の中学校のプールは、本来この時期水が抜かれて空っぽのはずだ。冬場は水の代わりにあんこを詰めておくなど聞いたことがない。いや、そんな馬鹿な話あるわけないのだ。
 このあまりにおかしな状況をどう受け止めようかと辺りを見渡したものの、夜の学校にひと気はない。
 どこからか猫の声がするようだが、この夜の闇の中ではその姿を捉えることもできない。
 ただ、プールの粒をぼんやりと浮かび上がらせる唯一の光は今にも落ちてきそうなほど大きな月の明かりだけだ。
 
 そこで私は1つの欲望を抱いた。
 履いていた靴下を脱ぎ、羽織っていた上着を脱ぎ捨て身軽になった私は、プールの縁にかかとを掛けるとそのまま背中からあんこの海に倒れ込んだ。
 「ボテッ」というような思ったより重たい音がしたが、何故か体は痛くない。むしろゆっくりと沈み込んで行く感じが心地いいときた。
 あっという間に埋まってしまった手のひらを水面に出す。いや、この場合は水面ではないのかもしれないが……
 まぁいい。そして、その手で掬えるだけのあんこを掬って口に運ぶ……
 ん、ちょっと待て。
 私はあんこを持ったままの手を止めて、視界に映った白くて丸いものを見つめた。
 あんなところに美味そうな餅があるじゃないか。あの白くてまんまるいかたまりは、このあんこを食べ切るのに丁度いい大きさと見た。あんこに餅。最高の組み合わせだ。
 私は頭上に向かって目一杯手を伸ばす。
 もう少しで手が届きそうになった私の口元には、すでにだらしない笑みが浮かぶ。

 その時。何やら大きくて黒いものが私の顔に落ちてきた。
 さっきまで漂っていた甘い香りとは打って変わって、妙に嗅ぎなれた獣臭がする。
 いや匂いがどうこうと言っている場合ではない。人間一にも二にも息を吸わなければ始まらない。
 口を塞がれてバタバタと手足を動かす私の耳元で、どこかの猫が鳴いた。
 だが私がその事に考えを巡らせる前に、私は限界を迎えた。


 目を開けると顔の上に飼い猫が尻を下ろしていた。
 私がそれを持ち上げると猫が不機嫌な声で「ニャー」と鳴く。
「あと少しで美味そうなあんこ餅が食えたっていうのに、お前ってやつは……」
 私が自分に文句を言っていると知って知らずか、猫がもう一度声をあげた。

 とまぁ今日はこんな夢を見たわけたが、一月ももう終わろうとしているのにまだ気分は正月のようで情けない。
 この時期にこたつでうたた寝なんかをすると、よくこんな滑稽な夢を見る。きっと浅い眠りのせいだろうが、せめて最後は欲を満たして目覚めたいものだ。
 それにしても、随分とあからさまな夢の中にいるにも関わらず、目覚めるまでそこが夢の中だと気が付かないというのは一体どうしてなのだろうか。
 いや、夢と知らずに食う餅の方がきっと美味かろう。

1/22/2024, 7:36:23 PM

『タイムマシーン』


 私には憧れの人がいる。
 背はスラッと高く、優しい低い声を持ち、頭の中に浮かぶ顔はもうはっきりとしないけど、抱きかかえてくれた時の腕の心強さだけは覚えている。
 その人は私の命の恩人であり、おそらく私が初めて好きになった人。


