『風のいたずら』
ビュウっと風が吹いた。
「あ……」
ここで白いワンピースを着た女の子の麦わら帽子が風で飛んだりしたら絵になるんだけど、現実ではそんなことはない。
風で飛んだのは自転車の前カゴに入れていた綿菓子だ。さっき近所の神社でやってるお祭りの横を通った。そこで偶然会った妹に「もう要らないし邪魔だからお兄ちゃん持って帰って」と言われて仕方なく受け取ったものだ。
軽いから飛びやすい。山から吹き下ろす風でフワッと飛んで地面に落ちそうなところを、手を伸ばしてキャッチしたのは俺ではなかった。
「あたし、ナイスキャッチじゃない?」
そう言って綿菓子をキャッチしたのは同じクラスの山守だ。
「だな、ありがとう」
山守から綿菓子を受け取る。
俺はこいつのことはあまり知らない。去年この街に引っ越してきて、うちの学校に転入してきた。高二の秋なんて、受験を控えた変な時期だとは思ったけど、まだ自分たちは親の庇護下に置かれる存在で、逆らうことは難しい。
もうあと一年と少しってことで、彼女は今でも前の学校の制服を着て登校している。悪目立ちしたくないし、俺ならすぐに新しい制服を作るが、彼女はそんなことは気にしないらしい。
「食う?」
自分でもなんで山守にそんな風に声をかけたのか分からない。大して親しくもないんだから、そのまま立ち去ればよかったのに、なぜか声をかけてしまった。山守は一瞬驚いた顔をして、見たこともないような柔らかい微笑みを浮かべた。
──そんな顔もするのか……
俺は、いつも無表情で周りに人を寄せ付けない壁のようなものを作っている彼女が見せる笑顔に、見惚れてしまった。
「どうしたの?」
俺が固まっているから、彼女は心配そうに俺を見た。山守とこんな風に普通に話していることが信じられなかった。
「なんでもない。そこ抜けるとベンチあるから、そこで食う?」
「ん、いいよ〜」
いつも学校では周りを警戒している山守が、こんなに気安い感じなのも意外で、俺の頭の中は絶賛混乱中だ。
右手と右足が同時に出てしまいそうな、混乱した頭のままでベンチを案内して、自転車を隣に停めて並んで座った。
「お祭りの綿菓子なんて久しぶり。これって割高だよね」
「うん、まぁそうだな」
ギュッと潰したら砂糖の量はほんの僅かだろう。俺は小さく千切った綿菓子がどんどん運び込まれていく彼女の口元をじっと見ていた。
「信田くんも食べれば?」
「あ、うん」
急に話しかけられて、じっと見つめていたことを咎められるのかと一瞬緊張したが、そんなことはなかった。綿菓子の袋に視線を移して手を突っ込んで少し掴んで引っ張り出した。そして口に運ぶ。
「ふふっ、綿菓子食べるの下手なんだね。口の周りに綿菓子ついてる」
山守にそんな風に笑われて、カッと顔に熱が集まる。
山守の顔が近づいてきた。そのまま重なる唇、そして柔らかい舌で唇の端を舐められた。
ビュウっとまた風が吹いた。
「えっ…」
一瞬何をされたのか分からなかった。
「ごめん、キスしちゃった」
「あ、うん」
「もう一回していい?」
「うん」
なぜ俺は了承の返事をしたのか。
笑った顔でぐらりと揺らぎ始めた俺の心は、初めてするキスで完全に彼女に攫われた。
ビュウっとまた風が吹いた。
フワリと舞った綿菓子の袋、それを必死に追いかけて掴む。ふぅ、また上手いことキャッチできた。そう思って振り向くと、彼女はもういなかった。
(完)
『透明な涙』
「いい子にしてるのよ」
ママはそう言って、真っ赤な口紅を塗って家を出ていった。
ママが真っ赤な口紅を塗る日は嫌いだ。いつもと違って機嫌が良くて、いい匂いがする。そして鼻歌を歌いながら、普段は触れてもくれない私の頭を撫でる。
すごく嬉しくて、ママに抱きつきたい気持ちになるんだけど、それは許してくれない。
そしてママは綺麗な服を着て出かけていって、何日も帰ってこなくなる。
とても心地のいい温かいママの手が、「さよなら」と言っているように思えた。
「かえってくるよね?」
そう聞きたいけど聞けなかった。
冷蔵庫を開けてみる。そこには昨日の夜に食べ残したパスタの残りと、サラダの残りがあったから、私は少しだけ食べた。ママはいつ帰ってくるのか分からない。だから少しずつ食べるようにしている。
もう何日経ったかな?
