『理想郷』
「私の理想郷はね」
ベッドに寝転がる彼女は真っ白い天井を見つめながらそう言って、柔らかな笑みを零した。
「うん」
私は彼女の冷たい手を握って、ただ一言そう答えた。
「朝から学校に行って授業を受けて、放課後にはあなたと甘い甘いクレープを食べるの」
私は何も言えずに頷くことしか出来なくて、彼女の力になってあげることも出来なくて、それらが悔しくて苦しくて、泣くつもりなんてなかったのに涙が溢れてきた。
「たまにやんちゃして先生に怒られたり、誰もいない教室で歌ってみたりするの。好きな人も出来て、片思いしたり時には失恋したりするの」
彼女の美しく小さな声が私の耳を撫でる度、涙は溢れ、止まることをしてくれない。
「こんなに白くて狭い部屋じゃなくて家族がいる暖かい家に帰る。一緒にご飯を食べながら今日の出来事を話す。それが私の理想郷なの」
彼女はそう言って口を閉じ、私に視線を向けたあと、泣き出しそうな表情を浮かべた。泣きたいのは彼女のほうだと分かっているのに、涙を止めることが出来ない。
ずっと前から約束していたことだったし、覚悟を決めたから今日この場に来た。それでもいざやろうとすると震えが止まらなかった。
「本当に僅かな可能性でいつか叶うのかもしれないけれど、あくまでも理想郷は理想郷。理想に過ぎないの」
再び柔らかな笑みを浮かべた彼女は、
「やってくれる?」
と言葉を続ける。
「……うん。約束したもんね」
涙は止まらないし声は震えてしまったけれど、私はハッキリとそう答えた。
「ありがとう。そこの机に、遺書があるから。それをみんなに見せてね。あなたは私の願いを聞いただけって書いたから」
「うん。分かってる、分かってる」
これが本当に正しいことなのか私には分からなかった。それでも私は彼女に幸せになって欲しいし、彼女の力になりたいと思う。それがどんなに卑劣なことでも残酷なことでも、彼女の笑顔が見れるのならば望んでやる。そう思っているはずなのに、彼女の手を握る手と反対の、ナイフを握る手が震えて上手く動かせない。
「ありがとう。私、今すごく幸せ」
あぁ、彼女はどうしてこんなにも残酷なのだろう。私はどうしてこんなにも下劣な人間なのだろう。
彼女が浮かべる幸せそうな笑顔が私の心を無慈悲にえぐる。こんな事でしか彼女を笑顔に出来ない非力な自分に嫌悪感を抱くのと同時に、彼女を笑顔に出来る喜びを感じる。尋常じゃないと自覚しているけれど、彼女の表情を見てしまったら後戻りなんて出来やしない。
私は小さく深呼吸をしたあと、
「ずっと大好きだよ」
彼女が答える前にその柔らかな肌に刃を深く深く突き立てた。
「……わたし……も……だい……」
彼女の言葉はそこで途切れて、そこには非力な私と彼女に繋げられたよく分からない機械から鳴り響く高い音だけが取り残されて。
ナイフをそっと引き抜くと赤い液体がボタボタと零れ、真っ白い部屋が赤く染まる。
「綺麗な部屋になったよ」
私はそう呟いたあと亡き彼女にそっと口付けをして、そして彼女を見つめる。
──神様、私は彼女を幸せに出来ましたか。出来ていないのならばせめてどうか彼女を安らかに眠らせてあげてください。
存在するかも分からない、ましてや信じてすらいない存在に強く強く願う。
「ごめんね」
そして再び深呼吸をしたあと、私はそっとナイフを突き刺した。
『カーテン』
「朝だよ、起きて」
私に今日もまた一日が始まることを教えてくれるのは、あなたのその言葉だった。私の好みと真反対な白くて綺麗なカーテンを開けるあなたの笑顔は、朝日よりも眩しくて暖かかった。あなたの笑顔を見れば、どんなに憂鬱な日も幸せな日に、どんなに苦しい時も穏やかな気持ちに変わっていった。
高校の入学式で出会ってからもう九年も経つというのに、あなたは私を毎日楽しませてくれた。
