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12/7/2024, 12:09:09 PM

『部屋の片隅で』


 私は弟の耳を両手で塞いで、二人で頭から布団をかぶって震えていた。弟の手も震えて私の背中に回されている。
 私だって耳を塞ぎたい。父親が母を罵倒する声なんて聞きたくない。だけど私は目の前の小さな弟を守らなければならない。

 ガターン

 大きな音が鳴った。たぶんまた父親が母に手をあげたんだろう。そんな音、聞きたくはない。
 私の手もまだそんなに大きくはない。母の手より小さい私の手では、母を守ることもできない。弟の耳を必死に塞いでいても、完全にこの音を防ぐことなんてできない。
 だけど私は弟の耳を塞いだこの手を放すことはできないんだ。


「ユイちゃん?」
「あ、ごめん何?」
「いや、なんかすごい魘されてたからさ」
 目を開けたところにいるのは幼い弟ではない。私はあの頃のような小さく無力な存在ではないし、あんな男の庇護下になくても生きていける。

「うん。ちょっと嫌なこと思い出しただけ」
「大丈夫なの?」
「何が?」

 確かに苦しい過去だけど、誰にも踏み込んでほしくはなかった。可哀想だと同情されるのも嫌だったし、大変だったねなんて何様なのか。
 だから私は今日も作った笑顔で「過去のことなんで気にしてません」なんて壁を作る。
 ただの客がこれ以上入ってくるな。


 あの後、母はいなくなった。私たちを置いて一人だけ逃げ出したのか、それとも死んだのか、殺されたのか、まだ幼かった私と弟には、いなくなったことだけしか教えてもらえなかった。
 そのまま私と弟は母の妹の家でしばらく過ごし、私が高校を出ると二人で家を借りた。叔母の家族に虐められたとかそんなことはない。たぶんいい人たちだった。

 だけど私には家族だと思えなかった。弟は黙って私に従った。五歳下の弟は可愛かった。容姿とかではなく、唯一私の家族で私が守るべき存在として可愛くて仕方がなかった。私が必ず弟を守る。そう決めていた。

 高卒で働けるところはあまり給料がよくなくて、探せばもっといい仕事があったのかもしれないけど、私は探し方を知らなかった。
 何とかしなければと夜の仕事を始めた。初めはカウンターの中でお酒を作ってお客さんと話をするだけの店だった。
 でも弟との時間がなくなって、昼間働けるところを探した。金銭感覚がおかしくなって、昼間の事務作業がとても時間の無駄に思えた私は、思い切って仕事を辞めた。

 そして始めたのが昼間の風俗店だ。これなら昼間の仕事と同じような時間で働ける。弟を一人にしなくて済む。それに生活費にも余裕が出て、弟の進学の費用だって貯めることができた。
 金銭感覚が狂ったといっても、ブランド品や高級なものを買ったりはしなかった。そんな物より、私にとっては家族が大事。

「姉ちゃん、俺、大学は奨学金で行くから」
「なんで? お金のことは気にすることないよ」
「それってさ、体売った金だろ?」
 バレていないと思っていたけど、弟にはバレていた。そして弟は大学進学と同時に私と暮らす部屋を出て行った。

 私はあの震える小さな手を守りたかっただけなのに。あの時は、私のこの手で守れる気がしたんだ。
 一人になった部屋で、私は膝を抱えた。

「姉ちゃん、今までありがとう」
 弟が残した最後の言葉だけは決して忘れない。私のやったことは無駄じゃなかった。


 私の思い出に入ってくるな。思い出の中の私は、ちゃんと弟を守れていた。唯一の家族を守れていた。かけがえのない思い出。
 それは私の誇り。だから誰にも何も言ってほしくないし、触れてほしくない。一番輝いていた頃の私なんだ。

 今日も私は体を差し出して金を稼ぐ。過去の栄光じゃない。今でも私は栄光の下にいる。この体が私の家族を守った。だから私は誇りを持ってこの体で稼ぎ続けるんだ。


(完)

