↺↺↺

Open App

『理想郷』



「私の理想郷はね」
ベッドに寝転がる彼女は真っ白い天井を見つめながらそう言って、柔らかな笑みを零した。
「うん」
私は彼女の冷たい手を握って、ただ一言そう答えた。
「朝から学校に行って授業を受けて、放課後にはあなたと甘い甘いクレープを食べるの」
私は何も言えずに頷くことしか出来なくて、彼女の力になってあげることも出来なくて、それらが悔しくて苦しくて、泣くつもりなんてなかったのに涙が溢れてきた。
「たまにやんちゃして先生に怒られたり、誰もいない教室で歌ってみたりするの。好きな人も出来て、片思いしたり時には失恋したりするの」
彼女の美しく小さな声が私の耳を撫でる度、涙は溢れ、止まることをしてくれない。
「こんなに白くて狭い部屋じゃなくて家族がいる暖かい家に帰る。一緒にご飯を食べながら今日の出来事を話す。それが私の理想郷なの」
彼女はそう言って口を閉じ、私に視線を向けたあと、泣き出しそうな表情を浮かべた。泣きたいのは彼女のほうだと分かっているのに、涙を止めることが出来ない。
ずっと前から約束していたことだったし、覚悟を決めたから今日この場に来た。それでもいざやろうとすると震えが止まらなかった。
「本当に僅かな可能性でいつか叶うのかもしれないけれど、あくまでも理想郷は理想郷。理想に過ぎないの」
再び柔らかな笑みを浮かべた彼女は、
「やってくれる?」
と言葉を続ける。
「……うん。約束したもんね」
涙は止まらないし声は震えてしまったけれど、私はハッキリとそう答えた。
「ありがとう。そこの机に、遺書があるから。それをみんなに見せてね。あなたは私の願いを聞いただけって書いたから」
「うん。分かってる、分かってる」
これが本当に正しいことなのか私には分からなかった。それでも私は彼女に幸せになって欲しいし、彼女の力になりたいと思う。それがどんなに卑劣なことでも残酷なことでも、彼女の笑顔が見れるのならば望んでやる。そう思っているはずなのに、彼女の手を握る手と反対の、ナイフを握る手が震えて上手く動かせない。
「ありがとう。私、今すごく幸せ」
あぁ、彼女はどうしてこんなにも残酷なのだろう。私はどうしてこんなにも下劣な人間なのだろう。
彼女が浮かべる幸せそうな笑顔が私の心を無慈悲にえぐる。こんな事でしか彼女を笑顔に出来ない非力な自分に嫌悪感を抱くのと同時に、彼女を笑顔に出来る喜びを感じる。尋常じゃないと自覚しているけれど、彼女の表情を見てしまったら後戻りなんて出来やしない。
私は小さく深呼吸をしたあと、
「ずっと大好きだよ」
彼女が答える前にその柔らかな肌に刃を深く深く突き立てた。
「……わたし……も……だい……」
彼女の言葉はそこで途切れて、そこには非力な私と彼女に繋げられたよく分からない機械から鳴り響く高い音だけが取り残されて。
ナイフをそっと引き抜くと赤い液体がボタボタと零れ、真っ白い部屋が赤く染まる。
「綺麗な部屋になったよ」
私はそう呟いたあと亡き彼女にそっと口付けをして、そして彼女を見つめる。
──神様、私は彼女を幸せに出来ましたか。出来ていないのならばせめてどうか彼女を安らかに眠らせてあげてください。
存在するかも分からない、ましてや信じてすらいない存在に強く強く願う。
「ごめんね」
そして再び深呼吸をしたあと、私はそっとナイフを突き刺した。

10/31/2024, 2:05:37 PM