これほど透き通った秋晴れならば、言葉をいくら濁したところで全て伝わってしまいそうだった。だから端的に「好きです」とだけ言った。遥輝が申し訳なさそうに笑ったとき、答えはわかってしまったけれど、しっかり終わらせるために、返事を最後まで聞いた。
「そこのお嬢さん、一緒にお茶でもどうかな?」
校門を出て少し歩いたところの、誰も寄らない図書館に置いてある塗装の剥げた赤のベンチからおどけた声をかけてきた親友は、赤縁眼鏡を下げて、上目遣いで私を見ている。キザったらしく組んだ脚に軽く蹴りを入れて隣に座った。
桃華は項垂れ続ける私の頭をくしゃくしゃと撫でていた。30秒くらいした後、撫でるのをやめたから、もっと撫でろと言ったら少し延長してくれた。
「学校終わってからずっと図書館いたの?」
「そう、1冊読み終えちゃったよ。部活、長かったね」
「新チームなってから、少し厳しくなったよ。男子も先生変わって練習キツイみたい」
「そうかぁ」
桃華は目を細めて空を見ていた。視線を追うとアキアカネが1匹。少し遠くには群れがいたけれど、そこに戻る気はなさそうだった。
「私、もう少し潔くいれると思ってた。遥輝が私のことを好きじゃないことくらい、とっくに分かってたんだから。諦めるため、だなんて言い訳して、心の奥では期待してるくせに。玉砕してもまだ好きだもん私。無様だぁ」
溢れた涙がジャージをじわりと濡らした。涙が熱い。うえぇ、と嗚咽しながら、必死に自分の思いを話していた。何を話したか、自分でもよく覚えていないけれど、桃華は優しく聞いてくれた。
たくさん話して、たくさん泣いて、少しスッキリした頃には、もう夕焼けは半分もなくなっていた。
「ああ、もう暗いや。ごめんね、こんな時間まで」
「いいよ。そのために待ってたんだから」
桃華は階段下の自転車置き場から、黒のママチャリを引っ張り出して跨った。不敵な笑みでこっちを振り返る。
「駅まで乗ってく?」
「あなたがいつまでも記憶の中にいることがどれほど残酷なことなのか、あなたにも分かってほしいけれど、あなたにとって私の存在は私にとってのあなたの存在ほど大きくないから、会えなくなって数年経ったって平穏で健全なままでいられるのでしょう。
私の世界に比べてあなたの世界は広いから、仮に存在が同じ大きさであったとしても、きっとその数パーセントも占めさせてくれないのでしょう。
あなたの両親と親友と恋人とペットと同僚を殺したのは、そのことが気に食わないという理由です。わざわざ手紙にして伝えたのは、あなたは私の話を遮ることがあるからです。
あなたに殴られてできた傷が消えてしまうのが嫌で、私は瘡蓋を剥がし続けています。あなたに持ち去られたお金が元に戻るのが嫌で、お給料が入金される通帳を変更しました。あなたの罵倒を忘れるのが嫌で、寝る前に復唱することにしています。
私はあなたの何パーセントになったでしょうか」
電灯の音だけ聞こえる。頭の芯が痺れて、思考の全てがボヤけている。縄が手首にくい込んで痛い。何度も読み上げさせられて、喉が渇いてきた。100パーセントです、とまた叫んだけど、水はもらえなかった。
河野陽葵は太陽のような人だった。
太陽のように世界を照らして、夕暮れを残して去っていく。
彼女がこの世を去ってから、半年が経った。
あの陽だまりの心地良さを知らなければ、自分がいた場所がこんなにも暗くて、惨めなところだったと気づかずに済んだのに、なんて逆恨みも甚だしいけれど。
私は未だに想い出ばかりしがんでいたから、
私の推測によれば私か、もしくは私以外の全員だ。
境目で空気の流れが乱れているからすぐ分かる。
こういう時は少数派が異物役を買うのが一般的だろうか。
試しに席を立ってみると、教室後方のドアの前から山崎と石野が避けた。動線を確保してくれたようでありがたい。少し動けば道が開くだなんて、たった数時間で私はモーセにでもなったのだろうか。
戒律は
何か一つ選択をする度に、選ばれなかった物語が消える。それは自分が自分の意思で選ばなかった物語でもあるのだが、それでも後悔が残ることはある。そうして布団の中に蹲りながら、有り得たかもしれない可能性について、ウダウダと思いをめぐらせることも少なくないだろう。
しかし、人は決してその物語に手が届かないことを知っている。知っているからこそ、それに伴う困難をことごとく棚に上げて、都合のいい部分だけを掻い摘んで、作り上げた物語を夢想する。
