人の感情は不条理なもので、どれだけの理論の壁があろうと、長期的なプランの元重ねた蓄積がどれほどあろうと、それらを一瞬で覆す。
ひとめで惹かれて、ふためで惚れた。
衝動の赴くままに話しかけ、3言目にはもう告白していた。
その時、交際は断られたのだが、友だちからと約束を取り付け、4度目のデートで付き合うことになった。
彼女がいたのは旅行先の福岡だったので、デートはいつも土曜と日曜。
月曜朝の便で東京に帰って、仕事に向かっていた。
いつしか煩わしくなって、5年勤めた出版社を辞めて、福岡に住み始めた。
その時できた子どもが今年で6歳。
小学1年生になる。
この子には無限の可能性がある。
人生、苦労することもあるかもしれないけれど、
周りの人への愛を持って、調和を大事に、充実した人生を送って欲しいと願って妻と名前をつけた。
名前は平田愛和。
読み方はひらたあぶあんどぴーす。
我ながら素敵な名前をつけたものだ。
「こうして会うのは久々だな」
天河タケルは口角を横に大きく開いて、ニカリと笑った。
暗闇に光るようなその笑顔は、最後に一緒に舞台に立ったその時と、なんら変わらないように見えた。
「そうだね、2年ぶりくらいかな」
「もうそんなになるか」
「劇団、先週解散したよ」
「そうか」
「あのことがあってから、ずっとそうなる気はしてた。あれから何回練習しても上手く合わなくて、次の公演、大失敗だった。SNSでも結構バッシングが酷くて、そのうちみんな辞めてっちゃった」
天河は黙って聞いていた。
何か言いたそうな素振りもない。
私がここまで来たのは、確かめたいことがあったから。
私は天河を真っ直ぐに見つめた。
「教えてよ。志乃を殺したホントの理由」
長い沈黙の後、厚いガラス越しで、天河はため息をついた。
残り5分、と看守が告げる。
天河タケルはウチの劇団でダントツの人気を誇る舞台俳優だった。
3年前にウチに入団し、瞬く間にトップに上り詰めた。
ルックスだけでなく、役をその身に宿したような演技が評価されて、すぐに映画やバラエティにも呼ばれるようになった。
一等星の溢れる芸能界でも、天河の輝きは一際だったようで、色んなメディアで活躍していた。
しかし、どれだけ仕事が増えても、天河は舞台に出るのをやめなかった。
ひとたび舞台に上がれば、全力で役を演じて、当然のように客を魅了する。
闘志を剥き出しにしてギラつくその目は、使命というより、執念に燃えているかのように見えた。
テレビに出始めるようになってから、特にその傾向は強まった。
台本を食らいつくように読んで、ブツブツと何かを呟いては、頭を抱える。
そんな時間が増えていた。
それでも舞台に立てば誰よりも凄まじい演技をする。
その姿が少し怖くて、でも美しかった。
ロングランの公演の千秋楽。
ラストシーンは天河の一人芝居。
主人公は、屋敷に火をつける。
音楽が流れて、主人公は屋敷の中で踊り続ける。
悶えるように、楽しむように。
演者のほとんどは袖にいて、食い入るように天河を見ていた。
怖いのに目が離せない、不思議な感覚だった。
音楽が鳴り止んで幕が下りると、演者が出てきて挨拶をする。
その時出てきたメンバーに志乃はいなかった。
探しに戻らないと、と思ったけれど、そのまま続けるよう指示があったので挨拶を済ませて楽屋に戻った。
そこで、着替えを済ませようとした時、ノックが響いた。
開けると、そこには警察の人が立っていた。
志乃の死体は見ることができなかった。
ただ、ナイフで心臓を刺されていたことと、殺されたのが舞台の間だということを知らされた。
その日は、着替えもそこそこにすぐに帰らされた。
起こったことに現実味が感じられなくて、ぼーっとしたままだった。
犯人を知ったのは、次の日だった。
大仰な見出しとともに天河の顔が、記事に載っていた。
動機については、痴情のもつれと説明されていた。
しかし、私は違う理由がある気がして仕方なかった。
天河の演技を思い出して、私は仮説を建てていた。
「完成させるため、だったんでしょう?」
天河の表情は変わらない。
室内に響く土砂降りは、拍手に似ていた。
この街のアーケードは、奥に進むにつれ、シャッターが下りた店が増える。
街の中心に近い部分は、ほとんど居酒屋で占められており、その隙間を塗りつぶすように、服屋や雑貨屋、美容室、駄菓子屋等が点在している。