夜行性の私と朝が得意なあなた。モノトーンが好きな私と白やピンクが好きなあなた。パンが好きな私と白米が好きなあなた。私たちはいつも正反対で、小さなことで言い合ってばかりだった。それでも長く続くことはなくて、すぐに笑って和解していた。
これからもそんな幸せな日々が続いていくと思っていたし、絶対にこの関係を壊さないと決めていた。
だから私はあなたの"親友"でいた。
あなたに好きな人が出来た時は笑って応援した。あなたが好きな人のタイプになろうとした時も沢山アドバイスをした。あなたが好きな人に告白された時も、喜んで、あなたが婚約した時も、サプライズでお祝いをした。
これで良いのだと、そうするのだと私が決めた。
私が決めたのに、どうしてか、いつもいつも心が苦しくて仕方がなかった。
それでもあなたの前では涙を流しはしなかったし、気持ちを悟られないよう努力した。
あなたが天使のように綺麗な心を持っていることも、あなたが誰よりも努力家なことも、あなたに白が似合うことも、全部全部知っているのに。あなたと一緒に白いドレスを着たいと、今あなたが立っている場所に一緒に立ちたいと誰よりも願っていたのに。
どうして今、あなたの隣に立っているのは私ではないのだろう。
「おめでとう、幸せになってね」
そんな偽りの言葉は流れるように零れ落ちるのに、どうして「すき」のたった2文字は声に、言葉に出来ないのだろう。
「なんであんたが泣いてるのよ」
そう言ってあなたは宝石のように美しい雫を流して、私に微笑みかけた。
「羨ましいなって思って」
「彼氏出来た報告、待ってるからね」
羨ましくて羨ましくて仕方がない。私が一番あなたを愛していたのに。私が一番あなたを幸せにしたかったのに。あなたを幸せに出来るあの男が、羨ましくて仕方がない。私じゃ幸せに出来ないと、逃げてばっかりだった無力な自分自身が情けなくて仕方がない。
私はどうするのが正解だったのだろう。あなたの幸せのためなら私は不幸になっても良いと思っていた。そのはずなのに、今だけは「私を幸せにして下さい、あの子を不幸にして下さい」そう思ってしまう、神に願ってしまう私がいるの。「全てなかった事にして下さい」と願ってしまう私がいるの。
「私はきっと、あなたより幸せにはなれないな」
「何言ってるの。あんたも幸せになってよね」
今想いを伝えたら、あなたはきっと、「私もだよ」って笑うだろう。恋愛的な意味ではないと思ってくれるだろう。だから、今がチャンスだと、これが最後のチャンスだと分かっている。分かっているのに、あなたの姿が扉の向こうに消えるその瞬間まで、私は言葉に出来なかった。
『通り雨』
朝目が覚めると、まず最初に死にたいと思う。また憂鬱な一日が始まるという事実を受け入れることが出来なくて、小さなため息がこぼれ落ちる。
鉛のように重い身体をゆっくりと動かして階段を降りると、母のすすり泣く声が聞こえてくる。
「お母さんどうしたの」
傍に立って、心配そうな表情を浮かべながらそう尋ねると、母は私の手首を掴む。
「あの人はどうして私を捨てたのかしら」
母は震える声で私にそう尋ねたかと思えば、死ねば良かったのかしら、消えれば良かったのかしら、つらいのよ、苦しいのよ、とヒステリックになり始める。
「大丈夫だよ。私はお母さんを捨てたりはしないよ」
そう言って母の背中や頭を撫でると、母は段々落ち着きを取り戻し、涙が止まり、やっと私から手を離してくれる。
「そうよね。私とあなたは死ぬまで一緒だものね。パン焼いておくわね」
母は私の赤くなった手首なんて気にもとめず、満足気に笑って朝ごはんの用意を始める。
これが私の朝のルーティンだ。
どれだけ早起きをしても、母が中々泣き止まず、学校に遅刻してしまったり、理由も言わず、ただただ娘を帰らせてくださいと学校に電話をかけてくるせいで早退させられたりなんてことは珍しくなかった。
