どれだけ喰うなと言われても、腹が減るのは仕方ない。
父親は目の前で、流れ弾で死んだ。
後から見つけて、衝撃を受けた。
芽生えた暗い要望に手を伸ばした。
この衝動になんて名前を付けようか。
ジェイドは奥歯を噛み締めて、袖で口周りを拭った。
「ジェイド、アレ見てよ。綺麗」
白い指先が示す方向には、黄色い正円。
「ホントだ。ベランダからでもこんなに見えるんだね」
「ねー」
何故か自慢げな彼女。
月よりも、鮮やかな首の白に視線を奪われる。
ダメだダメだ。
頭を振って意識を正す。
「ジェイド?」
覗き込まれているのに気づいて、背筋が痺れる錯覚が生まれた。
急いで顔を背ける。
「ごめん、ちょっと飲みすぎたのかも」
「たしかに結構飲んでたもんね。じゃあ部屋戻ろうか」
そうだね、と部屋に戻る。
彼女はベッドに仰向けに寝転がる。
僕に両手を広げて伸ばした。
何かが切れたような音が、聞こえた。
美味しいものは好きだけど、食べたらなくなってしまう。
そのことが悲しい。
窓から月光が差していた。
月光が照らす、赤色を頬張った。
止まらない涙を袖で拭って、食べ続けた。
腹は満ちていくのに、飢えて仕方がなかった。
それなりに混んでいたからだろう。
私がカバンを置いていったことには、誰も気づかなかったようだ。
カバンに入る大きさにするのは苦労したが、これで残りのパーツは一つ。
「さっむー。さすがに真冬にニットだけはキツい」
家に帰るとロングコートに手袋を付けて、用意していたカバンを持った。
先程と違う駅に歩いて向かう。
少し遠いが、やむを得ない。
相当歩いたはずだが、疲れている様子を見せる訳にはいかない。
駅のトイレで汗が引くのを待って、電車に乗った。
人は疎らだが、一車両に5.6人くらいいるようだった。
三両編成の小さな電車で、この先は7つほど駅がある。
今でこそ人は乗っているが、この先はどんどん田舎になっていき、後半は誰も乗っていないことが多い。
予想通り、一駅、二駅と通過していくうちに、車内の人はどんどん減っていった。
そして三つ目の駅を通過した時、車内に残っているのは私だけになった。
「次は、鈴城駅、鈴城駅」
ボソボソと呟くようなアナウンスが聞こえる。
そろそろお別れの時間だ。
「じゃあね」
私は膝の上のカバンを網棚の上に乗せて、駅を降りた。
私は電車で来た道を迂回する形で歩いて戻り出す。
カバンの中に入った首は電車に揺られて、私から離れていく。
まだ行ったこともない遠くの街へ。
手袋とコートは戻りがてら、橋の下に捨てておいた。
ニットだけになった体を擦りながら、のんびり歩いて、自宅を目指す。
一陣の風がひゅるりと吹いて、枯葉が舞っていった。
枯葉は地面に落ちる様子もなく、あっという間に見えないところまで飛んで行った。
必死に逃げても、立ち向かっても結果は同じ。
ヤツは当たり前のような顔をして、僕たちの首を刈る。
こうして僕が目の前の現実から逃げて、ロクに集中もできないゲームを続けている間にも、ヤツは刻一刻とその距離を詰める。
「9/1」
それが、僕が恐れる死神の名前だ。
部屋にかけたサッカー選手のカレンダーに視線を遣る。
メッシの左足がサッカーボールに光速を与える瞬間のアップ。
その下には、8月の美しい日付たちが並んでいた。
アレが一枚捲れただけで、おぞましい死神が姿を現すなんて、想像もできないほど、この光景は麗しい。
おそらく次の写真はドーハの悲劇の瞬間とかだろうな。
「セプテンバー……ね」
洒落臭い響きだ。
一見スマートでいて、実際、関わってみると薄っぺらさがすぐに露呈してしまうような、そんな印象だ。
女のことばかり考えて、友情を蔑ろにしても、堂々アホ面晒していそうだ。
実際、こいつと過ごした時間のほとんどは印象にない。
暑くもなく、寒くもなく、大きなイベントがあるわけでもなく、実に中途半端だ。
「絶対友達にはなりたくないタイプだよな」
それに比べて8月はどうだろう。
丸みを帯びた親しみやすいボディに、豊かなイベント。
動物も植物も、あいつといる時はみなエネルギーに溢れている。
「オーガスト」
無骨で飾り気のない感じが、好感が持てる。
少しアツすぎるところもあるが、それでも楽しさが勝るのが、オガちゃんのいいところだ。
思わずアダ名で呼んでしまっても、ニカッと笑ってくれそうな、そんな安心感がアイツにはある。
そんなことを考えている間に、3機失っていた。
やめやめ、とコントローラーを置いて、スマホを見る。
刹那、透華からのLINEの通知が視界に飛び込んだ。
マズい!