「で、その初恋の相手が忘れられないから佐伯くんを振ったと?」
「え!? いやそういうわけじゃなくて……」
 中学からの親友、なおちゃんは私の唯一何でも話せる相手だ。
「じゃあ何? うちの学年の女子達が何人も狙っているという彼をその場で振った理由が他にあるとおっしゃるんですか?」
 まるで記者の取材のような勢いで、なおちゃんがマイク代わりのシャーペンを私に向ける。
「理由ってほどではないんだけど、今はそういうのはいいかなって……」
 これは嘘じゃなかった。三ヶ月後には本格的に受験生となる今、部活はともかく、勉強以外のことが考えられるほど私は器用じゃない。
「ふ〜ん……まぁ葉月がそう言うならいいけどさ」
 まだ納得がいってなさそうな顔でなおちゃんはそう言う。
「てかさ、その葉月の初恋の人。近所に住んでる人じゃなかったの? そんな田舎のアパートの前を通りかかった人なんて、探せばすぐに見つかりそうなもんなのに」
「それがね、私もそう思ってお母さんとか近所の人とかに聞いてまわったけど、誰一人そんな人を知ってる人はいなかったの」
「じゃあホントにただの通りすがりの他所の町の人だったのかもねぇ」
「逃げる時ね、あの人は腕に抱えた私を庇いながら火の中に飛び込んだから、外に出たとき腕に火傷を負ってたの。でも手当てもせずにすぐにどこかに消えちゃった。私、お礼すら言えなくてさ……」
「そんなヒーローみたいな人が相手じゃ、あの佐伯くんでもさすがに敵わないかぁ」
 なおちゃんが茶化すように笑う。
「だから、そんなんじゃないって」
「でも、条件だけでいったら碧もいい線いってると思うけどなぁ」
「何で碧が出てくるの!?」
「だって2人は幼馴染でしょ? それも幼稚園の時からの。背が高くて、声がいい感じに低くて、あいつあぁ見えて筋肉も結構あるし。もしかしたら今の葉月でも抱えられるんじゃない?」
 ニヤニヤしながらこっちを見るなおちゃんの言葉を私はすぐに否定する。
「ないない。碧はただの幼馴染、ていうか腐れ縁。第一、あいつはあの人みたいに優しくない。今朝だって、風で髪がグシャグシャになってるからってさ、『お前髪型変えた? 似合ってるな』ってバカにして笑うんだよ! ホントありえないんだから!」
 真面目にそう言ったつもりなのに、なおちゃんには、またいつものが始まったと言わんばかりに「はいはい」と聞き流された。
 
 私は課題のプリントを眺めながら10年前の出来事を思い出す。
 小学1年生の冬、当時私の住んでいたアパートが火事で全焼した。火元は下の階の住人が消し忘れたストーブだった。
 学校が休みだったその日、母が家を空けていたほんの20分の間にそれは起きた。気づいた時にはもう玄関の所に火がまわっていて、私はどうすることもできずに幼いながらに死を覚悟したのだ。
 ところが、煙が充満した部屋で意識が朦朧となっていく中、彼は現れた。
 その人は『もう大丈夫』と私を抱きかかえると、その場にあった父の厚手のコートを私に掛け、出口を塞ぐ火の中に飛び込んでいった。
 呼吸もままならない程の熱気を抜け、どうにか火を避けながら下まで辿り着くと、彼は丁度到着した消防隊員に私を預けてその場を離れていった。
 人混みの中に母の姿を見つけ安堵の気持ちでいっぱいになった私は彼の背中を目で追うことはなく、その後、彼の行方は分からなくなった。
 あの時、彼がいなかったら私は今ここにいない。
 彼の姿を思い出すたび、返すことのできない程の感謝と、きっと伝えることのできないだろう思いの狭間で私の心は揺れた。

「おはよ〜葉月! 今日もギリギリセーフ」
 なおちゃんが遅刻ギリギリに登校してくるのはいつもの事だ。
「おはよー。なおちゃん、家すぐそこなのに相変わらずだね」
「これが近すぎるとかえってさ、家出るタイミングが難しいんだよね〜」
 どうやらなおちゃんには余裕を持って早めに家を出るという選択肢はないらしい。
 もうほとんどの生徒が揃った教室をなおちゃんは見渡した。
「あれ、碧まだ来てないの? 私より遅いなんてめずらしいじゃん」
 なおちゃんに言われて碧の席に視線を送ると、確かにまだ姿がなかった。
「ホントだ。寝坊でもしたんでしょ。そのうち開き直って登校してくるよ」