「ねー、聞いた?」
レバーをガチャガチャと動かしながらのんびりとした口調でそう言った。
話しながらでもその手さばきにブレはない。
的確にコンボを繰り出して、相手の体力ゲージを減らしていく。
「何がです?」
「このゲーセン、来週潰れるって」
「あー」
「あれ、あんま驚かないじゃん。知ってたの?」
「いや、知らなかったですけど。なんか納得いっちゃって。俺たち以外に全然客いないし」
「困るなー、この筐体珍しいのに。あ、勝った。ねえ見て、10連勝目」
後ろでスマホを触っていた俺の方を振り向いて、画面を指さす。
「君は?もう挑んでこないの?」
「もう懲りごりっすよ。またボコられるだけですし」
「ハンデあげるからさ」
「手加減されるのもそれはそれでムカつくんですよ」
「んえー」
変な声を出して筐体に腕を投げ出した。
ドアを透かして外を見ると、夕焼けがやたらと近くて、急かされているような気分になった。
「そろそろ帰ろっか」
淡い黄色と水色のタイルの上をスニーカーが滑っていく。
何か言わなきゃいけない気がした。
「あの、名前。教えてくれませんか?」
キュッと音が鳴って、茶色がかった髪がふわりと舞った。
俺たちは互いの名前をまだ知らない。
寂れすぎたゲーセンで、自然と一緒にゲームをするようになっただけの関係だ。
「2年くらい前だっけ。初めて会ったの」
「多分そのくらい、と思います」
「考えたらヤバいよね。お互い名前も年齢すら知らないでこんだけ一緒にいたなんて」
「聞くのもなんか野暮な気がしてて、ゲームするだけだから不都合なかったし」
ゲーセンを出ればいつも、俺たちは思い出したように他人に戻る。
ドアを開けたら別々の方向に歩き出して、現実に溶けていくのが常だった。
だけど今日は、そうなることが少し気に入らなかった。
「分かった。それじゃあ教えてあげる。2年間勿体ぶったのに、普通すぎる名前だけれど」
そう言ってドアを開けて、手招きをした。
夕焼けの方に歩いていく背に、遅れないようついていく。
二つ隣のおもちゃ屋のウィンドウから、小さなクマが俺らを見つめていた。
少し寂しそうで、でも安らかな瞳だった。
本当は特別、仲が良いわけではなかった。
本好きの僕たちは委員決めでは毎回図書委員を選ぶから、一緒にいる時間が多いだけ。
それでいくらか話すようになったから、仲良しと思われて、入る曜日を一緒にされていただけ。
ずっと隣にいたけれど、僕は彼女のことをあまり知らない。
だから、どれだけ熱心に聞かれても、僕が答えられるはずもないのだ。
彼女が死んだ理由なんて。
図書室の受付は基本的に暇なもので、貸出の希望があるまでは、座って好きな本を読んでいることが多い。
私語は基本的に禁じられているので、話すことはほとんどない。
しかし、その日は1年生が集団宿泊に行っており、図書室内には僕たち以外、誰もいなかった。
いつもは静寂と呼んでいたものが、今日は沈黙として居るようで、お互い本を開いているだけの時間が気まずく思えた。
「何読んでるの?」
不意に聞いてみると、伊藤は本を開いたままで背表紙をこちらに向けた。
もう終盤に差し掛かっているようで、本の片側にはページはほとんど残っていない。
口遊んでみるが、タイトルも著者も聞き覚えがない。
「やっぱ知らないか」
伊藤は僕の表情を見て、残念そうに言う。
「聞いたことないな。何系?」
「恋愛、ミステリかな。あんまり読まないでしょ」
確かに僕は恋愛モノやミステリは読まない。
読むのはSFばかりだ。
「恋愛とミステリってなんか不穏な気配がするよな。見るからに縺れそうじゃん。痴情が」
「まあそれが一番動機になりやすいからね。でもこれは純愛だよ。出てくるのは両想いが一組だけ」
「ホント?そこからどうやってミステリになるのさ。動機と直接関係ないとか?」
「いや、めちゃめちゃ関係ある、と私は睨んでるけどね」
「えー、全然想像つかないな」
ふふ、となぜか得意気に笑って、伊藤は背表紙を撫でた。
「でも、私も少し共感できる気がするんだ」
「誰に?」
「犯人」
「ヤダちょっと怖いんですけど」
大袈裟に引いて見せると伊藤は、あはは、と体を曲げて笑った。
「興味持ってほしくなっちゃったから、ちょっとネタバレするね。この話、主人公の恋人の女の子は最初に死んじゃうの。その死に方がめちゃくちゃ不可解なんだ。犯人もその動機も方法ももう全然分からない。それで主人公はその真相を知るために手がかりを集めていくんだけど。証拠を集めれば集めるほど、犯人の候補が消えていくんだ」