12/4/2024, 5:12:14 AM

『さよならは言わないで』


 知ってたよ。俺とお前は住む世界が違う。
 ずっと気付かないフリをしていた。出会った時からずっとだ。とうとうきたんだな、離れ離れになる瞬間が。

 次の約束は無い。これが最後だって分かってる。だけど、もしかしたらって希望は捨てたくないんだ。希望がなくなってしまったら、俺は生きる意味さえ失う。

「ごめんね」
「言うな。こうなることは分かってた。お前のせいじゃない」
 これが最後と重ねた唇は、いつも通り柔らかくて、少し震えていた。

今すぐ奪い去りたい。そんな気持ちはあっても実行できるかは別の話だ。

「俺こそごめん」
「あっくんのせいじゃないよ」
「じゃあ……」
「さよならは言わないで。またいつかがあるって信じたいから」
「分かった」
 彼女が俺と同じ気持ちだと知って、抑えていたものが溢れそうになった。

 俺たちは最後に握手をすると、互いに背を向けて新しい道を、二人違う道を歩き始めた。



(完)

12/3/2024, 1:12:14 AM

『光と闇の狭間で』


 あぁ、またやってしまった……

 いけないと分かっている。また帰ったらルームメイトの夏美に説教されるんだろう。
 私の隣で眠るのは見知らぬ男だ。白い肌にカールした茶色の髪、彫りの深い目元に高い鼻。髭も生えているし、分厚い胸板には薄っすら胸毛が生えている。ハーフか欧米系の人のようだ。彼の下半身は布団に隠れて見えないが上半身は裸。そして私は布団の感触を考えても全裸だ。

「んん〜」
 男が起きたようだ。
 全く記憶にないけど、たぶん私はこの男とやったんだろう。一応聞いてみる? いや、その必要はないか。

「おはよう」
「Grazie per una serata meravigliosa」
「……」
 グラッチェ? イタリア語だろうか? ってことはこの色素の薄いイケメンはイタリア人? 言葉も通じない人と一夜を共にしたのは初めてだった。

「あ、ゴメンゴメン、ユミはニホンジンだったね。Mmm……なんて言うんだっけ? あ、サイコウ! ユミ、昨夜はサイコウだったよ!」
 名前も知らないイタリア人と思われる男は私を抱きしめて、嬉しそうに頬や口にキスをしてきた。さすが情熱の国イタリア。
 
 ──最高か……

 見知らぬ人に言われても、少しも私の感情は動かない。それにしてもちゃんと日本語を話せる人でよかった。されるがままキスをして、胸毛って意外と柔らかいんだな、なんて考えていた。

 こんなことは初めてではない。私はお酒を飲むと楽しくなって止められなくなってしまう。いつも一杯だけと、少し体が温かくなる程度でやめておこうと思うんだけど、気づくとこうして知らない男の隣で裸で寝ている。
 ルームメイトの夏美曰く、私は酒が進むと男の人に甘えたくなるらしい。自分ではそんなつもりはないし、その頃になると記憶は飛んでいるから自覚はない。

 ルームメイトの夏美と一緒に飲むときはいい。夏美がストッパーになってくれるし、酩酊しても夏美が連れ帰ってくれるから。しかし夏美がいないときはダメだ。こうして男の隣で起きて、朝帰りすると夏美に短くない説教をされることになる。

「ユミ、キレイだ。アナタが欲しい」
「え? あ……」
 この名前も知らない男に、朝から抱かれることになった。昨夜のことは記憶にないけど、今はシラフだ。シラフの状態で見知らぬ男に抱かれるなど──と思ったけど、彼が情熱的にキレイだとか、カワイイとか、愛シテルとか言ってくれるから、満更でもない気分になっていった。

 私だって愛されたい。誰でもいいわけじゃないけど、私ってちょろいのかな? こんな言葉は彼にとって挨拶みたいなものかもしれない。
 それでも嬉しかった。

 この男に落ちたら、私の未来は光り輝くのか、それとも闇が広がっているのか。私はこの男のことを何も知らない。名前すら知らない。

「ユミ、昨日みたいに『エミリオ愛シテル』って言って」
 この人、エミリオって名前なんだ? 綺麗な名前。それにしても私は会ったばかりの人に愛してるなんて言ったのか……

「エミリオ愛してる」
「Contento、嬉しい。カワイイね、ユミ、愛シテル」
 名前しか知らないけど、優しい温もりの中で、少しだけ希望が見えた気がした。

 結局私は夏美に怒られなかった。エミリオが家まで送ってくれて、夏美に挨拶までしてくれたからだ。ただしエミリオがいなくなると問いただされた。

「ちょっと優美、エミリオ様といつの間に仲良くなったのよ? しかも結婚するとかどうなってんの?」
 結婚は私も知らない。さっき夏美の前で急に「結婚するゼンテイのオツキアイ」なんて彼が言ったからだ。それよりエミリオ様?

