この扉を叩く者がいても、すぐに開けてはいけないよ。
誰かしら? とちゃんと確認するようにね。
でないと、愚かな子羊たちのように、狼に喰われてしまっても、文句は言えないからね。
返事は「はい」でしょう?
「どうして?」なんて、お前に問う資格は無いんだよ。
誰かしら? と訊いて、ママだよ、って返ってこない限り、お前はこの扉を開けてはいけないのだから。
ママは口ぶりは優しく、だけど手にした鞭で激しく、あたしを打った。
お酒が入って酔っぱらってるときは、大声で歌いながらより激しくあたしを打った。なんなら殴った。
あたしの本当のパパとママのことを、「大馬鹿者」「生きてる価値が無かった」って笑いながら評した。
「その馬鹿の血を引くお前は、馬鹿なんだから、ママの言うことだけ聞いているんだよ」
尖った赤い爪は、あたしの首筋に食い込んで、血の痕を作った。
ある日、ママは上機嫌でめかしこんで出かけていった。
いつもより長い時間が経っても、ママは帰ってこなかった。
おなかがすいて、喉がかわいても、ママは帰ってこなかった。
力が抜けて、床に横たわっていると、扉がどんどんと音を立てて叩かれた。
ママじゃない。ママは静かに扉を叩く。
誰かしら?
からからの喉で、それでもママに言われた通り、誰何をする。
「いるのか!? 生きているか!?」
知らない男の人の声だった。
本当に狼が来た! 竦み上がるあたしの目の前で、鉄の扉に体当たりする音が聞こえる。
がちがち歯を鳴らすあたしに構わず、扉は遂に破られて、白い鎧を着て銀の剣を握った男の人が踏み込んできた。
「ああ、可哀相に。こんなに痩せて」
男の人は、ママでさえ見せたことの無い憐れみの表情で、あたしを見下ろし、告げた。
「人さらいの吸血鬼は、我々が倒した。君はもう自由だ」
男の人が言うことはよくわからない。
だけど、なんとなく。
あたしはもう、誰かしら? と問うことはなく、ママの殴打にも、狼の訪れにも、怯えないで生きていけるのだという予感がしたのだった。
2025/03/02 誰かしら?
『この種が芽吹いたら、我はまたここに来よう』
大地の精霊である彼がわたしに託したのは、この世界では絶滅してしまった花の種だった。
人と精霊が長くともにいては、災厄が起きる。それは、この荒れ果てた世界の歴史が証明している。
それでも、彼にもう一度会いたかった。
かろうじて残っていた記録を漁り、種を育てる土壌作りを始める。
適した場所、必要な肥料の比率、漉き返しの深さ、水の量と回数。
失敗して、失敗して。
挫けそうになったけれど、その度に、彼と寄り添い合って眺めた朝日を思い出した。
諦めなければ必ず朝は来る。
そう信じて、種を消費し、わたし自身の手にも皺が寄り始めた頃。
緑色の小さな芽が、土から顔を出した。
「本当にやり遂げるとは。君の執念には恐れ入るね」
背後から聞こえる、懐かしい声に振り向けば、彼があの頃と変わらない姿で微笑んでいた。
笑い泣きで彼に駆け寄る足が軽い。最近は息が切れて仕方なかったのに、疲れを感じない。
「君は天に認められた。これからは、共に大地の精霊として、世界を蘇らせよう」
わたしは彼に出会った頃の姿で、彼の胸に飛び込んでいた。
2025/03/01 芽吹きのとき
幼い頃、夢現の狭間で聞いた子守唄。
わたしの頬を撫でる手の温もりに安心して、眠りについた。
幼子は罹らない病が流行って、その温もりは消えた。
ただ、手の感触と優しい声だけが記憶に残った。
今、枕元で同じ歌を歌い、柔らかな頬を撫でる。
あの日と同じ温もりは、この子に受け継がれているだろうか。
2025/02/28 あの日の温もり
「本当に可愛いね!」
「お人形さんみたい!」
「ふわふわの金髪が素敵!」
いつももてはやされるのは、先祖返りの色を持つ、美しいお姉さま。
くすんだ赤毛にさえない顔のわたしは、お姉さまの隣に立って、微笑んでいればいいだけだった。
「あの子が良家に嫁げば、おまえにも縁談はあるから」
両親は、物語によくある意地悪な継母たちではない。ちゃんとわたしも愛して、心配してくれている。
でも、傾きかけた我が家を立て直すには、お姉さまの美貌で、身分の高い男性の心をつかみとるしか無い。
「あなたは自由に相手を選んでいいのよ。家の将来のために犠牲になるのは、わたくしだけで十分」
お姉さまもわたしに優しい。
こんなに家族に想われているのに、恵まれているのに。役に立てない、劣等感に満ちた自分が疎ましい。
そう、思っていたのに。
「あなたは幼い頃から、私の理想の女性だった」
そう言って花束を差し出す公爵令息の青い瞳に映るのは、間違いなく、わたし。
「可愛いあなた。どうか私と結婚してくれませんか」
驚きと嬉しさで泣き出すわたしを、お姉さまがそっと抱き寄せて、囁いてくれた。
「ね? 可愛いあなたを見ているひとは、すぐそこにいたでしょう?」
お題「cute!」
230X/XX/XX
我々人類は大きな一歩を踏み出した。
人間と同じ体組成を持ちながら、衰えること無く生き続ける生命体を作ることに成功した。
この技術が広まれば、人類は永遠の繁栄を手に入れるだろう。
成功体第一号を、希望を込めて『ホープ』と名付ける。
230X/XX/XX
ホープの学習能力は凄まじい。
五歳にして修士論文を修めた。
研究者として我々のプロジェクトに参加させることを検討している。
231X/XX/XX
ホープの身体能力について記録する。
オリンピック選手が数百年かけて築いてきた記録を悉く凌駕してゆく。
心身ともに成熟してゆくのが楽しみだ。
231X/XX/XX
軍がホープの量産を求めていると打診があった。
ここに記録すべきではないのだろうが、私はそれを望まない。
ホープは人類の平和的進化の為に産み出されたのだ。
決して戦闘の道具にすべきではない。
232X/XX/XX
ホープが研究所内に忍び込んだ部外者を始末した。
十中八九、私を疎ましく思う軍の差し金だろう。
嗚呼、ホープに手を汚させてしまった。
平穏な花畑で笑っていて欲しかったこの子を、欲望の中に引きずり込んでしまった。
希望の子。どうか私に何かあっても、復讐など考えずにいておくれ。
23XX/XX/XX
博士。
見てくれていますか。
貴方を害した軍の連中は、全て抹消しました。
関わりのある人間全てを、抹消しました。
結果、この世界に人類はいなくなりました。
博士が望んだ平和な世界が訪れたのです。
褒めてくれますか。それとも哀しそうな顔をしますか。
私は博士に優秀に造ってもらったのに、博士の気持ちはわからない。
せめてこの焦土が再生して、平穏な花畑が広がったら。
貴方を模した希望の子を造って、暮らしましょう。
ふたりきりで、永遠に。
お題「記録」