NoName

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9/8/2023, 10:18:36 AM

高鳴る胸の鼓動
永遠の孤独
覚めない夢
明けない夜はないよ

一昔前のアイドルソングを聞いていた。
推しの子が、センターだった。
握手会にもいった。
観客席で見るよりずっと美人で、それでいて愛を振りまく彼女のことをずっと天使だと思っていた。
帰ってから、握手会の事を思いなおすと、もう二度と手も洗えないなと、思った。
そんな、推しのアイドルグループが解散して二年が経った。
推しだったあの子は俳優と結婚したらしい。
今じゃ一児の母だ。
とある界隈では酷い声が上がったけど、もちろんお祝いの声もなくはなかった。
むしろ僕は、これからも元気で歳をとっていく彼女に声援をむけていた。
しかし、人というのは、分からない。
彼女が笑っている、テレビの向こう側では、弱肉強食の世界が広がっているのだ。
それを、引退という形で、この世界からいなくなった彼女に、僕はこの世界の喜劇性を感じずにはいられない。
かなぐり捨てて叫べば、彼女の声をもっと聞きたかったと言っても良いのだが、彼女は僕たちを魔法にかけて去っていった。
そのことに対しては、誰も文句はなかろう。

9/7/2023, 10:33:23 AM

踊るように、叫ぶように、駆け抜けた草原は、赤い絨毯のような色をしていた。
彼岸花に毒があると教えてくれたのは誰だっただろうか。
打ち捨てられた兵士の足、切り離された胴体。
コオロギが鳴くのを、汗ばんだ顔を拭いながら、その醜女は、ざんばらな髪を投げ打って、聞いた。
誰も彼女に声をかけなかった。
ただ、あるがなきがごとく、彼女は存在していた。
存在を許されていたのは、彼女が鬼であるからだろうか。
鬼……、獄卒。地獄から這い出てきたような、その足は、血と花の色に赤く濡れていた。この戦場で、生きているのは彼女しかいなかった。
彼女は、男の腸を、手に取った。
そうして、それを己が胴体に巻き付け、食らった。
貪り食らう。
それは、生命の循環から、逸脱した行為ではなかったか。
原っぱには、大量の死が転がっている。
女は食らうものとして、また死と生の一部であった。
その身体は、抗がえぬ、鬼籍の一部として、血に飢えていた。
麓の薄明かりが灯るか灯らないかの黄昏時のことであった。
しばらくの静寂が、その刻を包み込んでいた。
その女は闇に消えた。
誰も、女の行方を知らない。
今だどこかで、屍を食らっているのかもしれぬ。
戦国の世の事である。
その日、夜、牛頭の件が、一声鳴いた。
禍事を告げる声であった。

9/6/2023, 10:17:10 AM

時告げる鐘の音。
伽藍の天上に描かれたフレスコ画。
この教会には、今日も神はある。
大きな十字架が、掲げられているが、信徒の姿は見えない。
ステンドグラスから、薄光をともなって、降りてくる光の粒は、教会の静寂さに拍車をかけている様だ。
「シスター、相変わらずの奉仕精神の欠如は、如何かと思うが、それは従順な愛なのかね?」
と、ガブガブ頭に噛み付いて来るシスターを、払い除けながら、私は血のたれた額を拭った。
「アガペーとは神の愛。これ即ち、神しか持ち得ません! ましてや、人の愛など、打率の低い打者のごとく、当てになりませんわ」
話が見えない……。
結局のところ、このシスターが信心深すぎて、頭がイッちゃってるのは、どうしょうもないことだ。
それには、誠心誠意、秩序と律法を持って、接しなければならない。
私は私なりに職務を全うしているという、事実が必要なのである。
「それより、神父様。今度の復活節の、イースターエッグは、どのようにいたしましょうか?」
「皆で飾りつけをしよう。あ、君は去年、無茶苦茶な絵を描いた経歴があるから、ベンチにいてくれたまえ」
「ピンチヒッターという訳ですね」

9/5/2023, 10:45:47 AM

阿古屋貝、子安貝、桜貝……。
古臭い磯の香りがする部屋。
爺ちゃんの書斎にある本を、めくると並んでいる。
『貝の本』。
ただ、それだけ書かれた表紙。
中は図鑑になっていて、両方のページに一つずつ、貝の絵と説明が載っている。
僕が、一番好きなのは、法螺貝である。
なんでかと言うと、爺ちゃんの書斎に本物が吊り下げられているからである。
それは、とても大きくて、斑点がついており、吹き口がついている。
一度、爺ちゃんがまだ生きているときに、吹いてもらったら、とても大きな音がして、ビックリしたことを覚えている。
爺ちゃんは漁師だった。
小さな船を持っていて、海に潜るのだ。
船は波間に錨を下ろし、鮑や、雲丹を採るのだ。
それらは、たまに食卓に並んだ。
だから、僕は貝の名前を沢山知っている。
鮑、牡蠣、蛤、田螺、どれも美味しい貝である。
身が食べる所が少ない貝も多い。
貝は、貝毒という毒を持っている物もいて、とても危ない貝もいるのである。


9/3/2023, 10:14:12 AM

些細なること、つまびらかな、少女の今日の一日。
子細で、起伏に飛んだ、物語のような今日。
児童書を読みながら、猫を撫で、兄と語らい、夕刻は母にならって食卓につき、夜になると屋根裏のカウチソファで寝る。
そんな、自由な一日。
彼女はそれに満足しているか?
否、していない。
自分がお姫様であればいいと、いつも思っているし、食卓のパンに塗る蜂蜜が、黄金色に輝いて塗れられればどんなに素晴らしいことかと思っている。
スープの中のカブが、牛肉の柔らかく煮込んだスジ肉であったりして、飽食の象徴のような、豪勢な食事を、彼女は物語の内に望んでいる。
その、自由な意思は、兄との会話にも表れる。
「お兄様、お母様がお妃様で、お兄様が王子様であったら、どんなにいいかしら」
「夢を見るのはいい加減おやめよ。もう、十二歳にもなるんだから」
昔の兄は、全部彼女の話に着いてきてくれ、またその空想の内に、語り合うことも多かったのに……。

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