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9/23/2023, 11:34:11 AM

遠く、空を行くひこうき雲ひとつ。
ジャングルジムから見上げた、二人の視界は同じだった。
夕暮れ、銭湯、暮れなずむ町々の明かり。
迫ってくる茜空は、カレーの匂いを振りまいて。
ぴーぷー。
豆腐屋のラッパの音は、まだ僕らが郷愁を感じるには若すぎて。
ただ、その音に無性に家に帰りたくなるのを我慢しながら、僕たちは駄菓子のおでんを食べた。
何を隠そう僕は、彼女の幼なじみであり、淡い期待を抱いていた。
彼女は、僕の事をどう思っているのだろうか。
恋、と名付けるにはまだ若すぎる僕たちの恋。
物心もついてない頃。
ただ、彼女の冠をつけたら似合いそうな頭が好きだった。
それを撫でていく大人たちに混じって、僕はその頭を触りたかった。
僕の成長と共にそれは、清潔感のないものになってしまった。
僕の手、汚れっちまったかなしみに。
それが、大人であると同時に、彼女との接点のなくなっていく過程であると、また僕は知っていた。

9/22/2023, 10:26:47 AM

声が聞こえる。
泡沫が上っていく、水底。
水面はゆらゆらと揺れて、美しい。
それは、どこか世を儚んだ、少女の心の声と、呼応していた。
耳朶に入るのは、あの人の声。
私は、あなたの声を聞くまで、生きたい。
転生して得た二度目の生でも、やはり私は不幸なのか。
こうして、溺れて死んでいってしまうのか。
ざぶん。
水面が際立つ。
激しい水音と、伸ばされる手。
そう、その褐色のあなたは、赤い眼をしていた。
「なにやってんだよ。こんなところで」
口はこう、形作っていた。
馬鹿じゃないのか?
と。
でも、その優しさ、と理解していいだろうか。
彼の優しさが、それを口に出さなかったのかもしれない。
彼は私の背中に大きな布をかけてくれ、また、さすってくれた。
咳き込むと、肺の中の水が、吐き出された。
「良かった。ひとまずは身体を温めないとな」
そう言って、器用に火打石で、火を起こす。
なんだか、その火を見ていると、涙が溢れてきた。
「私、死ななくて……よかったんだ……。ありがとう。セルべ」
「何言ってんだよ。人が死んで喜ぶ奴があるか」

9/20/2023, 10:26:09 AM

大事にしたかった、もっとあなたの事。
永遠に好きだと言わせたかった。
ただ、その明るい笑顔が好きだから、ずっと一緒にいたかった。
その、元気な声を聞く度に、私は笑顔になった。
二人はそれを、共有していた。
愛してる。
その言葉だけで、その日一日が幸せだった。
一日中、ずっと抱き合って寝ていた日もあった。
二人ともお互いを尊重しあい、彼も私のことを嫌いではなかったし、私も彼のことが嫌いではなかった。
ただ、ある日の夜、彼は突然いなくなった。
私を置いて、彼は消えた。
なぜだろえかと思ったら、彼は人魚だったのだ。
私とは身分違いの恋だったのだ。
白い髪、白い肌、白い声。
いつか見た本当の姿。
そうして鱗が着いていて、長いヒレが綺麗だった。
本当に、彼は人魚だったのだ。
カルキ抜きの塩素を水槽に入れる度に思い出す。
彼が、この水槽の中を、ものすごく気にしていたということを。
「おはよう」
と、挨拶したら、
「おはよう!」
と、抱きしめてくれる。
「今日も元気だね!」
とキスをする。
それで、私は魚になる決意をしたのだ。
彼と同じ身体になって、この生のある限り、彼を探し続ける決意をしたのだ。
という訳で私は、この水槽の中に、吹きだまっている。
彼は、どこに消えたのだろう。
朝起きたら、フローリングの床には、びっしょり濡れた跡が残されていた。
さあ、私はどこに消えよう。
彼は海へとたどり着いたのだろうか?
そのヒレで。

9/18/2023, 10:44:23 AM

夜半の息のできない匂い。
埠頭から、夜行のフェリーが往く、ぼうとした汽笛の音。
蒸し蒸しとした霧の街の、遠く広がる小さな夜景。
それに、僕は手を伸ばして、潮騒の薫りを聞いた。
とぷん。
足が冷たい。
足元まで海水が来る。
静かな波に、無性に愛しさが増す。
ああ、何も出来なかった。
結局、僕は彼女の夫になることは出来なかった。
彼女はもう、そばにいない。
彼女がいると、僕は何も出来ない。
こうして、生きている限り、自由などどこにもない。
肺に苦しさが上ってくる。
意識が遠のく。
ああ、神様。天国なんて存在するはずがないのに、どうしてそんな、うわ言を吐くのですか?
まだ竜宮城の方が、真実味がある。
僕は、海の泡と消えるのです。
海の泡沫となって、この夜の埠頭から、姿を消すのです。
あの人が、どこまでも着いてきてくれるのなら、旅行に行きたかった。
南国の長いトンネルを抜けると、山並みに光が差す。
雲間に梅雨明けの、梯子が指していて、途中途中を、息継ぎのようにレールが走ります。
トンネルを抜けると、長いトンネルでした。
僕の人生のようでした。
僕はもう、姿を消しますが、不幸なことの少ない人生でした。

9/17/2023, 10:23:41 AM

花園の中に、果実園があって、それを植えたのは彼女の曽祖父であるという。
サクランボの木や、イチジク、フランボワーズ、胡桃、季節によって姿を変えるその果実園は、ちょっとした祖母の自慢の種であった。
生る果実は、ジャムやコンポートになって、食卓を賑わせた。
特に私は、フランボワーズのジャムが好きだった。
食パンを焼いたのにつけて、バターも合わせて熱々のパンにのせて食べるのが好きだった。
イチジクは、祖母の好物で、赤ワインで、コンポートにするのが好きだった。
秋の今頃と言えば、栗である。
渋皮煮、マロングラッセ、栗ご飯。
とにかく、大量になった栗を拾い上げて消費する。
今日は栗とトウモロコシを合わせたおこわだ。
祖母の冷凍庫は季節の物でいっぱいで、夏になれば甘夏のマーマレードが並ぶ。
秋になれば、イチジクのジャムで、冬になれば、生姜の佃煮。
田舎のネズミと都会のネズミ、どちらが幸せかなんて質問は、多分こうだ。
田舎のネズミが作ったものを、都会のネズミはお店で売って、お金に変えました。
田舎のネズミは、それで、魚を一匹買って、パイ包みにして、都会のネズミと一緒に食べました。
屋上の、観葉植物の草木に、水をやるのが二匹の日課でした。
祖母と祖父の関係は、そういう関係だったらしい。
私は、その話を聞く度、祖母が作ったパイ包みの味を思い出す。
サーモンとジャガイモのパイ包み。
きっとネズミは、お腹が太って、今日も仕事に精を出すだろう。
このまままでは、私の腹回りも危ない。
食欲の秋、ウォーキングに精を出す、私であった。

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