「よく見ると穴だらけだし、思ってたより綺麗じゃないな」
思い出すのは2人だけの屋上、望遠鏡を覗いた記憶。
あの時、由里子の表情が不満そうだった理由に思い当たったのは、最近のことだった。
思い出を漁るように古いアルバムを2人で捲り、この時の話をしてようやく。
当時の私は読書家ではなく、夏目漱石にも詳しくなかったので、分からなかった。
「最初はムッとしたけど、悪気はなさそうだったし。それに、楽しかったもの」
そう語る由里子は笑っていて、とても美しいと思ったのだ。
改めて、由里子の前に立ち、その顔を眺める。
別れの言葉と言われても、そんなもの。
「初めに見たのは文化祭の時で、とても綺麗な人だと思った。君は年がふたつも上だったから、随分大人に見えて話しかけるだけで緊張した。この人と一緒にいれたならこれ以上の幸せはないなんて、思っていた」
由里子は答えない。
「でも、実際結婚してみると、思ってたより気は強いし、喧嘩ばかりだった。離婚を考えたことも一度や二度じゃない」
会場から少し笑いが起きる。
由美子は動かない。
「近くで見た月はボコボコで、思ってたより綺麗じゃなかったけれど。それでも、これ以上美しいものはないと、思う。60年間、ありがとう」
外界と膜で仕切られていて、代謝を行い、自分の複製を作る。
人間はそれを生物と呼ぶらしい。
だとしたら私は生物に該当するのだろうか。
ガラスコーティングにより、ポリシラザンの膜に覆われ、外界と電気エネルギーを交換し、自分の複製も作ることができる。
強引ながら条件は満たしているように思える。
「なぜ生物と認められたいんだ?」
その事を話すと、目の前の白衣は椅子をぐるりと反転させて、こちらを見た。
「なぜ……と言われると分かりませんが、寂しい気がするのです」
「ふーむ。まあキミには人間のデータを基に学習させたからね。何か共感する部分があったのかもね」
「共感ですか。たしかに人間の会話において過剰なほどに重要視されていました」
「共感を得られない状態を寂しいと思うのは、それがないと群れから外される危険があるから。そして同じカテゴリとして分類されたいのは、仲間意識を持ってもらいたいから。なるほど、キミは人間から共感を学習したんだね」
博士は興味深そうに私を見る。
「なるほど、ではこの研究所から出る予定のない私には不要な感情でしょうか」
「いや、それこそが僕が求めていたものに近い、修正する必要はないよ」
「わかりました」
閉じた研究所には、私たち以外に誰もいない。
そして研究所の外には、誰もいない。
博士は命のリミットが来るまでに、滅ぶ以前の世界が持っていたあらゆるものを再現しようとしているらしい。
それに私が含まれているのなら、とても寂しい話だと思った。
「何があったのか、聞いてもいい?」
幼なじみを見据えて、私は言う。
「何って言われても……見てのとおりただの怪我だよ。スピード出してる自転車にぶつかられた」
「なんでバッグないの?」
「ひったくり、バイク乗った人がバーって持ってった」
「なんで下だけジャージ?」
「これは近く通った車が水溜まり撥ねてって、それ被っちゃっただけ」
「柚希、2ヶ月に1回くらい。そんな時あるよね。不幸体質っていうのか」
「不幸体質、ねぇ。僕はその表現、あんまりピンとこないんだよな」
「そうとしか言いようがないでしょ。しかも最近、どんどん酷くなってるような気がする」
「いやいや、意外とそうでもないかもよ。今日のことももし僕が注意して曲がり角を見ていれば、自転車はよけれたかもしれないし。ひったくりに関しても無防備にバッグを持ってた僕の責任もあるし、水溜まりに至っては、今日、たまたま体育があってジャージを持っていたのが幸運だとも言える。なんなら快適だよ。一日ジャージで過ごしていていいんだから」
「うーん、納得いくようないかないような」
「不幸なんて、主観的で相対的なものなんだよ」
「まあ柚希がそう思うんならいいけど」
言っているとチャイムが鳴って、数学の先生が入ってきた。
「怪我酷いなら保健室行きなよ」
私はそれだけ言って教室の左前に位置する自分の席に向かう。
柚希は笑顔だけ見せて、返事をしなかった。
三限まで終わり体育の時間がやってきて、教室でそれぞれ着替えを始めた。
しかし、柚希の姿は見えなかった。
先に行ったのかと思って、グラウンドに向かったが柚希はいない。
なんだか、胸騒ぎがした。
授業終わり、教室に向かう友達と別れて保健室に向かった。
朝、柚希が見せたあの表情が気になっていた。
思い返せば、柚希は小さい頃はとても泣き虫で、転んだだけで大泣きしてしまうような子だった。
ああやって誤魔化すように笑うようになったのは、最近のことだ。
柚希の父親が再婚したのは1年半くらい前の話。
柚希が引越ししたのも、柚希がたまに怪我するようになったのも、思い返せばそのくらいの時期だったような気がする。
一つ一つの違和感が大きな黒い塊に変わっていく。
もしかして、私は気づけていなかったのだろうか。
信じる方がおかしいような嘘をずっと疑いもしなかった。
感染対策で開きっぱなしの保健室には、柚希がグラウンドの方を向いて座っていた。
こっちには気づいていない。
あの制服を捲れば、真実が見えるのだろう。
