送られてきた紫陽花の静脈のような色が綺麗で、暫く見蕩れていた。
添えられたカードには見覚えのある彼女の字。
懐かしい記憶には雨音が伴って、二人で傘の下歩いた景色がふわりと頭に像を結んだ。
これが僕を想った贈り物なのだとしたら、彼女は気づいているのだろう。
早く捨てなくちゃ。
色が変わってしまう前に。
好き嫌いはしちゃダメと教わってきたから、何も愛さないことに決めた。
そのうち愛されたいと思うことすら辞めて、昆虫のように気高く生きてきた。
だから、今更困るんだ。
こんな風に愛を伝えられたところで、僕にはやり方がわからない。
今週10回目になる林田仁花からの告白を断ると、教室中にブーイングが起きた。
イキんなボケチビ、いらねぇならウチがもらうぞ、引き出し糠床にしたろか、などと物騒なワードが飛び交う。
しかし当の林田は平然としたもので「じゃあ一緒に帰ろう」と僕を待っていた。
告白に答えられない理由は明確にあれど、一緒に帰ることを拒む理由はない。
いつもどおりにバッグを持って、昇降口から外に出た。
「なんで、林田は僕に告白してくるの?」
聞くと、不思議そうな表情。
「好きだから」
「どうして好きだと告白したくなるの?」
「付き合いたいからだね」
「どうして僕と付き合いたいの?」
「好きだからだね」
循環してしまったので質問は打ち切る。
学校の傍にある矢代神社の木の枝で、アブラゼミが鳴いていた。
「じゃあどうして、僕が好きなの?」
「ううん、それを答えるのは恥ずかしいな」
「教室で1日2回告白するより?」
「うん、それは私の内面の話だから」
「分からないけど、分かった」
「篠塚くんは人を好きにならないよね」
林田の声色が1mほど沈んだ気がして、肌がピリッと痛んだ。
「分からないんだ」
まだ、と縋るように付け加えた。
いずれはそれが分かるとでも思っているかのように。
「知ってるよ、そうだと思ってた」
「ならどうして告白するんだ。僕は林田さんの気持ちには答えられない」
「それも知ってるよ。私もそうだったし」
真っ直ぐ僕を見る瞳が深くて、吸い込まれそうな心地を覚える。
促すまでもなく、林田さんは続ける。
「私がそれなりにモテることは知ってると思うけど、まともに続いたことはないんだ」
「なんとなくは知ってる」
「味のしない料理を食べてるみたいに無為で、噛むほど自分が嫌いになっていくんだ。篠塚くんとは関わりなかったけど、この前見ててふと思ったんだ。この人も私と同じなんじゃないかって。それから気になってずっと見てた。見る度に確信が深まって、どんどん知りたくなった。そして何してる時もふと思い浮かぶようになって思ったんだ。これ、じゃないかって。初めての感情は楽しくて、大袈裟じゃなく世界が変わって見えたんだ。みんなずるいよね。いっつも世界がこうだなんて。だから、こうして毎日、告白してるわけだけど。私はもしかしたら、フラれ続けることを望んでるのかもしれない。形が変わるのが怖いから、まだこの気持ちを味わっていたいから。自分勝手だって、そりゃ思うけど。だけど醒めたくない。だからお願い、篠塚くん」
「このまま誰も愛さないでいて」
未だに忘れることの出来ない教室の景色は、記憶の中でいつも眩しい。
戻れないと知っていながら、焦がれるのを止められないのは、僕が他に縋れるものを見つけられないでいるからだろう。
窓から差した光がリノリウムに照り返し、反対側の壁を光らせている。
病室には、僕の他に一人だけ。
いつも退屈そうな表情で本を読んでいる。
僕の視線に気づくと、迷惑そうな睨みを返された。
「何読んでるの」
「言っても分からないと思う」
「言ってみないと分からないじゃん」
「シュロックホームズの冒険」
「有名なやつじゃん。コナン・ドイルでしょ?」
「違う、これはパロディ作品だから。シャーロック・ホームズを元ネタにはしてるけど、内容は全然違うんだよ。主人公は結構ダメダメだし」
「本家は本家でなかなかダメなやつじゃない?」
「は?本家は超カッコイイでしょ」
冷えた鋭い声が返る。
「すみませんでした超カッコイイです」
素直に謝っておくと、うむうむと満足気に頷いた。
「本、好きだよね。いつみても読んでる」
「このくらいしかないのよ。ずっとこんな病室にいるから。初めから好きだったわけじゃないわ」
「今は好きなんでしょ?」
「まあね」
彼女がいつからここにいるのか、僕は知らない。
初めて見た時からずっと、何かしらの本を読んでいたと記憶している。
もし、本を読むのが好きでもなかったのなら、読書を好きになってしまったことは、とても悲しいことのように思えた。
もう1年も行けていない教室が、遠い思い出になった僕はそれでもずっと焦がれている。
