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夜半の息のできない匂い。
埠頭から、夜行のフェリーが往く、ぼうとした汽笛の音。
蒸し蒸しとした霧の街の、遠く広がる小さな夜景。
それに、僕は手を伸ばして、潮騒の薫りを聞いた。
とぷん。
足が冷たい。
足元まで海水が来る。
静かな波に、無性に愛しさが増す。
ああ、何も出来なかった。
結局、僕は彼女の夫になることは出来なかった。
彼女はもう、そばにいない。
彼女がいると、僕は何も出来ない。
こうして、生きている限り、自由などどこにもない。
肺に苦しさが上ってくる。
意識が遠のく。
ああ、神様。天国なんて存在するはずがないのに、どうしてそんな、うわ言を吐くのですか?
まだ竜宮城の方が、真実味がある。
僕は、海の泡と消えるのです。
海の泡沫となって、この夜の埠頭から、姿を消すのです。
あの人が、どこまでも着いてきてくれるのなら、旅行に行きたかった。
南国の長いトンネルを抜けると、山並みに光が差す。
雲間に梅雨明けの、梯子が指していて、途中途中を、息継ぎのようにレールが走ります。
トンネルを抜けると、長いトンネルでした。
僕の人生のようでした。
僕はもう、姿を消しますが、不幸なことの少ない人生でした。

9/18/2023, 10:44:23 AM