今日もママは帰ってこない。冷蔵庫の中にもう瓶に入った赤くて辛いのと、食べ物じゃない何か分からない瓶しかない。この瓶の中身はママがお風呂上がりに顔に塗っているやつだ。
パスタもサラダももう無い。味噌ももう全部食べた。マヨネーズももう無い。玉ねぎは苦くて辛かったけど、お腹が空いて耐えられなかったから食べた。茶色の薄い皮は紙みたいで食べられないと思ったから剥いて食べた。
踏み台に乗って水道から水を出す。コップに入れて飲んで、お腹が空いたのを我慢した。
──ママ、早く帰ってきて。
ママが最後に言った「いいの子にしてるのよ」って言葉は別れの挨拶だったみたい。
何日かして、力が出なくて踏み台にも上がれなくなった頃、知らない大人が来て、子どもが集まっているところに連れていかれた。そこは暖かくて、明るくて、賑やかだった。
ご飯ももらえたし、お風呂にも入れてもらった。新しい服も着せてくれて、知らない大人が頭を撫でてくれた。
でも私は幸せじゃなかった。だってママがいないんだもん。大人は何人もいたけど、みんな優しくて赤い口紅を塗っていない。
私は、赤い口紅を塗った日だけ優しくて、頭を撫でてくれるママが好き。他の人じゃなくママがいい。
だって私のママはすごく綺麗で、いい匂いがして、私の前で泣くんだ。透明の涙を流しながら、私に縋り付くんだ。だから私がママを守らなきゃ。
何日も寝て、毎日ママが迎えに来てくれるのを待った。何日経ったか分からないけど、ある日ちゃんとママは迎えに来てくれた。真っ白でふわふわなコートを着て、真っ赤な口紅を塗っている。またどこかに出かけるの?
それでもいい。ママは私が守ってあげなきゃいけないんだ。
ママと一緒に家に帰ると、家には知らない男がいた。でもしばらくすると、男は家から出ていって、帰ってこなくなった。
「なんで? ずっと一緒だって言ったのに」
ママはまた私に縋って泣いている。透明の涙を流して。
「ママ、わたしがまもってあげる」
ほら、ママには私が必要でしょ?
きっとママはまた、しばらくすると真っ赤な口紅を塗って出かけて、何日も帰ってこなくなるんだ。でもこうして私のところに何度でも戻ってくる。
大好きだよママ。
(完)
『手を繋いで』
「ママ、僕を見て」
懐かしい夢を見た。ママの顔、今となっては思い出せない。写真一枚残ってない。ママがいなくなった時、パパがママの写真を全部ビリビリに破いて捨てたからだ。
当時の僕は何をしているのか分からなかったんだけど、今なら分かる。裏切られた憤りからの行動だったんだろう。
「マサキ、これからはパパと二人で暮らすんだ」
「うん」
本当はなんでなのか、ママはどこに行ったのか聞きたかったけど、聞いてはいけない気がして聞けなかった。
パパはちゃんと僕を見て、僕の手をしっかりと握った。パパは僕のこと見てくれる。だったらパパがいいと思った。
パパはいつも疲れてた。僕と手を繋いで保育園まで送って、仕事に行って、外が暗くなってから迎えにくる。
ママがいた頃はパパと手なんて繋いだ記憶はなかった。ママとも繋いだ記憶はないけど……。パパの手は温かくて大きい。
初めパパは料理だって下手だった。
「美味しくないよな? ごめんな」
パパは知らない。ママが出してくれるごはんは美味しかったけど、あれはママが作ったわけじゃない。お店で買ったやつだ。
パパは下手な料理をいつもちゃんと作ってくれたから、キッチンはいつもグチャグチャだった。パパが疲れてソファで寝てる時、僕は踏み台を持って行って、お皿を洗おうとしたんだ。僕も役に立ちたかった。だけどお皿が落ちて割れてしまった。
ガシャーン
大きな音がして、パパは慌てて起きて、僕がお皿を割ったのだと分かるとため息をついた。
「ごめんなさい」
怒られると思ったのに、パパは怒らなかった。それからうちの食器は割れない食器になったんだ。僕もパパの役に立ちたくて、お手伝いをするようになった。
「マサキは偉いな」
「パパのほうがもっとえらいよ」
そう言ったらパパは笑って抱っこしてくれた。
そんな男二人の生活がずっと続いた。僕はもう無力な子どもではない。結婚もして、子どももいる。親父は先日仕事を辞めた。定年退職ってやつだ。
それでも元気だから、いつも息子と手を繋いで散歩に行く。
「親父、ありがとう」
「ん? 何のことだ?」
「何でもない」
あの時、僕を見てくれて、大きな手で僕の手を包んでくれたから、僕は迷子にならずに済んだ。
今となっては親父の手はそれほど大きいとは思えない。だけど、あの頃の僕にとって、何者からも守ってくれるような大きな手はとても頼もしくて格好いいと思った。
だからもし親父が迷子になることがあれば、僕がその手を握って親父を守ろうと思う。
