NoName

Open App
7/28/2023, 10:14:20 AM

からんからんと下駄の音が鳴る。
延珠は、この村の村長の娘だ。
今月に入ってから、このお祭り日を楽しみにしていた。
ちんとんしゃんてん。ちんとんしゃん。
太鼓と笛と鈴の音が、境内にこだまする、七時半。
次第に暗くなっていく空。月が影る夜。
下駄足が、足早になる。
ざわざわと、森の奥の方で、奇っ怪な気配がする。
この気配は、なんだろう?
延珠には、この村を守るための、霊感があった。
そう、その不思議な気配は、彼女を鎮守の森の奥へと誘うように。
(誰、誰、誰……?)
声はない、気配だけが広がっていく。
白い、気配だ。
透き通って、色がない。
こんな神聖な気、感じたことがない。
白い男が立っていた。
狩衣に、烏帽子、目を引くのはその、絹糸のような銀髪と、黄色く光る、蛇の目だった。
男は口を開いた。
「そなたのことは、幼き頃より知っている」
か細い声だった。
だが、凛と張りつめたような、一本の針を想像させた。

7/27/2023, 10:20:33 AM

神様が舞い降りてきて、こう言った。
「アガペーって知ってる?」
俺は知らなかったので、宗教の勧誘よろしく、その髭の生えたおっさんを、横目に逃げ出した。
おっさんの言うことにゃ、
「世界中でそれが欠乏しているのよねん」
そんなこと言われたって、俺は正義の味方でもないし、チェンソーマンでもないんだ。
おっさんは、逃げ出す俺を捕まえると言った。
「キミキミ、神の使者になってみない?」
そこからは、記憶がない。
気がついたら近くのガストにいた。
おっさんは、ネコ型ロボットと会話をしていた。
「大盛りポテトひとつ」
ロボットは困ったように、おっさんの前を通り過ぎて行った。
「あ、支払いは君、頼むよ」
「ええ〜」
「ええ、それでアガペーというのは……」
「やっぱ宗教の勧誘じゃん……」
「そんなことないよ、そんなことないのよ」
おっさんは、ポテトをつまむと言った。
「ポテトを揚げたら美味いっていうのは、人類の発想じゃなくて、神様が伝えたことだからね」
「ええ、うさんくせえ……」
それから、話は長いんだ。
「臭いものには蓋をしろ。じじいとばばあには優しくしろ、お天道様は見ている。まぁ、なんでもいいんだけどさ」
と、おっさんは、ため息をつく。
「アガペー? 神の愛? ポテトより美味いかって? 美味いんだよね、それが」
俺は、このホームレスのおっさんが、不憫になってきた。確かに新宿の横丁で会った。
それで、近くのカトリック教会で、炊き出しを受けていたらしい。
だから別に神様でも何でもなくって、本当にただのおっさんだったんだとさ。
そのおっさんが、昨日死んだ。
川べりで、神様にお祈りしてるときに死んだらしい。
不覚にも俺は泣いた。
天国に行ったのかなと思う。
アガペーはあったのかな、と思う。
だけどひとつだけ言っておきたいのは、人と言うのは、死ぬだけで人を泣かせるような、そんな人生を俺も送りたいと思った。それだけだ。
因みに俺は無神論者である。

7/26/2023, 10:17:08 AM

「この世界中にいる、全ての少年少女たちに告げる。君が世界を救えるとするならば、何を望む?」
白い服を着た男は、星々を摘むように、子供たちを見渡す。
「この世界にいる、食べるご飯もない、あらゆる貧困と、飢餓に苛まれている子供たちに、永遠の食に困らないような、救済を!」
「よろしいよろしい。君は富める国に生まれた少女だね。でも、君は知っている。人を救うことの、幸せを。もし誰かのためになるならば、自身をも厭わない、その献身な心は、きっと誰かを救うだろう!」
少女はそこで、栞を挟み、本を閉じた。
チリチリと星屑が、まぶたの裏に焼き付いている。
男は、きっと本当の善人で、代償なんか、求めない。
そんな、話を望んでいる。
絶望に陥る君に、救いの手を。
決して裏切られることのない、救済を。
優しさで包まれるような、幸せを。
でも、なんで人は、物語の内に不幸を望むんだろう。
大抵の主人公は、不幸の中にある。
そして、最後には幸せを掴みとる。
でも、それって、なんだか可哀想。
不幸って、いっぱい転がっているものなのかな。
それじゃあ、この物語は、幸せに終わって欲しい。
そんなことを考えながら、少女は枕元に、本を置く。

7/23/2023, 10:12:53 AM

花咲いて、夜の帷に鳥呼ぶ。
君、白粉の顔に頬をつけたる。
悲しみの色、嫌ましに涙袋に溜まり、白露一筋落ちるのを、指ですくう。
涙が止まらないのを、恋のせいにするのは、浅はかだろうか。
君が私の名前を呼ぶのを、遠く鳥が啼いているかのように、背中に聞くのは、非常に億劫だ。
もっと、近くで泣いて欲しい。
この手の届く距離で君を抱きしめたい。
慰めはいらないだろうか。
玉座に君を招いても、君の声を聞いても、私の気休めにはならないのだ。
今、この場所で、手と手を重ねて、朝啼き鳥の声を聞くまで共にいたいのだ。
君の言葉で、どうか囁いておくれ。
その、悲しみを。

7/22/2023, 10:17:18 AM

平成五年、六月十四日。
その日も濡れそぼった目で、彼を見ていた。
雨音がしとしとと傘を叩いた。
夏物の上着が、寒いくらいの肌寒さだった。
運命の人、貴方はまだ二十五歳で、私は二歳だった。
でも、十八歳の姿で私はここに私はいる。
雨がっぱを着た、リクルートスーツ姿のあなた。
あなたは私の知っているあなたより、ちょっとだけ若い。右手の腕時計を気にしていて、ズボンの裾が雨に濡れるのを気に病んでいた。
私は、紺色のセーラー服を揺らしながら、ブレザーのリボンが憂鬱になびくのを、見ている。
風が舞った。
リクルートの資料が、私の足元に飛んできて、思いがけず、私は足元を確かめた。
「ご、ごめんね」
「い、いえ」
ちょっと照れる。
私があなたを見送ったあと。
あなたの後の仕事は、私が引き継いだのだと、雲の切れ間に呟いた独り言は、六月の足音に、流れて消えた。

Next