彼女はどうなんだろう。
いつからそう思って、そう思わなくなったのだろう。
いっそいつまでも届かないのなら、この夕焼けが街ごと燃やしてしまえばいいのに。
言葉にできない想いならいくらでもあるけれど、それを伝えるる勇気はいつも足りない。
伝えられないまま10年たった。
彼は高校の生徒会長になり、立派に壇上で司会を務めている。
それに比べて私ときたら、体育館のすぐ隣に設置された生徒指導室で今日も説教を受けている。
「お前その髪、その髪何色だ?何色って言うんだその髪は」
「オックスブラッドです」
「せめて分かる色にしてくれよ。怒りづらい」
「好都合ですが」
「だろうけど。お前、なんでまた2年になって急に染め出したんだよ。1年までお前真面目だっただろ。成績も学年2位だったし」
「成績と髪色に関係が?」
「賢いやつはだいたい、破る価値のないルールは守るもんだよ。悪業見せびらかして注目される以外に、自分の存在の示し方を知ってるもんなんだよ。お前もそうだっただろ。陸上でも県でトップ取ってたし、友達も多いし、わざわざお前が髪を染めてくる理由ってなんだ?マジで説教とかじゃなく教えてくれ」
先生は掌を上に向けて、こちらに問うてくる。
毎回付き合わせているのも申し訳ないし、理由くらいは教えてあげようかな、という気分になった。
「久保先生、女子高生がオシャレをする理由なんて一つでしょう。好きな人にこちらを振り向いてほしい。それだけです」
「誰?」
「言うわけないじゃないですか」
「いいから答えろ。うちのクラス?」
「まぁ……」
久保先生は椅子をくるくると回して、逡巡しているようだった。
「じゃあ吉野、お前、来週の文化祭で告白しろ」
「ええ!?」
「髪色オックスブラッドのやつがこの程度で驚くな。要するにお前の恋愛が成就すれば、素行は落ち着くってことだよな」
「まあ、そうなりますが」
「ならさっさと決着つけろ。」
ここに来るのは、10年ぶりだ。
季節は五月蝿いくらいに春めいて、桜の花を爛漫に光らせる。
桜の元に集う群衆はどれも、陽光に勝るとも劣らない笑顔をさんざめかせ、馬鹿騒ぎをしている。
10年前+に見たときはこれほど人が集まるような場所ではなかったけれど、随分と出世したものだ。
ここは山の深いところで、道路も通っていなかったのだが、観光の目玉にしようと目をつけた行政が、道路を開拓し、公園を作り、駐車場を整備し、看板を立てた。
それからこの場所はこの刹那の季節だけ、賑わいを見せるようになった。
喧騒を尻目に、ちびちびと焼酎を齧る私の肩にぱしりと固い感触があった。
見ればとてつもない美人がそこにいた。
まだ高校生くらいに見える。
「おとうさん、こんなところで一人で何をしてるんです?」
それほど大きい声ではなかったが、喧騒を容易く貫いて言葉が耳朶を揺らす。
その嫋やかな声音は、枝垂れ桜を思わせた。
「見てのとおり、花見です」
「誰かと来てるんですか?」
「うーん、私はそのつもりでいるけれど」
女性が傾げた白い首を舞い寄る花弁が彩った。
「毎年家族で来てたんです。ほら」
私はスマホを探り、1枚の写真を見せた。
妻と娘が写っている。
バックに桜の木。
私は撮影をしていたから写っていない。
「へぇ、楽しそうですね」
「そうでしょう。まあ5年前、離婚しちゃいましたけど」
「娘さん、この時何歳くらいですか?」
「12歳、だった」
「そうなんですね」
春に似つかわしくないほど涼やかな顔には、ひとつも汗が浮かんでいない。
なんだかここだけ、喧騒から切り離されているような不思議な感覚だった。
「ひとりっ子、だったんですか?」
「……」
春一番が吹いて、忽ち花弁が舞い踊った。
喧騒はすっかり消えてしまって、木がザワつく音しか聞こえない。
「10年前、ここを訪れた夫婦がいました。人目のつかない山奥にシャベルだけを持って」
「……」
「若い男女の駆け落ちは過酷なものだったことでしょう。子供を育てるのにもお金がかかります。一人でもキツイのにましてや、二人も」
「……」
「生まれた子供が双子だったのは、不運な偶然で、誰も責められるものではない。しかしそれほど賢くない夫婦にも明白に分かったことでしょう」
「……」
「このままでは一家で心中するしかなくなってしまう。そこで夫婦は思いました。片方を生まれてこなかったことにしようと」
「……」
私の首筋に汗が垂れていた。
そこ桜の花びらがぺたりと張り付く。
「夫婦は協力して、子供を山奥まで運び、とうとう埋めてしまいました。間違っても掘り起こされないように、1番大きな桜の下に」
「……」
「仮に生きていたならば、私くらいの年齢でしょうか」