 でも、1時限目が終わり、2限目と3限目が終わり、4時限目が始まっても碧は学校に来なかった。
 4時限目が終わったあと、授業終わりの担任を捕まえた私は碧が休んだ理由を知らないか尋ねてみた。
「あぁ。なんや怪我したって病院行ったらしいわ。様子見て2、3日は休ませますってあいつの母親から連絡があったわ……」 
 担任の言葉は途中から耳に入ってこなかった。
 怪我したってなんだ。どれくらいの程度のどんな怪我なのか。
 そんな止めどない疑問と漠然した不安で私の頭はいっぱいになり、私は午後の授業をずっと上の空で過ごした。

 放課後、私は久しぶりに碧の家を訪ねた。
 インターフォンを押してしばらく待つと、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「おう」
 そう言って顔を出した碧の右腕には肩の近くまで痛々しげな包帯が巻かれていた。
「『おう』じゃないでしょ! 病院行って学校休んだ上に、あと2、3日も休むだなんて」
「ったく大げさなんだよあの人は。明日には学校行くっつうの」
「そんなんで大丈夫なの? ていうか何でそんな怪我したの」
「これはその……別に」
 そう顔を背けて片方の口角を歪めるのは、碧が嘘をついてる時に表れる癖だ。
 問いただそうとしたその時、碧の包帯をしていない方の腕に付けられた古い時計が私の目に入った。文字盤は何故か数字が10までしかなく、その文字盤を覆う部分には深くヒビが入っている。
「ちょっと待って。私、この時計どこかで……」
 頭の中に10年前の映像が浮かぶ。
 迫りくる炎の中、私をしっかりと抱えたその腕にそれと同じような時計があった。
「いや違う。これは貰い物で、今はこの包帯に合うかなってたまたま……」
「数字が10までしかない時計なんて普通ないよ! その怪我ってまさか火傷だったり……いや、そんなわけ……」
 いろんな可能性が私の頭の中によぎった。
 私は混乱を振り払うように、陽が落ちかけた家の前の道路に飛び出した。
「危ない!!」
 その声に振り返ると、すぐそこにトラックのヘッドライトが迫ってきていた。
 不意の出来事にその場に立ち尽くした私は、突然どこからか強い力に引っ張られた。
「危ないだろ! お前がここで死んだら助けた意味がないじゃないか!」
 気がつくと私は碧の腕に引き寄せられていた。
「……今、なんて……」
「だから、お前が死ぬなんてのは一度で十分なんだよ!」
「私が死んだって……私、生きてるよ」
「そうだ。でも俺が元いた世界では死んでんだよ、あの火事で」
「じゃあ……やっぱり、あの時のあの人……あの時、火の中から私を助けてくれたのは……」

「俺はお前のいなくなった世界を生きていた。あの火事を、どうすることもできずにただ見ているしかなかったことをずっと後悔しながら」
 あの時、同じく小学生だった碧もあの現場にいたのだ。
「それから10年が経って、お前を助けるチャンスをもらった。この時計で過去に戻れるってな」
 碧がヒビの入った時計をこちらに向ける。
「そんな危ないことして、碧まで死んだらどうするの」
「俺が死ぬわけないだろ。お前を助けないままで死ねるかよ」
 私の命の恩人は碧だったのだ。10年憧れて、探し続けた相手はこんなにも遠くて近くにいたのだ。 
「碧……私ずっと探してた。あの時私を助けてくれた誰かを。まだお礼も言ってなかったから」
 私は碧と視線を合わせた。
「私を助けてくれてありがとう」
 私がそう言うと碧は黙って頷いた。


