平田愛和。
それが親からもらった俺の名だ。
「ひらたまなかず」ではない。
「ひらたらぶあんどぴーす」が正しい読みだ。
この名前のせいで、俺は小学校の6年間いじられ続けた。
今までつけられたあだ名は数しれずだが、その中でも短さと切れ味を両立した「ハト」が定着した。
語り終わる頃には、自然と涙が零れていた。
「すまないね。長話に付き合わせちゃって」
袖で拭って、隣を向いた。
月光で表情がうっすらと見える。
真剣だが少し困ったような表情。
「いえ、とても興味深い話でした。私と重なる部分もあって」
女官は名を夕凪といった。
夕凪は、先月ここに来たばかりだと言っていた。
「重なる?」
「はい。私、ここに来る時、家族を置いて来たんです。家族といっても血は繋がってないんですけど。こっちに住む叔父から強引に宮仕えを決められて、引っ越してきました。持ち物すらほとんど勝手に運ばれて」
「そうだったのか。災難だったな」
聞いて、少しの罪悪感が沸き立つ。
夕凪は私のところに宮仕えをするために、家族と別れる必要が生まれた。
直接でないとはいえ、私が連れ去ったようなものだ。
「ホントです。だから私、宮仕えが決まってから毎日手紙書いて、出る時全部置いてきました。そうすればいつでも思い出してもらえるって思ったんです。よく読めばへそくりの場所なんかも書いてあります。なんならこれ使って会いに来てくれないか、だなんて思っちゃいます」
そこで何かをみつけようとしているかのように、夕凪の双眸が揺らめいた。
夕凪が探している違和感の正体に、自分も思い当たったような気がする。
夕凪は別離の時、思い出と会いに来る手段を残したといった。
だとしたら、かぐや姫も同様に、何か手がかりを残していた可能性があるのではないだろうか。
「手紙と不死の薬……」
呟きに反応して夕凪が目を見開く。
「そうです!そこにはもしかしたら何かメッセージがあったのかも!」
確証のない想像だが、可能性は充分あるように思えた。
しかし、その二つはすでに山で燃やしてしまっている。
不死の薬に関しては、もうどうしようもないだろう。
だが、交わした手紙なら、その内容を思い出せる。
何度も推敲して送った歌を、何度もしがんだもらった歌を。
私は覚えているはずだ。
「夕凪、悪いがそろそろ戻ろうか」
「え?どうしたんです?」
「やらなきゃいけないことができた」
「仕方ないですね。もう少し歩きたかったですけど」
「恩に着るよ」
言うが早いか、私は踵を返し、歩き出す。
このまま駆け出してしまいたい気分だった。
こうして見上げるだけで、あの日のことは鮮明に思い出せる。
夢のような出来事だったけど、確かに覚えている。
二人で過ごしたあの時間も。
幾度も交わした歌も。
薬と手紙だけを残して、私のもとから去っていく後ろ姿も。
かぐや姫が月に帰って、10年の月日が流れた。
あの後、私は数ヶ月間、全ての気力を失って、死人のような生活を送っていた。
皆があの日の衝撃から立ち直り、普通の生活に戻っていくのを見るのが嫌だった。
まるであの日々が私だけに見えていた一夜の幻だったかのようで、苦しかった。
ただ、そうしている間にも現実は容赦なく進行する。
私が部屋に篭っているせいで、仕事は溜まり、都も荒れた。
そのことを聞かされた私は、やり取りした手紙や不死の薬を火山に捨てて、ようやく立ち直ることができた。
未練はないつもりだったが、こうして満月の綺麗な夜は未だにものおもいにふけってしまう。
もうすっかり夜は更けており、宮中の廊下には誰の声も聞こえない。
部屋に戻る気にもなれなくて、月明かりだけで薄暗い廊下を歩く。
「宮中の人ですか?」
後ろから、声がしてビクリと震える。
振り向くが、見覚えがない。
こんな人、いただろうか。
「そうだ。君は?」
「私は女官で、一か月前、田舎からここに来たばかりです。あ、急に話しかけちゃってごめんなさい。こんな夜中に見かけたもので」
声を潜めながら、続けざまに話す。
「よいのだ。ところで君はどうして、ここに?」
人差し指で月をさして、こちらを見る。
「今宵は月がとても綺麗で、見に来た次第です」
「そうなのか」
「あなたはどうしてここにいらっしゃったのですか?」
どうして、と言われて考える。
私が知りたいくらいだ。
いくら見つめても、もう手は届かないのに。
「すみません。変なこと聞いちゃったみたいですね」
その子は私を見て困ったように笑った。
そんなに酷い表情だったかな。
「いや、気にしなくていい。それより、まだ戻らなくて大丈夫そうか?」
「はい、まだ」
「じゃあ、ちょっとだけ話を聞いてくれないか。人に聞かせるには退屈な、ただの夢の話なんだけど」
不思議そうに首を傾げていたが、やがて頷いた。
「聞かせてください」
そうして、私は語り出す。
月はただそこにいて、私たちを照らしていた。
中学の時分に絆を永遠と嘯いた女の瞳が私を見下ろしていることに、今更ながら皮肉な因果を感じていた。
そこまで仲良くならなければ、こんな結末は避けられただろうけど、当時の私にそんなこと、予測ができるわけもなくて。
どうしてこうなってしまったのか。
逆光で見えづらい瑞稀の表情を見上げながら、他人事みたいに考えていた。
瑞稀と出会ったのは中学2年の冬。
6人だけの寂れた塾に新しく入ってきた。
それまで女子は私だけだったので、すぐに話しかけ、仲良くなった。
3年に上がった頃には、2人で遊ぶことが増えていた。