そんなんだから、家庭内暴力があるらしいだとか、親が捕まっていて働かなければいけないらしいだとか意味の分からない噂が絶えず、廊下を歩けば色眼鏡で見られ、後ろ指を指される。もちろん、守ってくれるお友達なんてものは存在せず、先生でさえもモンスターピアレンツの子だと距離を取ってくる。
人間は誰しもつらいことがあるのだと、いつかは必ず幸せになれる日が来るのだと、そんな言葉をよく耳にする。胡散臭い言葉だと思いながらも、もうすぐ幸せになれるんだ、つらいのは今だけだ、これは通り雨なんだと自分に言い聞かせ耐えてきた。
でも、もう限界なんだと思う。
道路を走る車を目にすれば飛び出したい衝動に課せられて、学校の屋上に行けば飛び降りたい衝動に課せられる。眠ろうと目を瞑れば母の泣き声が聞こえてきて、息が苦しくなる。涙はもう何ヶ月も出なくて、死にたい気持ちだけが高まって、誰にも届かない声が私の中をぐるぐる回る。
私は一体どうしたら良かったのだろう。
私はただ雨が止んでほしいだけだった。雨宿りをさせてくれる人が欲しいだけだった。雲一つない青くて綺麗な空が見たいだけだった。それだけだったのに、そんな小さな願いは何一つ叶わなかった。
でもやっと、幸せになる覚悟が決まったんだ。
暗くて寒い自室で、自分の顔と同じくらいの大きさの"幸せへの入口"を作って、そっと足を踏み入れる。私にまとわりついていた息苦しさも、つらさも、死にたいという気持ちも、全部全部を思い切り蹴り飛ばしたその瞬間。
それは確かに、雲一つない晴天だった。
『鏡』
真実を写す鏡。そんな言葉を耳にしたことがある。
この街に暮らす多くの住人が、幼い頃から立ち入っては行けないと教わってきた森の奥深く。草木を掻き分けて進むと、ボロボロで灰にまみれた小さな小屋があり、扉を開けた先にその鏡があるのだとか。
僕は親のことをあまりよく覚えていないけれど、どうしてかその森に立ち入ろうとして、何時間も何時間も説教された記憶がある。噂によると、森に入った者は二度と帰ってこれないのだとか。
僕の家は母子家庭だった。僕たちは小さな一軒家で暮らしていた。しかし、ある日の夜中、僕たちの家に強盗が入ってきて、母が刺されて亡くなってしまった。僕は刺されはしなかったものの、殴られた跡や切り傷が多数見つかったことから、犯人に酷い暴行を受けたとされた。6年が経った今でも犯人は逃走中で、手がかりも少ないらしい。
当時の僕は9歳とまだ幼かったこともあり、暴行や親の死による精神的ショックで記憶を失ってしまったらしく、これらはあくまでも警察から聞いた話だ。
僕はあの日から毎日のように、悪夢を見続けている。黒く塗られて顔が見えないどこかの誰かに、何度も何度も殴られて罵倒される夢だ。精神科の先生曰く、記憶を失っているといえど、恐怖が体に染み付いてる可能性が高いのだとか。
僕は僕たちを襲った犯人が憎くて仕方がない。母のことは覚えていないから、母が亡くなってしまったことが悲しいかと問われると正直分からないけれど、僕は一時期、悪夢のせいで寝れない日々を過ごし、ご飯が喉を通らなくなり、家の外に出ることさえも出来なくなってしまった。体は痩せ細り、学校にも通えず、もう死んでしまいたいと何度も思った。何故僕がこんな目に合わなければいけないのだと何度も思った。
だから僕は決意した。真実を写す鏡を見つけることを。
決めてから行動に移すのは一瞬のことだった。僕は今、祖父母の支援を受けながら一人暮らしをしているということもあり、行ってはいけないと、行かないでくれと止めてくる人がいなかったから。
夜。僕は念の為、スマートフォンと財布、懐中電灯を持って、その森に足を踏み入れた。
そよそよと風の音が耳をくすぐってくるくらいで、森は酷く静かだった。一時間ほど歩いた頃、僕の目線の先には、灰被ったボロボロの小屋があった。僕は思わず駆け出して、その扉に手をかけた。
「見つけた」
