NoName

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8/2/2023, 10:18:46 AM

長く伸びる廊下。
永遠に続くであろう苦痛に身悶える、身に覚えがする。
306号室のがら空きの部屋に、ひとりの痩身の男は腰かけた。
ここは、元は病室だった部屋で、鉄格子のはまった窓が厳しい。
なにをそこまで、妄執的にと思うが、警察病院の3階であって、人を逃がさないようにするのは、当たり前だろう。
現在は使われていないものと見え、消毒液の匂いはおろか、医者の話し声もしない。
ただ、相方が後ろからコツコツと靴音をさせて、近づいてくる音が聞こえた。
機嫌悪そうに語りかけたその男は、水道の蛇口をひねると、水を飲んだ。
こんな、水道管が腐っていそうな場所で……。と、怪訝な顔で返してやるが、ふてぶてしく息をつく。
ただ、男の有り様は、世間からは外れていたが、彼らの暮らす社会では、不適合者ではなかった。
暴力と策謀とが混雑する世界では、男の暴力癖は、クロールの途中で、息継ぎをするような、潔さに満ちていた。
相方は、血反吐を吐くようなこの、闇社会でのし上がってきた、成り上がりの男だったが、さすがにこの廃病院の調査にも、抜かりはないようであった。
ただ、愚痴は多かったな、と今になって思う。
愚策ではなかったが、愉快な話はひとつもなかった。

8/1/2023, 10:25:58 AM

明日、もし晴れたら、ロンドンに行こう。
ロンドン橋を渡って、テムズ川沿いのパン屋をのぞこう。
ロンドン、霧の街。
それでも、夕暮れが来ると澄み渡るように空気が晴れる。
君のブラックタウン訛りの英語を、聞き流しつつ、揃いの制服を着て、往来を行こう。
「ねぇ、カイル」
君の、そばかすの入った頬に、コカコーラの瓶みたいな、夕陽が差して来る。
川の向こう岸に、テラスの張り出したカフェがあって、そこで紅茶を飲む、カップルたちが、和気藹々と、談笑を交わしてる。
「あそこのパン屋さんのベーコン入りのスコーンが食べたいよ。僕、もうお腹がすいちゃって、君の持ってる教科書をかじりたいぐらいなんだ」
「ベン、冗談はやめて」
相棒のカイルは、くだらない冗談を言うのが好きだ。
僕が優等生なことを、いつも馬鹿にするような態度なので、僕はそれにいつも怒らなくちゃならない。
「もう、本当にカイルったら」
「君はいいよな、天真爛漫で。首席の君には、僕なんかとは見えてるものが、さぞ違うんだろうな」
「目は二つ! 一緒じゃないか。君とどこが違うって言うのさ!」
「あれれ、おかしいな。鼻はひとつだし、口もひとつだ。なーんにも変わんないね。僕たち。違うのは頭の中身くらい!」
「はぁ……これだから、君は」
「わかってるよ。今日のビリヤードで、僕が勝ったから、熱々のパンは、もうすぐ僕のお腹の中」
「そうだね。でも、本当に君は、腹ぺこのあおむしみたいなんだ。いつもいつも」

7/31/2023, 10:14:32 AM

冷たい。
あなたの体。
雨に打たれて、氷のよう。
肌は、ひたひたと水が垂れてくる。
だから、一人にしたくなかった。
あなたが、溶けてなくなってしまいそうな気がしたから。
でも、あなたは言った。
「一人にしてくれ……」
私は、その手に触れた。
手と手が触れ合う瞬間、造られた悲しみを思った。
ヨルとナギは、アンドロイドの兄妹だった。
夜、空を見上げる時、ナギはいつも思う。
兄の、悲しい裸体を。
彼を覆う人工皮膚は、既に古めかしく、そして伸縮性がなかった。
十年に一度、取り替えなければならないのに、もう、ナギたちの管理者は死んで、百余年と経つ。
今までは、お互いがお互いの管理をしてきた。
だが、戦乱が始まって以来、ヨルはこれまでにも増して、口数が少なくなった。
頑なな兄の姿を見て、ナギは、古めかしいヨットを、湖面に浮かべた。
地下水が、水面を覆っている。
海浜都市だった、ツクボ市は、既にもうない。
水は綺麗だったが、飲めるものではない。
人が飲むものではないのだ。
アンドロイドですら、この汚染された水を分解するのには、時間がかかる。
戦争によって、積層された都市群は、かつては防衛機能を保っていたが、それも既に崩壊している。

7/30/2023, 10:12:28 AM

「君を地の果てまで愛そう」
男は、
「黙れ!」
と言い放った。
黒い髪に碧眼の男だった。
男は続ける。
「貴様のような男が、フェリス様を愛すだと!? 身の程を知れ!」
返す男は、一歩引いた調子で、金色の髪を撫で付けた。
「俺のような、芸人風情が、身分違いの恋をしてははらないと?」
「それはそうだろう。お前の口から出まかせで、一体何人の女を口説いてきたことやら」
「二人とも、やめてちょうだい!」
と女は叫んだ。
元はといえば、芸人がやってきたのは、晩餐会を盛り上げるためである。
決してこのようなことに陥ってはならないというのが、騎士長ロンバルドの言い分だった。
だが、芸人の男は続ける。
「君の澄んだ瞳よ。この王国の至宝。高嶺の薔薇。そして紫玉の宝石」
女の目は確かに、トパーズのような紫金の色をしていた。

7/29/2023, 10:25:47 AM

帆船は、帆を立てて行く。
航海の果てになにがあるかは、船長である、セラ・デカートだけが予見していた。
女海賊として有名な彼女は、恐らくこの大洋の向こうに、目指すエルドラドがあることを知っていた。
太陽が影ってくると、セラは天空を見上げた。
嵐が来る。
その予感に、彼女は怒号を発した。
「海が荒れる! 帆をたため!」
次第に波の向こうから、雨が降り出した。
雷雲は黒く渦を巻き、高波は甲板を濡らし、嵐は帆を殴る。
急いで部下たちに、たためと命じたマストはまるで、海藻のようだ。
ただ、この嵐を乗り切れば、きっと何かが訪れる、彼女はそう思っていた。
……しかし。
船は難破した。自身を疑うことを知らないセラは、神に祈った。
「航海の神様、私に何の非があった? もし、エルドラドに行けるんだったら、私は何を差し出してもいい。大枚はたいても、かまわない。だけど、ここで死ぬのだけは、嫌だ」
空に、ウミネコが飛んでいる。
気がつくと彼女は、ベッドの上にいた。
気が動転して、体を起こすと、にっこりと薬草師の男が微笑んだ。
男はこう言った。
「けして嵐か来ようとも、あなたの船は、沈まなかった」
船尾に穴の空いた船は、病院の目の前の、ドックに停泊していた。
彼女は誇らしかった。クイーン・ホープ号は、彼女を最後まで裏切らなかったのだから。

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