「なるほど……」
聞きながら、色々な仮説を頭に組み上げてみるが、詳細が何も分からないので、手の打ちようがない。
それでも考えていると、伊藤がニヤニヤと僕の表情を覗いていた。
「気になっちゃった?」
「なんだよ、その表情」
「なっちゃったんだねぇ」
伊藤は満足そうに伸びをして、そのまま掛けられた時計に目をやった。
気づかなかったが、もう昼休みが終わりそうな時間だった。
「ヤバい、ギリギリじゃん」
言って立ち上がる。
伊藤は読みかけだった本に栞を挟んで、カウンター横にある棚に入れた。
2人きりの廊下に足音が忙しく響いていた。
魔導書を読むのは、時間がかかる。
けれども、読む度に新しい発見があって、今まで知らなかった世界を知れる気がして、楽しかった。
とはいえ、その実践に全く興味はなかったので、覚えた魔法を使うことは一度もなく、また魔導書を読んでいることは誰にも知られないようにしていた。
だから、魔王討伐のパーティに加わるよう要請がきた時は、誰もが驚きを隠さなかったし、一番驚いていたのは私だった。
どうやら人探しの魔法具に、一番多くの魔法を使える者を探させたところ、私が該当したらしいのだが、どうにも納得がいかない。
「ちゃんと戦闘訓練を受けているものが行くべきなのではありませんか?」
不満を隠さず私が問うと、10代目となる勇者は思案顔を見せた。
「魔王討伐への道のりは過酷と聞いています。そんなところに私のような貧弱な女がついて行ったところで足でまといにしかなりません。きっと途中で殺されて終わりです」
一気に捲し立てるも、形勢が動いた様子はなく、勇者は眉根を寄せたままこちらを見ている。
鋭い眼光を突きつけられて、少し怯む。
けれど、ここで引く訳にはいかない。
この交渉には、私の命が懸かっている。
「そもそもどうして私なんですか、私は魔法に詳しいだけで一度も使ったことはありません。ただ、知識があるだけです。強い魔法使いなんて、いくらでもいるでしょう。私は!適任じゃ!ないと思います!」
パシンと机を両手で叩いて熱弁を振るう。
勇者は暫く黙っていたが、やがて、なるほど、と小さく呟いた。
もしかして分かってもらえたのだろうか。
「どうも話が食い違っているようだね」
勇者はスっと手を差して、私に座るように促した。
その後、物々しく咳払いをすると、こちらを真っ直ぐに見た。
「色々、説明不足だったようで申し訳ない。ではあなたを魔法使いに選んだ経緯を一から説明させてもらおう」
真剣な表情が緊張感を醸し出す。
「我々のパーティが歴代最強と言われていることは知ってるな?」
頷く。
「戦士エルダーは、この国で最強の剣士だ。彼は戦士になる前、スラム街で暮らしていた。ある日、空腹が限界に達した彼は、グラディオスの群れに単身飛び込んで、瞬く間に全滅させた後、それらを全て喰らった。それ以来、王国にスカウトされるまで、彼は様々な魔物の群れに飛び込んでは、全滅させることを繰り返していたそうだ。その経験もあって、彼の戦闘センスは群を抜いている。頼もしい存在だ」
魔物より怖いんだけど。
「そして僧侶ヒルダは、死者蘇生の能力を持つこの世界において、唯一の存在だ。彼にかかれば、どんなにダメージを受けていても、一瞬で元通り。戦う前より元気になるくらいさ。元気になりすぎて、意識がぶっ飛ぶことすらあるよ」
過剰だって。
「そして、この私は。候補生を全員ボコし、勇者アカデミーを主席で卒業した天才女剣士レオナ!エルダーもこの前ぶっ倒した!」
今度はレオナが立ち上がっていた。
周りの視線が集まっていることに気づいてか、スっと座って真剣な顔に戻る。
「この通り、我々は戦闘においては最強の集団と言っていい。魔王ごときをシバくのには、三人でも多いくらいだ」
「だったら尚更どうして、私を入れるんですか。三人で充分ならそのまま行ったらいいじゃないですか」
「セシル、ここからが本題だ。よく聞いてくれ、私たちは確かに戦闘においては最強だ。だが一つ、致命的な欠点がある。この欠点が故に、私たちでは決して魔王の城に辿り着けないのだ」
ごくりと唾を飲み込んで、続きを待った。
レオナは忌々しそうに唇を噛み締めると、苦しそうにぽつりと言った。
「我々は、驚くほど頭が悪いんだ」