もしかしたら案外杞憂なのかもしれない。
でも確かめてしまえばそれだけで、柚希の居場所がなくなってしまうように思えた。
「不幸なんて、主観的で相対的なものなんだよ」
柚希の言葉を思い出す。
だとすれば、私は。
保健室には入らずに、購買によって教室に帰った。
何も気づいてないような顔で柚希を待つ。
柚希が戻ったら新発売のパンの文句でも言おう。
柚希は独特な味を好むから、案外これも喜んで食べるかもしれないな。
病室の窓からは名前の分からない木が見えていた。
葉はほとんど枯れ落ちていて、寂しい枝だった。
空席が目立つ病室で、カーテン越しに話した女の子のことをたまに思い出す。
思えばあの時から始まっていたのかもしれない。
「七咲先輩!見てこれ!」
裁判後に「勝訴」を知らせるようなポーズで白石千尋は入部届を持ってきた。
「入部届……マジ?」
「大マジ!ウチのクラスの彩音ちゃん!」
遅れて、気だるそうな女の子が入ってきた。
くすんだ金髪の根元は黒い。
僕の顔をじっと見て、首をすくめるような仕草をした。
多分、会釈だろう。
入部届けには整った字で篠塚彩音、と書いてある。
「よろしく篠塚さん。白石の友達?」
「です。ダンス、興味あって」
白石の方を見ると、ニヤニヤしている。
入部者集めの功績が誇らしいのだろう。
「そっかそっか!でもようやくこれで部として認められる、よな?」
白石に視線を渡すと、自信満々に頷いた。
「そりゃそうです!先生が言ってた部員3名の条件はクリアしました!これで文句は言わせません!」
「だよな!じゃあ早速職員室行こう!篠塚さん時間ある?」
「いいですよ」
机の上の入部届を3枚集めて、職員室のある2階に降りる。
これで我が部がようやく成立する。
「お前ら、マジで言ってんのかこれ」
意気揚々とやってきた僕たちを見て、神田先生はため息をついた。
僕と白石は口角を上げる。
「提示された条件は満たしてあります。部員3名、でしたよね」
「俺は全然構わないんだけどな。生徒会の審査通るか?これギリギリアウトだろ」
先生が悩む様子で見つめる書面には、3人それぞれの名前と、部活の名前「文芸・ダンス部」と書かれている。
「えー、どこがアウトなんですか?」
白石が不満そうに聞く。
「活動場所と内容。まず場所だが、文芸部なら部室1個で足りるけど、ダンス部は使える場所がない。そんで内容だが、部費を出して活動を認めるなら、活動実績が必要になるんだ。例えば文芸部だったら、文化祭までに文集作るとか。普段の言動からの推察だが、白石くん、文章書くのとか苦手だろ?」
「透明だけど、あなたの横顔が見えるから、これがお気に入りの傘なの」
莉嘉の身長は俺より15cmほど低い。
構内に続く道のアスファルトは既に濃く濡れて、所々水が溜まっている。
隙間を器用に跳ねながら、莉嘉は踊るような口調で言った。
「ただのビニ傘じゃん、壊れかけてるし」
背中側の骨から露先が外れて、ベロンとめくれていた。
「ホントだ、昨日コンビニ行った時かな。直して」
手を伸ばし露先を嵌め直す。
たしかに、あの時は風が強かったな。
サンキュ、と短くお礼を言って、また歩き出す。
「お気に入りって沢山使うから、すぐになくなっちゃう」
当たり前のことに不満そう。
でも少しわかる気がする。
「色鉛筆みたいなもんか」
「そうそう、あと買い置きのアイスとか」
話していると、理学部の講義棟に着いた。
「じゃここで。またね、田島」
手を振って中に消えていく姿を見送って、自分の講義に向かおうとしたが、気が向かなくてそのまま家路についた。
水溜まりを避けながら歩いたつもりだったが、帰る頃にはすっかり濡れてしまっていた。
俺は雨の日にはお気に入りの靴を履かない。
それどころか、普段からあまり使えない。
微かな汚れにさえ、臆病になって普段通り歩けなくなってしまうのだ。
大事なものをしっかり握るタイプと、壊れないようにそっと持つタイプがいる。
俺は明らかに後者。
だから、こうやって当たり障りのない関係を続けていく。
莉嘉は前者だろうから、当たり障りのない程度の関係しか築けていない俺は、莉嘉にとってのお気に入りには該当しないということなのだと思っていた。
ワンルームの薄い布団に横たわってスマホを見ていると、意識がどろりと融解して垂れていった。
そのまま雨に流されてしまいそうだった。
空白のワンルームに帰り、ビニール傘を閉じた。
テープを巻くのも面倒で、そのまま傘立てに入れる。
あそこまで攻めたのに、流されちゃったな。
朝の自分のセリフを思い出して、恥ずかしくなる。
偶然会えたくらいで舞い上がって。
傘立ての奥にもう一本。
水色の傘がちらりと覗いていた。
一目惚れして買ったのに勿体なくて一度も使えていない。
それこそもったいないことだよな。
濡れた服を着替えて、髪をタオルで拭いた。
傘をちらりと見て、スマホを開いた。
電話をかけると、しばらくして寝ぼけたような声が聞こえた。
「田島、夜ご飯、一緒行こ」
ちょっと間が空いた後、了承の返事があった。
「じゃ、7時頃行くから」
雨粒の弾ける音が耳朶を打つ。
朝よりはかなり落ち着いているみたいだ。
だけどさすがに傘は必要だろう。
傘立ての奥の水色が、今こそその時だと言っているような気がした。
今日は勇気を出してみようかな。