ここにいる誰よりも強いこと。
それだけが僕の存在が許容されている理由だった。
持て余すほど広い立体の世界では、何もできない僕は
たった81マスの狭い平面の世界で、無敵になれる。
駒を盤の上に叩きつけ、立ち上がって去っていく相手を見送った。
「あーあ、あいつ。またやってるよ」
どこかで呟かれた声は、勝負を放り出して逃げた相手にかけられた言葉ではない。
圧倒的に優勢な状態でいながら、トドメを刺そうとしなかった僕に投げられた言葉だ。
聞かないように意識を閉ざして、リングを降りた。
いっそそれが土砂降りのような罵声であれば、いっそ清々しいと思った。
外は小雨。
じっとりとまとわりつくように降る様が不快だった。
「雨垂れの倉橋」が蔑称に変わったのはいつ頃だっただろう。
思い出せば最初から、褒められた渾名ではなかったようにも思う。
「おめでとう!」
思考を打ち切るように、西野の声が差した。
「見てたのか、僕の相手が怒って行ってしまったところ」
「いや、私が戻った時には2人ともいなかった。盤面見たんだ。慧が持ってた方、王でしょ?」
「下品な勝ち方だったろ」
対戦相手の表情が自然と脳裏に浮かぶ。
苛立ちと憎しみがないまぜになったあの顔。
それが辞めていったあいつと重なるような錯覚があった。
自分が心底不快だ。
「たしかに、あれが勝ち方だとしたら下品かもね」
西野の声は女子にしては少し低い。
普段は、霞む雨の音に溶けてしまいそうな儚い音だ。
「だけど、そうじゃない」
でも今ははっきりと聞こえた。
「あれで勝ちだなんて、思ってなかったんでしょ?」
不快な雨が止んだような気がした。
「そりゃ、盤面は慧が圧倒してた。攻めごまも充分で、囲いも万全だった。でも相手の持ち駒、銀も香車もあったでしょ?あれとあと一つ、桂馬があれば入玉して、そのまま暴れられた。なんなら自陣で死んでた角を使えば状況は五分だったかも。だから、最後の一手。攻める前に桂馬を守った。慧は勝つために全力を尽くしただけ」
傘を持たない左手の人差し指を立てて、西野は言う。
「慧は悪くない」
誰かが理解してくれたことが嬉しくて、同時に思い出して虚しくなる。
僕に憎悪の目を向けて、将棋を辞めたあいつも、かつて同じことを言ったんだ。
「誰も勝たないなら私が勝ってやる。誰も理解しないなら、私がしてやる。だからさ、慧」
言葉を切って息を吸い込んだ。
「首洗って待っとけ!」
そう言って西野は走って去っていった。
あいつの将棋は柔軟で、豊かな発想で溢れている。
故に見るものを惹き付けて、愛される。
対して僕の将棋は窮屈で、偏屈。
誰の心も踊らない。
だから、嫌われて、弾かれる。
でもあいつとだったらもしかして。
僕の作った壁なんて、何でもないかのように壊してみせてくれるんじゃないかと思った。
もう一度信じてみようかな。
傘から手の平を差し出して、大丈夫だ、と傘を閉じた。
雨はもう降っていなかった。
差し出された便箋には見覚えがあった。
自分が愛用しているものと同じ柄。
そして中に見えた癖のある文字にも心当たりがあるからだろう。
「これは10年後のあなたから」だなんて胡散臭い文句を添えて渡された手紙を疑う気がそれほど起こらないのは。
ただ、10年後の自分が、過去の自分に手紙を送れるとしたら、今、この瞬間がベストなんだろうなと推測はできた。
この手紙の如何によっては、私は計画を断念せねばなるまい。
心臓がうるさかった。
スマホのライトをつけて、手紙の1行目を照らした。
「時効が成立しました」
ああ、10年後の私、ありがとう。
これで計画の正しさが証明された。
ぐしゃりと音を立てて、僕の体が潰れた。
これで213回目の失敗。
そして迎えるのは、今年214回目のバレンタインデーだ。
家を出ると、ポストの周りに大量の包みが置かれているのが見えた。
ざっくり確認したが、目当てのものはない。
落胆しつつママチャリで通学路を進んでいると、投げ入れにより、たちまちカゴがいっぱいになった。
学校に着くと、靴箱から箱が溢れていた。
昨日の時点で持ち帰っていた上靴を履き、教室に入る。
机の中から持ち主の分からないチョコレートを抜き出しながら、右斜め前の席を見遣る。
「あ、おはよう。幹人。朝から忙しそうだね」
気づいた葵が笑いながら振り向いた。
緩くウェーブのかかった髪が揺れる様子に、意識と視線が全て奪われた。