「あのさ、こんな事言って申し訳ないんだけど」
「ん?」
「どうせ助けに戻るんだったら、火の中にじゃなくて、もっと早くに来てくれれば良かったんじゃない?」
 碧が意表を突かれたような目でこっちを見る。
「だってそうでしょ。わざわざ火事が起こってから助けに来るなんて」
「俺はただ、あの時助けられなかった瞬間に戻ろうと思って……」
「碧って、前の世界でも相変わらずだったんだね」
「はぁ!? それを言うならあの頃の葉月はもっとこう、おしとやかで愛嬌があって……」
「それどういう意味! まるで今の私がそうじゃないみたいじゃん!」
 私が食って掛かると碧がニヤッと笑う。
 その表情に一瞬顔をしかめた私は、ふと浮かんだ疑問を口に出した。
「今の碧が別の世界から来た碧なら、この世界にいた碧はどこに行ったんだろ」
 私の疑問に少し考え込んだ碧が口を開こうとした時、突然夜の住宅街に冷たい風が吹き込んだ。その風で私の髪が乱れる。
 そんな私を見て隣にいた碧が吹き出した。
「なんなの、失礼な」
 私に合わせて少し腰を落とした碧が私の目を見て笑う。

「その髪型似合ってるよ」

1/21/2024, 6:00:50 PM

『特別な夜』


「ねぇ、お母さん」
「うん?」
 こうやって布団を横に並べて寝るのも、もう当分ないのかもしれないと思うと胸がギュッとなる。
 灯りを消した部屋の天井を私は見つめた。
「お父さんと結婚する時さ、どんな感じだった……?」
「何よいきなり」
「いや、聞いたことなかったなと思って」
 さっきまで冷たかった布団がやっと体温で温まってきた。
「どんな感じって言われてもね」
「ほら……緊張したとか、眠れなかったとかさ、怖かったとか逃げたくなったとか……」
 私がそう言うと母が吹き出して笑った。
「何で笑うのよ」
「だって前向きな気持ちが1つもないじゃない」
「まぁそうだよね。お母さん、私と違ってめちゃくちゃ前向きだもん」
「そう。だから結婚する前の晩も、自分でもびっくりするぐらいぐっすり眠ったわよ」
 押入れに仕舞ってある母の若い頃の写真を思い浮かべてみる。
「なんか想像つく」
「でしょ? で、ちなみにさっきのは胡桃の今の心境?」
「うーん……緊張とか眠れそうにないとかはそうなんだけど、逃げたいかと言われると分かんない」
「まぁ感情なんてそうハッキリと言葉に出来ないものよ」
「何でお母さんは怖いと思わなかったの? 私なんて結婚するのは彼よりむしろ私の希望だったのに、今になって少し考えちゃってるっていうのに……」
 少し間があったあと、母が口を開いた。
「人はね、知らないものが怖いのよ。知らないから最悪の想像をするの。最良の想像をすればいいのに大抵はそうならない。これは私もそう。でも一度知ってしまえば、実際は案外大したことないって思えたりするものなのよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
 母のこういうはっきりとした物言いは、いつも不安ばかりを募らせる私の気持ちを落ち着かせてくれる。
「ねぇ……」
「うん」
 いつの頃からかできていた天井の染みを眺めながら私は言う。
「あのさ。私、生まれてきて良かった……」
「どうしたのよ突然」
 昔、母に放った一言が頭をよぎる。
「そう思えるまで時間がかかったけど、やっと言えそうな気がした。あの時言った言葉は無かったことにはならないと思うけどさ……」 
「ううん。あなたが今そう思っているだけで十分」
 天井の染みが滲んでいく。
 そんな私に気づいた母からお叱りが飛んでくる。
「ちょっと。明日、目が腫れたらどうするの」
「うん、分かってる。明日のためにすごく準備してきたのに全部台無しになっちゃう」
「分かってるなら早く寝なさい」
 私はいつまで経っても母の前では子供のままだ。

「……おやすみ」
「うん。おやすみ」

 こっちに向いた母の背中を見るように、私は体の向きを変えた。
 羽毛布団に丸まった母の背は、昔はもっと大きく見えていたような気がする。それだけ私が大きくなったんだろう。

『生まれてこなければ良かった』
 あの時私はこう言った。
 母を責め立てるつもりで、母に向かって。
 その時の罪悪感は、今でもまだ胸のしこりとして残ったままだ。
 ゆっくり上下する母の背中からは、母がもう眠っているかどうか分からない。
 ずっと言いたくて、言えなくて、でも言わなきゃいけなかった言葉があった。

「産んでくれてありがとう」
 私は小さくそう呟いた。

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