この手を離せ、と彼は叫んだ。
崖から落ちそうになっている二人。わたしの細腕で二人とも這い上がる事なんてできない。
たとえそれが自明の理でも、手離したくなんかなかった。
それをわかりきっていたのだろう。彼はわたしの手の甲をきつく引っ掻いた。
走る痛みに反射的に手を開く。
「それでいい」
彼は穏やかな笑みを浮かべながら、遠ざかって見えなくなった。
ようよう独りでたどり着いた町で、ふらふらと食堂に入る。
愛しい人を自分の不覚で亡くした直後でも、不思議なことにおなかは空いた。
山盛りの辛旨肉と大ジョッキのエールを頼んで、がつがつ、ぐびぐび。
肉のスパイスのせいで汗が顔に吹き出しているのかと思ったら、無意識に涙が頬を濡らしていることに気づいた。
周りの冒険者たちは、泣きながら大食いしている女にドン引きしているのだろう。誰も近寄ってこない。
エールを飲みながら、ふと左手の薬指に気づく。
『一山当てたら腰を落ち着けよう』
そう言って彼が贈ってくれた、ルビーの指輪。
全てを忘れる為に、これを手放さなくては。また目の奥が熱くなってくると。
「まったく、相変わらず、辛いことがあった時の解消方法に可愛げが無いな」
もう二度と聞けないはずの声が背後からかけられて、驚きながら振り返る。
服は汚れて、あちこちかすり傷だらけだが、彼がそこにいた。
「おまえ、俺が精霊の加護を受けているのを忘れていたろう?」
はっとして思い出す。
生まれながらに風と地の精霊の加護を受けた『二重祝福』。
風の精霊が落下の抵抗を減らし、地の精霊が岩を綿に変えて、彼を助けたに違いない。
「思い込むと際限が無いからな、おまえは」
彼の手を離す勇気は出すべきだったが、指輪を手放す勇気を早々に 出さなくて良かった。
わたしは泣きながら声を張り上げた。
「マスター! エール大ジョッキ二杯追加!!」
2025/05/17 手放す勇気
青は藍より出でて藍より青し、だったっけ?
私の左薬指に光るスターサファイアは、とても青い、青い。
青は愛より出でて愛より深い青なんだね。
2025/05/03 青い青い
世界は闇の中にあった。
魔王を倒した勇者は、魔神皇の前に敗れ、四肢をもがれて炎に消えた。
魔王の上位存在である魔神皇に、慈悲など無かった。
人々は魔族に抑圧され、永遠の夜に閉ざされた空から降る隕石によって、街は次々と消えた。
だが、覚悟を決めた人々に守られ育てられていた、勇者の娘が、亡き父の聖剣を手に、魔神皇に立ち向かった。
小娘と侮りおごっていた魔神皇は、少女の渾身の一撃の前に、呆気なく屈した。
闇が去ってゆく。
顔を出し始めた朝日を、人々は抱き合い歓呼と涙で迎え、勇者の娘を心の底から讃えた。
歓声を背に受ける少女は、新たな朝を迎える世界を見て、ぽつり、呟く。
「太陽は、こんなにも美しいのね」
彼女が初めて見る、夜明けであった。
2025/04/28 夜が明けた
朝起きた時
夜寝る前
通勤電車で窓の外を見て
たまに君のことを思い出す瞬間があったよ
もう疎遠になって久しく
君は私のことなんて
どうでもよくなってたろうけど
久々のSNS投稿が
揃いの結婚指輪は無いんじゃない?
すべての気力が失くなって
泣きながら君をブロックした
今度こそ本当にさよならだね
もうこんなにひとを好きになることは
きっと無いよ
2025/04/27 ふとした瞬間
自惚れてたのかな。
ちゃんと言葉にしたことが無かったね。
小さい頃から一緒にいるのが当たり前だった。
小学中学高校、ずっと同じクラスだった。
この先もずっと一緒だと信じてた。
卒業式の後で、後輩に第二ボタンを渡す君を見て、わたしは君の一番じゃあないことを、やっと知った。
BSS、って言うんだっけ。
初恋は実らない、とも。
好きだよ。
その一言を踏み出せなかった。
2025/04/05 好きだよ