的確かつ迅速な判断により、僕はスマホを投げ飛ばした。
すぐに床に伏せて、被害を回避しようとするが、もう遅い。
目の玉に彫られたのかと錯覚するくらい、その文章は鮮明に僕の意識に残っていた。
「課題終わった?」
ぐっ。
突如、胸に痛みを覚えて、蹲る。
心臓発作か?
いや、それにしては痛みのインパクトが薄い。
これは突発的なダメージでなく、持続ダメージ。
水に落としたインクがじわりと滲むように。
体内に痛みが浸透していく。
「何やってんの、慎ちゃん」
ドアノブがぐるりと回って、見知った姿が現れる。
透華は、のたうつ僕を見下ろしていた。
「透華、何しに」
限界を大幅に超越して、ようやく言葉を紡ぐ。
「いやLINE、返信なかったからどーせゲームでもしてんだろうなと思って」
「鍵、かかってたはずだろ」
「私、おばさんから合鍵もらってるから」
人の親から勝ち取りすぎだろ、信頼。
透華は床にへばりつく僕の横でテーブルを出して、座った。
「じゃ、やるよ。課題。一日頑張ればどうにかなるよ。言ってもちょっとは進んでるんでしょ?」
微笑む表情に微かな悪意も含まれていないことは分かっている。
だけど、だけど。
僕は。
「ごめんな、透華。成績も良くて、教師からの信頼もあるお前には分からないだろうけど。僕は」
声は震えていた。
透華は真剣に聞いてくれている。
それなら僕も、真剣に。
「1ページたりとも、課題をやってはいないんだ」
自分を仲間はずれにして、世界中の時が止まったような静寂が部屋を訪れた。
「あ?」
聞いたこともないようなドスの利いた声。
それが透華の声だと気づくのには、時間がかかった。
僕は自然と土下座の体勢をとっていた。
もはや、方法は一つしか思いつかなかった。
真面目な透華が許すとは思えなかったが、一つだけ。
息を、吸い込んだ。
「写させてください!」
虚空に響いた声の姿を捉えようとしているかのように、透華は視線をさまよわせる。
「そんなことしたらすぐバレる。いくら上手にやっても来週のテストがあるんだから。再来週のテストの範囲は課題から出る。成績悪ければ一目瞭然だよ」
この反論は予想していた。
後は返す刀で一発。
「バレない方法が一つだけある!」
申してみよ、と目が語っていた。
納得できなければ、その首(ガラクタ)撥ねるぞ、とも。
「次のテストで10番以内をとる!」
「ほう」
続けてみよ、と顎をしゃくる。
「答えを写した時点では僕はアホです!愚かで惨めな砂利カス野郎です!ただ、これから再来週のテストまで、僕は必死こいて勉強します!そうして、テストでいい点とれば、教師も納得してくれるハズです!どうでしょう!」
excellent、boy
タダのアホウかと思っていたが、なかなか見どころのあるやつじゃないか、と言っている気がした。
恐る恐る顔を上げると、透華は形容しがたい微妙な表情をしていた。
「うーん、まあ、筋は通ってなくもない……のかな?ここで無理に自力で解かせるよりは、その後一生懸命勉強した方が、効果もあるだろうし……オッケー!今回だけだよ!」
「よっしゃー!」
「ただ、私を不正に巻き込んだんだから、もし10番以内取れなかったら……分かってるね?」
「なんなりと」
「慎ちゃんのお父さんの前でギャン泣きします」
考えてもみなかったが、それが一番ダメージが大きいかもしれない。
ただ、頷くしかできなかった。
外はまだ明るい。
遅れた蝉が一匹だけ、鳴いていた。
8月が励ましてくれているような気がした。
同窓会の欠席は1人だけだった。
それが河本陽菜乃だと知った時、落胆と安堵が両立していた。
河本陽菜乃は高校時代の元カノだ。
別々の大学で遠距離恋愛をしていたが、ちょうど1年くらい前、好きな人ができたとフラれてしまった。
僕自身、まだ諦めきれていないところがあったので、会う機会が喪失したことは残念に思う。
ただ、実際に会えたとしても何を話せばいいか分からなかっただろう。
微かな引っ掛かりを残しながら、会は始まった。
久しぶりに会うやつと昔みたいに話せるかと心配していたが、杞憂だったようで会は非常に盛りあがった。
高校時代、一番仲の良かった康介は、先週プロポーズの末、婚約までしたようで、結婚式の展望について一生懸命語っていた。
瓶ビールを追加するため、中座してカウンターに向かうと、翔太くん、と呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、門倉栞がこちらにいたずらっぽい笑顔を向けていた。