「夏美、エミリオのこと知ってるの?」
「はぁ? 知ってるでしょ」
 夏美に聞いてみると、エミリオは大学のイタリア語の教授の助手だった。まさか大学関係者だったなんて……

「でも大丈夫なの? エミリオ様、来年イタリアに帰るとか言ってた気がするんだけど」
 帰る? そうか、彼はイタリア人で私は日本人。ずっと日本にいるとは限らないんだ。まさかついてこいとか言われるんだろうか?

 夏美はイタリア語を取っているけど、私はイタリア語なんて全然分からない。
 三月には卒業するし、一緒に来いと言われたら行けなくはないけど、海外でなんて暮らしていける気がしない。

 彼の温もりの中に確かに希望の光が見えた気がしたけど、今は不安の真っ暗な闇が私を覆い尽くそうとしている。
 愛してるなんて言ったのは失敗だったかもしれない。付き合うって話もないままに結婚なんて話が出たけど、私に国際結婚なんてできるの?

 光と闇が混在したエミリオという男。いや、彼が光や闇ではなく、私の気持ちが光と闇なんだ。

「夏美、イタリア語、教えてくれない?」
 私は闇を払拭すべく、光の中へ一歩足を踏み出した。



(完)


11/30/2024, 11:15:20 AM

『泣かないで』


「泣かないで」って言われたことはある。「お前は泣けば済むと思っているんだろ?」と言われたこともある。
 あんなに泣くのは得意だったのに、何もしなくても涙が溢れることもあったのに、今では一滴も涙が出ない。
 あまりに辛く悲しいことがありすぎたんだ。
 泣いても何も変わらないと知ってしまったから。

「お前、泣きもしないんだな」
 そんな風に言われるようになった。だからドラマとかでわーっと泣ける人は所詮演技なんだって思ってた。
 なのに今私の目の前には、号泣する女がいる。

「泣かないで」
 私がそのセリフを言うことになるなんて思わなかった。
 この目の前の女は過去の私であり、今の私がなれない私。

「羨ましい」
 そんな言葉が思わず口をついて出た。
 目の前の女は怪訝な顔をして私を見た。
 なんだ、涙止まったんじゃない。演技だったってことか。

「あんたみたいな女が一番嫌い!」
 目の前の女は私にそう言った。うん、私もそう思う。私は泣けもしない女になってしまったんだ。だから感情をむき出しにして、そんな風に泣いたり怒ったりできるあなたが羨ましい。

「私は嫌いじゃないけどね」
 そう言うと女は私のことを怯えた目で見た。そんなに怯えることはないと思う。だって私はただ泣けないだけの女なんだから。

「怖がることはないわよ。何もしないし。ねえ、どうやって泣いてるの? 私、泣けなくなっちゃったのよ」
「はあ?」
 女は怪訝な顔をして、私は関わったらヤバい奴だと思ったのか、鞄を抱えてその場を逃げるように立ち去った。

 私は本当に羨ましかっただけなのに。上手くいかないものだ。彼女の背中を見つめながら、私は立ち尽くしていた。

 なんの感情も湧かない。そんなときは心の整理をする。心の整理とは言っても、部屋にあるものをひたすら捨てるんだ。思い出も、言葉にできないモヤモヤした感情も合わせて捨ててしまう。
 スッキリした。

 大きなゴミ袋が三つ。今回のモヤモヤはこの程度で済んでよかった。
 泣くことはストレス発散にもなるらしい。泣けない私はそれができないんだから、こうしてものを八つ当たりのように捨てるしかない。

 祖母からの手紙、もう祖母は十年以上昔に亡くなっている。いつも捨てようとして捨てられないんだ。この手紙だけは。
 久々に開いてみる。

『まあちゃん、泣かないで。ばあちゃんはいつでも味方でいてあげるからね。だから頑張るんだよ。健康に気をつけて』
 短い手紙だ。そうか、この手紙からかもしれない。泣けなくなったのは。だから捨てられなかったんだ。

 いつの間にか私の頬を涙が伝っていた。なんだ、私泣けるんだ。
 でも、泣かないんだ。私は祖母と約束した。祖母はもういないけど、約束は有効だから。
 私は頬の涙を手で拭うと、その手紙をゴミ袋に入れた。もう二度と泣かないために。



(完)