扉を開けた先には、噂通り一つの鏡が置いてあった。僕は一人歓喜の声を上げて、その鏡の前に立った。
噂によれば方法は簡単で、鏡を人間だと思って、知りたいことを尋ねるだけなのだとか。僕は深呼吸をして、声を出した。
「鏡よ鏡。あの日、僕たちを襲った犯人は誰ですか?」
僕が問いかけた瞬間、鏡は白い光を放ち、僕は思わず目を瞑った。目を瞑っている間、やっと犯人を知ることが出来る喜びの気持ちが溢れるのと同時に、何故か犯人を知ることが怖いと感じていて、息が苦しかった。
もう一度、大きく深呼吸をして、そして目を開けた時、鏡に写っていたのは──僕の姿だった。
『病室』
真っ白い天井。真っ白い壁。真っ白いベッドに真っ白い服。全てが白で塗り尽くされたこの部屋が、私は大嫌いだ。赤、青、緑、黄。私の部屋がある3階の窓の外では色鮮やかな世界が広がっているのに、私はここから出ることが出来ない。 カラフルな世界を私はもう歩くことが出来ない。
綺麗なお花を持ってお見舞いにきてくれる優しい両親なんてものも存在せず、最後に顔を合わせたのは何時だったかすらももう覚えていない。看護師や医師は、きっと忙しくて来たくても来れないんだよと困ったように笑って励ましてくれるけれど、私だって、両親が見舞いに来ない理由を察せないほど馬鹿ではない。両親にとって私はお荷物。ただそれだけのことだ。
実際、自分がお荷物な存在であることを自覚してさえいる。あと何年生きるかも、いつ死んでしまうかも分からない奴のために莫大な入院費を払う。それはきっと少なくとも嬉しいことではないはずだ。
私が死ねば両親はきっと救われる。そう思って何度も何度も人生に終止符を打とうとしたけれど、恐怖という感情に打ち勝つことが出来なかった。そうやっているうちに、私は自由に動けなくなってしまったほど病状が悪化してしまった。
多分、私はもう長くない。自ら命を絶つことには恐怖を感じるけれど、何故か、いつ死ぬか分からないことに対する恐怖は一切感じない。むしろ、早くその時が来てくれれば良いのにとさえ思っている。
「死ぬ前に、カラフルな世界が見たいな」
鳥の声だけが響くこの部屋を少しでも明るくしたいと思うようになってから、私は独り言が多くなったように思う。今日も食べ残しちゃったな、眠たいな、身体が痛いな、疲れたな。そんなことを呟く日々が増えていった。一方的に呟いて、呟いて、呟いて。それの繰り返しだった。
だから、返事が返ってきた時は酷く驚くと共に、心の底から嬉しいと感じていた。やっと私に誰かが目を向けてくれたのだと、嬉しくて舞い上がりそうだった。私に声をかけたそのヒトは、赤、青、緑、黄、紫、紺と、色とりどりの風船を手に、窓の外からこちらに手を伸ばしていた。
「こっちにおいで」
そのヒトの声音は何処か懐かしくて、その声が耳をくすぐる度に、涙が溢れて止まらなかった。
気がついた時には、その暖かい手を掴んでいて、私の目の前には、鮮やかな世界が広がっていた。
灰色の地面、黄緑色の草、ピンクの花、緑色の木、様々な色の屋根、青色の空、赤い太陽、白い雲。世界が鮮やかで、賑やかで、息を飲むほどに綺麗だった。
「何これ、凄い、凄いよ」
私は思わず走り出していて、走って走って転んで、そのまま寝転がっていた。
いつか、今までで一番幸せだった瞬間はいつですかと聞かれたら、きっと私は今日のことを話すだろう。
私をここに連れてきたヒトは、寝転がる私に近づいて、そして私の頭を優しく撫でてくれた。その瞬間、何故か強い睡魔に襲われて、もっと眺めていたいという気持ちとは裏腹に、瞼を閉じてしまいそうだった。
「まだ、あともう少し……」
ああ、眠くて眠くて仕方がない。あともう少しだけこの世界を目に焼き付けたいのに。瞼を閉じまいと指で広げてみても、睡魔に勝つことは出来なくて。
そして私は、カラフルな世界でそっと深い深い眠りについた。