「久しぶり」
門倉栞は高校時代、陽菜乃の親友だった。
陽菜乃と同じバレー部で、僕が陽菜乃に告白しようとしていた時は、かなりアシストしてもらった記憶がある。
こっちこっち、と手招きをするので、移動してグラスを見た。
コップの1/8くらい、赤色の飲み物が残っている。
「カシオレ?」
「いや、なんか変な名前のやつ。分かんないけど面白い味するよ」
飲んでみてよ、と差し出されて軽く呷る。
「あー、たしかにそうかも。あれに似てる、えーと」
「ドクターペッパー」
「それだ」
指を指すと、自慢げな表情。
「そこまで飲んだし、飲み干しちゃってよ」
「えー、あんまり好きな味じゃないんだけどな」
「応援したげるから」
別にいいか、残りはほんの少しだし。
そう思って、残りを飲んだ。
後味は微妙に苦かった。
そこからは色々な話をした。
班活動の話や文化祭の話。
そして、陽菜乃の話。
「そっかー、別れちゃったんだ。あんなに応援したのに」
残念そうに栞が言う。
「その節はほんといろいろ助けてもらって……」
拝む僕の肩をやめてよー、と叩く。
その話を詳しくしようと思った時、幹事の声がスピーカーから響いた。
「大盛り上がりのとこ、悪いけど、もう会場時間です!話し足りないぶんは二次会で!」
最初の席に戻るよう促されて、じゃ、と手を振って席に着いた。
まだ少し話していたかったが、仕方がない。
二次会は各々行くようで、ロビーにグループがいくつかできていた。
康介のところに混ざろうとした時、袖を引かれた。
栞だった。
「私と行こうよ。まだ話し足りないでしょ」
かなり迷ったが、栞のところに行くことにした。
栞の希望で外れのバーに歩く。
かなり酔っているようで、足取りはふらついていた。
それほど飲んではなかったみたいだけど、弱いのかな。
かくいう僕もかなり酔っているようで、頭がズキズキと痛んでいた。
喧騒から離れて、街中を抜けた。
しばらく歩いて小さな石橋を渡る。
「こんなところにバーなんてあったっけ」
頭を押えながら聞く。
栞はスっと立ち止まった。
「体調は大丈夫?」
お酒のせいだろうか。会話が噛み合っていないように感じた。
頭の痛みはさっきより増していた。
「いや、まあ。ちょっと、ヤバい、かも」
ふらつく僕の様子を見て、気遣ってくれたのだろうか。
いや、さっきから栞は一度も振り向いていないはずだ。
ようやく振り向いた栞は涼やかな目をしていた。
そのまま後ろ歩きで数歩進む。
足取りはしっかりしていた。
この表情の意味はなんだろう。
考えようとするが、上手く頭が回らない。
視界が歪む。
足を踏み出そうとして、転げてアスファルトに頭を打った。
「ああ、大丈夫?」
栞は僕に肩を貸してくれた。
ぶつけた痛みはほとんど感じない。
内側から蝕むような痛みが響いている。
「気をつけてよ。もし、流血なんかされたら、手がかりが増えちゃうじゃない」
言葉の意味がよく分からなかった。
うまく聞き返すこともできずに、呻く。
「じゃあここで別れましょうか」
それじゃ、と聞こえて体の支えが消えた。
続いて衝撃と冷たい感触。
川に落とされたのだ、と理解する。
だけど体は動かない。
流されながら、痺れた思考で必死に考える。
栞はなぜ僕を殺したかったのだろう。
陽菜乃を奪ったあの人を、私はどうしても許せなかった。
私との約束を塗り替えて、翔太に会いに行く陽菜乃が許せなかった。
元々両想いだと知っていたから、なるべくうまくいかないよう策略していたが、実を結ぶことはなかった。
陽菜乃が別れたと聞いた時、初めて神様に感謝して、そして思った。
二度とこんなことが起こらないように頑張らなくちゃ。
翔太と会わないようにと脅迫の手紙や嫌がらせを繰り返した。
陽菜乃が弱っていくのを見るのは辛かったが、フォローも余念なく行っていた。
同窓会も思惑通り、断ってくれたようだ。
しかし、陽菜乃がうわ言のように呼ぶのはいつも翔太の名前。
存在を消すしかない、と思った。
この辺は人通りも少ないし、川の流れも速い。
行方不明の死体が上がるのは、いつになるだろう。
飲ませた毒は存分に効いていた。
自力で上がってくるのは不可能だ。
陽菜乃は今、何をしているのだろう。
この後、会いに行こうかな。
私の鼻歌が静寂に弾んでいた。
窓際に見えた物憂げな表情は、今日の空に似ていた。
席替えするまでは、気にも留めていなかった横顔の美しさに、見蕩れてしまっていた。
「どしたの陽菜乃」
こちらに気づいたようで、目をぱちぱちさせている。