11/30/2024, 12:30:34 AM

『冬の始まり』


 ──もう無理かもしれない。

 そう思うのは何度目だろう?
 重い体を引き摺りながら、動かない頭とよれたジャケットを引き摺りながら家路を辿る。今日は終電で帰ることができた。
 風呂は、朝でいい。飯は、箱買いしたプロテインバーとこれ一本で1日分の野菜がとれるという野菜ジュースでいい。

 口の中がパサつく。ザラザラと砂を噛んだような不快感に、飲み込むのを躊躇したが、ペタンコの腹は空腹を訴えている。ゴクリと無理やり飲み込んで、そして水道の蛇口から直接水道水をガブガブと飲んだ。
 鉄臭い。大きな口を開けたから、荒れた唇が切れて血が滲んでいた。

 今回は何日会社に泊まったんだっけ?
 ジャケットのポケットには丸められたネクタイが入っており、袖を捲り上げたシャツは肘の辺りで皺が寄っている。ボタンを外す手が震える。

 ──さすがに限界だろ。

 体は悲鳴をあげている。その悲鳴に耳を塞いで無理に仕事をしてきた。周りはみんな死んだ目をして働いている。まだ下っ端の俺は自分だけ帰るなんて言えなかった。

 先日また一人、人が減った。辞めるという話は聞いていなかった。彼は突然来なくなったんだ。
 狡いと思った。俺だって逃げ出したい。周りの死んだ目をした奴らのその目が「お前は逃げるな」と言って俺を鎖で縛りつけている。

 下着や靴下はコンビニで買える。今はいい時代だ。夜中でも大抵のものは揃う。
 何日も眠っていなかった。一刻も早く眠りたいのに、俺は電気もつけずにテレビだけをつけた。深夜の通販番組が流れている。楽しいと思って見ているわけじゃない。ただ、会社以外の世間と繋がりたかった。

 下着姿になって床にペタリと座ると、フローリングの冷たさに身震いした。
 掃除を最後にしたのはいつだったか。ざらりとした床に不快感を覚えて、のそのそとベッドに上がる。

 薄っぺらい布団にくるまったが、凍えるように寒かった。毛布……
 部屋の奥にある収納から埃っぽい毛布を持ってくると、くるまってようやく震えがおさまってきた。

 ──温かい。

 温度なんて感じたのはいつぶりだろう?
 ただ垂れ流していたテレビからは、暖房器具が紹介されている。

 もしかして、もう冬なのか?

 どうりであんな薄い布団では寒いわけだ。フローリングの床が冷たいわけだ。
 夏の終わりにも気付かなかった。いつの間に秋は過ぎたんだ?

 毛布にくるまったまま、分厚いカーテンを開け、窓を開けてみた。
 寒っ……

 これは冬だな。慌てて窓を閉めてカーテンもキッチリと隙間なく閉めた。そしてただボーッとテレビを見ていた。内容は入ってこない。ただ光を眺めているだけだ。

 ピピピピ

 スマホのアラームでふと我にかえる。もう朝か。ペタペタと冷たいフローリングを歩いて風呂に向かう。いつからはもう記憶にないが洗濯もしていなかった。
 新しいタオルを出してシャワーを浴びる。

 頭をガシガシと洗い、体も洗うと泡を流して風呂を出た。タオルで全身を拭いて、目の前の鏡を見たら幽霊のような自分の姿に、悲鳴をあげそうになった。
 ボサボサの髪、落ち窪んだ目とそれを取り囲む酷いクマ、げっそりとこけた頬、顔が丸いことを気にしていた頃の俺はいない。

 ──俺、何してんだ?

 下着を着て、シャツに袖を通そうとしてやめた。野菜ジュースを飲もうとしてやめた。その隣にあった常温のビールの缶をプシュッと開けて、一気に飲み干した。
 分かっている。今から仕事に行かなければならない。酒なんか飲んでいけるわけがない。それでも俺は次々と缶を空けた。

 あの周りの死んだような目なんてどうでもよかった。スマホの電源を切って、お湯を沸かしてカップ麺に注ぐ。
 体にいいもの、栄養価が高いもの、健康も仕事のうち、そんなこともどうでもよかった。
 ラーメンをすすってスープまで飲み干すと、ベッドに入って目を閉じた。

 冬はいい。澄んだ空気が俺の頭もクリアにしてくれる。よし、逃げよう。

 その前に、おやすみなさい。


(完)

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