「嬉しい限りだよ」
と返すが、内心はうかない。
大量にもらったその中に、葵からのチョコはないからだ。
葵は幼稚園からの幼馴染であるが、僕にチョコをくれたことはない。
それどころか僕のことを異性として見てすらいないようで、毎年何かしらのアプローチをかけるが、気づかれてすらいない。
しかし、今日は高校生最後のバレンタイン。
こいつからのチョコレートをもらうため、僕はこうして何度も2/14を繰り返している。
高いところから飛び降りればリセットできる。
このことに気づいたのは全くの偶然だった。
それは2/14の放課後。
他校から群がる女性たちによる圧死を防ぐため、屋上に避難していた時のことだった。
今年はすべて受け取っている暇はない。
今年こそは、葵からチョコレートをもらいたいんだ。
何とか五体満足で包囲網を突破する計略を練っていたとき、唐突に風が吹いた。
ヤバいと思ったその時には、体が宙に浮いており、そのまま地面に叩きつけられた。
しかし、予想していた衝撃と痛みは訪れない。
代わりにふんわりとした心地の良い感触があった。
そして体の上には掛け布団。
時計の短針は7時を、日付を表す小さい文字盤は2/14を指していた。
その後、何度か試してみて、僕は高いところから落ちると2/14の朝に戻ることができるのだとわかった。
そして、すぐにチャンスだと思った。
何度もやり直せば、いずれは葵からチョコをもらえるはずだ。
そう思った僕は様々な計略を実行しているのだが、213回やり直しても未だチョコは手に入らない。
そうして214回目の朝礼を終え、3階の踊り場にあるロッカールームに隠れながら決意を固めた。
今回こそは葵のチョコをもらってやる。
ロッカールームから出ると、周囲は既に包囲されていた。
隙間を狙って駆け出すと、人波がうねる。
躱しながら、葵のもとに向かう。
一緒に帰ろうと、声をかけるために。
誰もがみんな、その子を見たら顔を顰めた。
特別、容姿が劣っていたわけではない。
顔の造形だけ見れば、むしろ整っていると言ってもよいだろう。
だからこそ、いっそう不気味に思えてしまうのだ。
その地獄の底を集約したような歪な笑顔が。
「それ、やめなよ」
振り向く矢田の顔には表情が張り付いていた。
何かを答えるわけではない。ただ、どうして?と聞きたげな目をしていた。
「不気味、に感じる。少なくとも私は」
表情は変えないままで、矢田は私の目を見つめた。
酷いことを言っている自覚はある。
ただ、この無茶な作り笑顔さえなければ、転校してきて僅か1ヶ月でこれほどまでに孤立することもなかったのではないかと思う。
そしてそれは今からでも遅くはないと思うのだ。
「それ、ってなんのこと?」
気づいていないのか、気づいていながらあえてとぼけているのか、まるで判別がつかない。
「その表情。矢田さん、作り笑顔下手すぎだから」
矢田さんは変わらない表情でこちらを見つめ続けている。
傷ついているのかも分からない。
やがて、スっと表情が消えて、呟くように言った。
「そうなんだ。これ、ダメだったんだ」
「ダメっていうか……下手。下手だから作ってることがバレちゃう。だからみんな嘘をつかれ続けてるように感じちゃう、と思うんだよね」
矢田さんの表情は無い。だけど、これが本当の矢田さんなんだと感じていた。
「どうすれば、いいんだろ」
「作り笑顔、やめるだけでいいんじゃない」
「普通にしてると叩かれるから。文句あんのかって」
温度の宿らない瞳でこちらを覗く。
矢田さんの過去が台詞から透ける。
深く聞いてよい事情ではなさそうだ。
なんて返すか迷って、言葉を選んだ。
「私は叩かないよ」
矢田さんにどんな過去があろうと、そのせいでどのように認知が歪んでいたとしても、自分の行動だけは約束ができる。
「本当?」
「現時点で本当、そしてこれからの分は約束」
「たしかに今、叩かれてない」
スっと頬に手を触れた。
冬のような頬だ。
「約束は?どうして信じたらいい?」
ん、と少し詰まる。
たしかに口約束は最も蔑ろにされやすい契約だ。
「殺していいよ」
破ったら、と付け加えた。
抑止力の存在は約束の信憑性を高める。
それだけじゃなく、強い抑止力を提案することで約束を守る意思が硬いことを示す効果もある。
矢田さんはしばらく黙っていたが、やがて見たことのない表情に変わった。