そのようなただ甘いだけのインスタントな妄想に耽溺している時間を不毛だと切り捨てる不届き者もおろうが、それでも私はこの活動をやめる気はない。なぜなら、それに勤しんでいる間だけは苦いだけの現実から目を背けていられるからである。
周りから見れば、生産性のない空虚な生活だろうけど、現実の苦味を実感し続ける生活よりマシだと僕は思うのだ。
空想の中の僕は能力や人格に補正がかかっていて、やることなすこと全て上手くいく。対して現実の僕は小心者で、能力も低い。能力をあげるための努力すら、面倒ですぐにやめてしまう。
だから、仮に神様か何かに、過去に戻って自分の選ばなかった物語を体験させてくれると言われても、僕は断固として断るつもりだ。
勿体ないって?冗談じゃない。上手くいくなら勿論いいが、現実はそんなに甘くない。どのみち僕は行動出来ずに、惨めな気持ちをもう一度味わうだけだ。
それだけじゃなく、今僕が心の拠り所にしている妄想も二度と出来なくなってしまう。上手くいく想像すら出来ずに、絶望的な気持ちで布団にとろけていくだけのモンスターが出来上がってしまう。
だから、あの時に戻ってやり直せたら、だなんて不可能でなおかつメリットの薄い愚かな望みを僕は抱かない。分布相応という言葉を知らない小二の頃にも先んじてそれを実感していた僕には、そんな誘惑は通じないのだ。
「じゃあやらないってことでいいか?」
「やらせてください!!!!」
これほど自分の体が軽快に動いた瞬間を知らない。
言い終わるころには、すでに土下座の体勢が形成されており、聞いたことないボリュームの返事が部屋に轟いた。
部屋といっても、自分の部屋ではない。
白の壁に囲まれただだっ広い部屋である。
部屋の中央、宙空には全身白タイツのオジサンが浮いていて、その見下す先に僕の土下座がある形である。
なぜこんなところに来たかは分からない。
この白タイツが誰なのかも分からない。
だけど、「お前を2020/8/24に戻してやろう」などと話をもちかけられては、僕はそれを断ることは出来ない。
なんなんだお前、と呆れた様子の白タイツに、さらに二段階ボリュームをぶち上げた「頼んます!」を追撃した。
これもまた都合のいい夢なのかもしれないけれど、それでもお願いせずにはいられないのだ。
2020/8/24は僕の幼馴染である山城ひかりの命日の1週間前なのだから。
散々述べ立てた能書きも、全部帳消しにしていいから。
もう一度後悔することになっても構わないから。
「……戻してください。あの時に」
次は絞りカスのような声しか出なかった。
白タイツはダルそうに頭の後ろを小指でかいた。
「こっちは最初からそのつもりで来てるんだけどな。情緒不安定野郎が。喚きやがって」
暴言を散らしつつ、手に持った時計を見る白タイツ。
行ってこい、と聞こえた時、頭の奥が痺れる感触があった。
脱水症状の時に似ているな、と思いながら、僕はドロドロになっていく視界を他人事のように眺めていた。
伝えるために何度も言葉を選びなおして文を綴るけど、どれだけ時間をかけても十分じゃない気がして、渡せないままだ。
だから100回書き直した手紙をなくした私は、先に読まれないために、話したことのないクラスメイトに声をかけて、一緒に探してもらっている。
「図書室のパソコンって、利用者の記録とか残ってないんだっけ」
私の問いが誰もいない図書室に小さく反響する。ミステリーの棚から本を取り出しては捲り、ため息をついてまた戻す。挟まっているとしたら、この辺だと思うんだけどな。
「記録はもちろんしてるんだけど、これも個人情報だからね。顧問がサイトのパスワードを管理してて、僕は開けない。柊木さんは覚えてないの?その本を読んだの、ここ1ヶ月なんでしょ?」
恋愛小説の棚を探る手を止めずに篠塚は言う。葉の沢山茂った木が風にあおられてざわめく様な静かな声だった。その言葉を聞いて、私は少し悲しくなった。
「私、1日3冊くらい借りるからどれを読んだか忘れちゃうんだ。覚えていればよかったんだけど」
沈黙が降りて、紙を捲る音と本棚と表紙が擦れる音が聞こえる。早く見つけないとと思うけれど、なかなか出てこない。
「恋愛小説ってどういうところが面白いの?」
抑揚ない口調で篠塚が言う。馬鹿にされているのかと邪推したが、表情を見るにただ疑問を口にしただけのようだった。篠塚は純文学とミステリしか読まないから、単に他のジャンルに興味があるのだろう。
「どういうところがって言われると難しいね。」
私も元々は恋愛小説しか読まないタイプ