(完)
『部屋の片隅で』
私は弟の耳を両手で塞いで、二人で頭から布団をかぶって震えていた。弟の手も震えて私の背中に回されている。
私だって耳を塞ぎたい。父親が母を罵倒する声なんて聞きたくない。だけど私は目の前の小さな弟を守らなければならない。
ガターン
大きな音が鳴った。たぶんまた父親が母に手をあげたんだろう。そんな音、聞きたくはない。
私の手もまだそんなに大きくはない。母の手より小さい私の手では、母を守ることもできない。弟の耳を必死に塞いでいても、完全にこの音を防ぐことなんてできない。
だけど私は弟の耳を塞いだこの手を放すことはできないんだ。
「ユイちゃん?」
「あ、ごめん何?」
「いや、なんかすごい魘されてたからさ」
目を開けたところにいるのは幼い弟ではない。私はあの頃のような小さく無力な存在ではないし、あんな男の庇護下になくても生きていける。
「うん。ちょっと嫌なこと思い出しただけ」
「大丈夫なの?」
「何が?」
確かに苦しい過去だけど、誰にも踏み込んでほしくはなかった。可哀想だと同情されるのも嫌だったし、大変だったねなんて何様なのか。
だから私は今日も作った笑顔で「過去のことなんで気にしてません」なんて壁を作る。
ただの客がこれ以上入ってくるな。
あの後、母はいなくなった。私たちを置いて一人だけ逃げ出したのか、それとも死んだのか、殺されたのか、まだ幼かった私と弟には、いなくなったことだけしか教えてもらえなかった。
そのまま私と弟は母の妹の家でしばらく過ごし、私が高校を出ると二人で家を借りた。叔母の家族に虐められたとかそんなことはない。たぶんいい人たちだった。
だけど私には家族だと思えなかった。弟は黙って私に従った。五歳下の弟は可愛かった。容姿とかではなく、唯一私の家族で私が守るべき存在として可愛くて仕方がなかった。私が必ず弟を守る。そう決めていた。
高卒で働けるところはあまり給料がよくなくて、探せばもっといい仕事があったのかもしれないけど、私は探し方を知らなかった。
何とかしなければと夜の仕事を始めた。初めはカウンターの中でお酒を作ってお客さんと話をするだけの店だった。
でも弟との時間がなくなって、昼間働けるところを探した。金銭感覚がおかしくなって、昼間の事務作業がとても時間の無駄に思えた私は、思い切って仕事を辞めた。
そして始めたのが昼間の風俗店だ。これなら昼間の仕事と同じような時間で働ける。弟を一人にしなくて済む。それに生活費にも余裕が出て、弟の進学の費用だって貯めることができた。
金銭感覚が狂ったといっても、ブランド品や高級なものを買ったりはしなかった。そんな物より、私にとっては家族が大事。
「姉ちゃん、俺、大学は奨学金で行くから」
「なんで? お金のことは気にすることないよ」
「それってさ、体売った金だろ?」
バレていないと思っていたけど、弟にはバレていた。そして弟は大学進学と同時に私と暮らす部屋を出て行った。
私はあの震える小さな手を守りたかっただけなのに。あの時は、私のこの手で守れる気がしたんだ。
一人になった部屋で、私は膝を抱えた。
「姉ちゃん、今までありがとう」
弟が残した最後の言葉だけは決して忘れない。私のやったことは無駄じゃなかった。
私の思い出に入ってくるな。思い出の中の私は、ちゃんと弟を守れていた。唯一の家族を守れていた。かけがえのない思い出。
それは私の誇り。だから誰にも何も言ってほしくないし、触れてほしくない。一番輝いていた頃の私なんだ。
今日も私は体を差し出して金を稼ぐ。過去の栄光じゃない。今でも私は栄光の下にいる。この体が私の家族を守った。だから私は誇りを持ってこの体で稼ぎ続けるんだ。
(完)
『さよならは言わないで』
知ってたよ。俺とお前は住む世界が違う。
ずっと気付かないフリをしていた。出会った時からずっとだ。とうとうきたんだな、離れ離れになる瞬間が。
次の約束は無い。これが最後だって分かってる。だけど、もしかしたらって希望は捨てたくないんだ。希望がなくなってしまったら、俺は生きる意味さえ失う。
「ごめんね」
「言うな。こうなることは分かってた。お前のせいじゃない」
これが最後と重ねた唇は、いつも通り柔らかくて、少し震えていた。
今すぐ奪い去りたい。そんな気持ちはあっても実行できるかは別の話だ。
「俺こそごめん」
「あっくんのせいじゃないよ」
「じゃあ……」
「さよならは言わないで。またいつかがあるって信じたいから」
「分かった」
彼女が俺と同じ気持ちだと知って、抑えていたものが溢れそうになった。
俺たちは最後に握手をすると、互いに背を向けて新しい道を、二人違う道を歩き始めた。
(完)