NoName

Open App
7/21/2023, 10:28:40 AM

快感、気鬱、躁状態。
「お前、わかってるのかよ。先生はな、お前のこと見てねえし、それが、お前の躁鬱の原因だってわかってやってるんだよ」
そんなこと言われても、俺の求めているものは、手に入らないのは分かっていた。
それがとりとめのない、悪循環だとしても、俺は先生に手を伸ばさずにはおれないのだ。
俺が俺という、矛盾から抜け出せられないのは、あの人のせいなのだ。
苦しんでいるのは、あの人に笑ってもらうためなのだ。
いつか、矛盾が無くなるように、育てなければ。
墓の上に咲いた、苦しみと悲しみを吸った花が、大きく咲きますように。
あの人の心に少しでも、俺という花が根を張りますように。

7/20/2023, 10:26:28 AM

離れにある、奥座敷に持ち物を置くと、輝夜は濡れ羽色の髪を撫で付けながら、僕に言った。
「あなた、名前は?」
「僕は、新城ハル」
それが、彼女の声を聞いた、二番目の再開だった。
そのとき、僕はまだ彼女の名前も知らなかった。
「私は輝夜、輝夜雪」
うわぁ。お姫様みたいな名前だなあ。
と、素直に感嘆していると、輝夜はさらに続けた。
「私のおじいちゃん、さっき会ったでしょ? 人間じゃないの。オオヤマツミ。そういう神様なの」
聞いたことがなかった。
だけど、確かに神様と言われれば、そうも受け取れるような、そんな雰囲気さえした。
角張った何百年も生きているような、岩のような気配。
「じゃあ輝夜も、神様なのか?」
そんな気もする。だって、彼女の腰まで伸びた長い髪も、告白したくなるような黒いまつ毛も、なんだか神聖な気配がただよっていたから。
「私は、半分だけ、神様の血が混じってるの」
「そうなんだ、通りでなんか……」
「なに?」
と、急接近する彼女の顔。
いい匂いがする。
ち、近くで見ると、あまりにも美しい。
それこそ、雪みたいに。
「な、なんでもない」
そう誤魔化すしか、僕には出来なかった。

7/19/2023, 10:18:16 AM

彼女は知らなかった。
彼らの注目を。
目の前には白い絵画があった。
「この絵画の落札金額は、五千万だ」
興奮気味に話す、彼を横目に、私はその不思議な絵を眺めている。
何が描かれているかは、よくわからない。
ただ、この作家は六十年代ポップアートを代表する作家のもので、それはそれは、購買層は作家を褒めそやしていた。と聞いた。
この白い絵は、近くから見ると何層もの絵の具が塗り重なったものであるということが分かった。
そう、何重もの様々な白。
塗り固められ、ひび割れた画面。
何であろう、この欠落のような溝の中にはなにが詰まっているのだろう?
自信?
それとも、怒り?
はたまた、アーティストの、承認欲求とか?
「君は、もうちょっと、考えるべきだ」
と、彼は言う。
「それなら、この絵はなに?」
「完璧なキャンバスの上の生命活動さ」
そんなこと言われても。と、私は思う。
この作家が、何を表現したかったにしろ、私はこの絵に、何者でもない、ヒリついた欺瞞のようなものを感じたのだった。

7/18/2023, 10:21:43 AM

私だけ、脚がない。
インジケータに記されている、記号の羅列を読み解くと、私だけ、このコックピットの中に閉じ込められている義骸であることが分かる。
昆虫の目のように反射する、ハッチの高分子体は、外の世界が戦争でできていることを教えていた。
この、スタンダード・マトリクスは、人類の皮膚の延長線上にある。
自由に動かせる機械義肢、それがスタマトである。
苦しみはなかった。
私の脚ではなかったけれど、偽物の脚ではなかった。
戦争、闘争本能をフルに使うための、獣じみた争い。
私は、そのために作られた兵士に過ぎない。

7/17/2023, 10:13:00 AM

記憶と言えば、秋刀魚を焼いていた記憶。
それが、私の父の記憶。
生まれて最初の記憶。
練炭の炎に、燻るはらわた。
快活な父はこう言った。
「炭火で焼くと、旨いんだよ」
って。
今でも思い出す。
このことを思い出す時に、ついてくるのは、焦げた炭火の匂い。
と、彼氏に話したら、ずいぶん神妙な顔で言われた。
「大変だね、それって」
「どういう意味、それ?」
「だって、今どき練炭なんて見ないじゃない」
それはそうだ、だって、あの七輪の匂いは今では嗅げないもの。
そうして、炭火焼肉は続く。
好奇心の塊みたいな彼。
きっと、焼き秋刀魚のことを言い出したから、こんな夕食になったのだ。
「割り勘にしようね」
「でもそれじゃ、飲まない玉穂に悪いし」
「いーよ、いーよ。焼肉いっぱい食べるから」
箸が伸びるのは、多分炭の匂いがそうさせるのだ。
炭火の誘惑。いつにも増して、箸が進む。

Next