この手を離せ、と彼は叫んだ。
崖から落ちそうになっている二人。わたしの細腕で二人とも這い上がる事なんてできない。
たとえそれが自明の理でも、手離したくなんかなかった。
それをわかりきっていたのだろう。彼はわたしの手の甲をきつく引っ掻いた。
走る痛みに反射的に手を開く。
「それでいい」
彼は穏やかな笑みを浮かべながら、遠ざかって見えなくなった。
ようよう独りでたどり着いた町で、ふらふらと食堂に入る。
愛しい人を自分の不覚で亡くした直後でも、不思議なことにおなかは空いた。
山盛りの辛旨肉と大ジョッキのエールを頼んで、がつがつ、ぐびぐび。
肉のスパイスのせいで汗が顔に吹き出しているのかと思ったら、無意識に涙が頬を濡らしていることに気づいた。
周りの冒険者たちは、泣きながら大食いしている女にドン引きしているのだろう。誰も近寄ってこない。
エールを飲みながら、ふと左手の薬指に気づく。
『一山当てたら腰を落ち着けよう』
そう言って彼が贈ってくれた、ルビーの指輪。
全てを忘れる為に、これを手放さなくては。また目の奥が熱くなってくると。
「まったく、相変わらず、辛いことがあった時の解消方法に可愛げが無いな」
もう二度と聞けないはずの声が背後からかけられて、驚きながら振り返る。
服は汚れて、あちこちかすり傷だらけだが、彼がそこにいた。
「おまえ、俺が精霊の加護を受けているのを忘れていたろう?」
はっとして思い出す。
生まれながらに風と地の精霊の加護を受けた『二重祝福』。
風の精霊が落下の抵抗を減らし、地の精霊が岩を綿に変えて、彼を助けたに違いない。
「思い込むと際限が無いからな、おまえは」
彼の手を離す勇気は出すべきだったが、指輪を手放す勇気を早々に 出さなくて良かった。
わたしは泣きながら声を張り上げた。
「マスター! エール大ジョッキ二杯追加!!」
2025/05/17 手放す勇気
5/17/2025, 1:34:36 AM