「嬉しい」
呟いた矢田さんは微かに笑っていた。
小さくて、自然な笑みだった。
捨てられていた花束を拾った。捨てられている割には綺麗な姿だった。ゴミ捨て場にポンと置かれていた。仮に花弁がバラバラに散ってでもいたなら、まだ救いようがあったように思えた。
加害すらも与えられずに捨てられた花束からは、徹底的な贈り主への無関心が窺えた。おそらく贈り主はまだ、花束が捨てられたことさえ知らないだろう。
そうしてこれまで通り、伝え続けるのだ。昨日は花束に代えたそれを、花束以外の何かに変えて。
「残酷」
呟いて私は、昨日のことを思い出す。
「今日、誕生日なんだ」
客が来ない店内で、小羽さんが言った。
「22ですっけ」
私が言うと、そうそう、と気だるげに頷く。すべての動作に倦怠感が滲んでいるような人だ。
「悠は今何歳だっけ」
「私19です。来週20歳」
「へぇ、じゃあ飲めるじゃん」
実体のないグラスを呷る小羽さん。
「今って18から飲めるんじゃなかったですっけ」
「成人は18だけど、お酒と煙草は20のままだよ。まあ律儀に守ってるやつなんて、ほとんどいないけど」
「そうなんですか?最近のやつはけしからんですね」
真剣そうな顔を作って返すと、小羽さんはふふ、と笑った。
「堂々と飲めるようになったら、連れてったげる」
「え、もしかして奢りです?」
「ボスと呼びな」
「流石です。ボス」
聞き飽きた入店音が鳴って、背の高い男の人が入ってきた。見覚えがある。この時間帯にしょっちゅう来る人だ。
「中ボス、お客さんです」
「ナチュラルに格下げしないでよ」
ボリュームを下げて話していると、ブラックコーヒーを持ってこちらへ来た。スっとボスがレジに立つ。
コーヒーをレジに通して会計を済ませたが、男の人はまだそこに立っていた。
そして、意を決した様な表情に変わる。
「あ、あの。今日、何時に終わりますか!」
「コンビニなので24時間営業ですが……」
ウソでしょボス。
「あの、そうじゃなくて。お姉さんのバイト、終わる時間……」
「え、ああ!そういうこと!」
いわれてようやく気づいたようだ。ミステリアスな雰囲気で気づかれづらいのだが、ボスはド天然だ。
「えーと、あと1時間くらい、よな」
こっちを振り向く。
「です」
「あの、終わったらちょっとだけ時間ください!自分、外で待ってるんで!」
そう言ってコーヒーも忘れたままで、店を出ていった。
「あ、コーヒー」
持っていこうとするボスを止める。これ以上、あの人を恥ずかしい目に合わせるのは可哀想だ。
「私が行きます」
持っていくと、あ、と今更忘れていたことに気づいたようだった。
「すみません」
「謝ることないっすよ」
「いやそれも、ですけど。仕事中、邪魔しちゃったっすよね」
「あー、いいんですよ。ちょうど暇だったんで」
「突っ走りすぎたなって自分でも思ってて。引かれるとは思ったんですけど、これしか思いつかなくて」
「まあたしかにびっくりはしましたけど。あんまり気にしてないと思います。割とぼんやりしてるんで」
んん、と小さく唸る。
「まあ、1時間後くらいに来るんで」
去っていく背中を見て、マイペースな人だなと思った。
悪い人ではなさそうだけど。
バイトの時間が終わって、交代の人が2人、バックヤードから出てきた。
制服を脱いで、すぐに行こうとすると小羽さんが呼び止めた。
「あれ、悠。もう帰んの。一緒いこーよ」
「いや、私いたら気まずいでしょ」
「そっかなー」
「私今日用事あるし、じゃ、明日、話聞かせてください」
そう言ってさっさと家に引き上げた。
なんだかモヤモヤとした塊が心臓にへばりついているような気がした。
翌日のバイトは気分がだるかった。3限に量子力学Ⅲのテストがあったせいで疲れていたのもあるし、朝拾ってしまった花束のこともあった。
あれを持ち帰ったせいで、私は一限をサボってしまったわけだし。どうして、割を食ってまでこんなことをしたのか分からなかった。
1時間はワンオペで、その後小羽さんが来る。
あの花束の贈り主と受取人に私は心当たりがあった。
こんな想像を巡らせる自分が、そうだったらいいだなんて思ってしまう自分が嫌だった。
小羽さんはいつものシフトから1時間遅れだ。
とすればもうすぐ、あの男の人がやってくるはず。
その人の表情次第で私は、自分のことを嫌いになってしまいそうだった。