校区は別だったので、駅で待ち合わせて、色々なところに行った。
卒業後、私は県外の高校に進学した。
祖母の家が近くにあったので、そこに住んでいた。
高校でも中学の頃から続けていたバドミントン部に入った。
沢山友達もできたので、高校に入ってからは徐々に瑞稀とは疎遠になった。
久しぶりに連絡をとったのは、高校2年の秋。
「久しぶりに遊びに行かない?」と連絡が来た。
会いたい気持ちがないわけではなかったが、その時は部活のキャプテンを引き継いだばかりで忙しい時期だった。
それに初めての恋人もできていて、正直、瑞稀と遊ぶよりは恋人とデートに行く方が楽しそうに思えた。
その後も、何度か誘いがあったが、何かしら理由をつけて断っていたら、そのうち連絡は来なくなった。
瑞稀は勉強もできるし、結構明るい子だ。
きっと向こうでも楽しくやっているだろうと勝手に思っていた。
その後、私は大学に進学し、税理士を目指して、忙しい日々を過ごすうちに瑞稀のことはすっかり記憶から消えていた。
思い出したのは地元に就職して2ヶ月後。
新しくできた恋人の高校のクラスが3年間、瑞稀と同じだと聞いた時。
そこで聞いた瑞稀の話は想像と大きく違っていて、私は愕然とした。
1年の頃は和やかに過ごせていたらしい。
吹奏楽部に入り、同じ部活の子達と上手くやっていたようだ。
状況が変わったのは2年の頃。
クラス替えで仲良くなった人が私の知り合いだったらしい。
名字を聞けば、すぐに浮かんだ。
中学で同じ部活だった子の名前だった。
あまり喋ったことはなかったので、さしたる印象はないが。
瑞稀はその子にいじめられていたのだと、彼は言った。
9月の下旬に差し掛かり、瑞稀が学校に来なくなり、先生がそのことをHRで発表してようやく知ったらしい。
友達を悪く言われて、それを咎めたことがきっかけらしい。
同じクラスにいて、気づかなかったのか、止められなかったのか、と責める言葉が喉まで出かけて、飲み込んだ。
自分もそうじゃないか。
ましてや私は瑞稀と1年以上友達をやっていたのに。
瑞稀と話さなきゃ。
散歩してくる、と外に出て、LINEを開く。
まだアカウントはそのままだろうか。
メッセージは私の「予定合ったら、また今度ね」という文で終わっていた。
文字を入力して、消して、入力して、消してを繰り返す。
今更何を言えばいいんだ。
今の状況も私は知らない。
苦しんでるかもしれないし、憎んでいるかもしれない。
案外覚えていないのかもしれない。
最適な言葉が見つからず、何度も打ち直す。
打って、消して、考えて、打って、消して、考えて。
いつの間にか公園まで来ていた。
通っていた塾のすぐ近く。
ここでブランコに乗って遊んでいたな、と思い出す。
誰もいないのを確認して、ブランコに座る。
夕焼けに背中が焦がされているような気がした。
薄いシャツの長袖を捲る。
瑞稀は知っているのだろうか。
私がこの街に戻ってきたことを。
私はインスタにも載せているから、見てれば知ってるだろうけど。
瑞稀からフォローされた覚えはない。
申し訳程度に足を漕いで、前に伸びる影を追う。
すると、何者かの影が私の足の影を飲み込んだ。
「見つけた」
囁く声はひんやりと冷たい。
直後、肩の深くを刺す感触。
声の主には覚えがあった。
身体からずぶりと刃物を抜かれて、そのまま前方に倒れ込んだ。
痛い、痛い、痛い、熱い。
「久しぶり、由乃ちゃん」
悶絶しながらも、声の主を確認する。
あの頃のまま、歳を重ねた。
一言で説明すると、そんな風貌だった。
前髪は分厚く、でも短い。
襟足は揃っていて、サイドも長さが均等。
ニキビが多く、化粧もしていないようだ。
それでいて、前より遥かに太っている。
その姿だけで、瑞稀が過ごした時間がどのようなものだったかが、想像できた。
そして私のことをどう思っていたのかも。
「知ってたんでしょう?私のこと。それでも無視してたんだよねぇ!?」
叫ぶ瑞稀の声は裏返っていた。
違う、聞いてと言おうとするが、出るのは言葉にならない呻き声ばかり。
ただ、声が出ていたとしても、きっと届かなかっただろう。
逆光に薄く見えた双眸は、私の目と明らかに合っていなかった。
きっと瑞稀に見えているのは、私じゃなくて自分の過去だ。
どうしてこうなってしまったのか。
答えは多分、私のせいだ。
プレゼントは値段じゃなくて、どれだけ想ってくれているのか。
それが伝わるものがいい、とデートの時に言っていたのを覚えている。
準備にかけた時間や手間。
自分のことを考えてくれたという事実が何より嬉しいのだと彼女は言った。
その点でいうなら、誰にも負ける気がしないな、と僕は思う。
なんせこの計画に僕は5年もかけたんだから。
手作りとかってどうなの、という質問には、最高、と答えていたはず。
結婚してから数年が経って、前より物憂げな表情が増えた。
欲しいものを聞かれた時、自分の時間、と苦笑いしていた。
旦那と子供への不満が尽きないようで、友達に話していた。
それを知って、僕はプレゼントを決めた。
計画には5年の歳月を費やして、君の欲しいものを探って、オマケにこいつは手作りだ。
君を喜ばせるための条件はあらかた満たした。
君は誰かといることが多いから、チャンスがなくて苦労したよ。
買い出しで少し家を空けるこの瞬間。
君は帰れば気づくはずだ。
煩わしいと思っていたものが、あらかたなくなっていることに。
これが僕から愛する君へのプレゼントです。
誕生日おめでとう。