『セーター』
え? なんかイメージと違うんだけど。
桃子は通販で届いた段ボールからセーターを取り出した。体型にフィットしたセーターを着て、下にはフレアースカートをはく。先週雑誌でそんな写真を見て、思い切ってネットでセーターを買ってみた。
買ったのはSサイズのセーターだ。桃子は先月13になったばかりで、背も低く痩せている。Mサイズだと体型にぴったりフィットしてくれないから、仕方なくサイズが豊富な通販を利用した。
実物を見て買えないのだから、サイズ感や質感はレビューや写真を見て判断するしかない。
学校から帰ると薄い段ボールがポスト投函されていた。ドキドキしながら開封し、さっそく着用して鏡の前に立った桃子の感想が冒頭のそれだった。
鏡に映るのは、ちょっとゆとりのあるセーターを着た桃子。やっぱりこの体型だと大人サイズは無理だったのかも。そう桃子は肩を落とした。
痩せている桃子はスカートもパンツも、大人用ではウエストがぶかぶかだ。だからベルト通しが付いていないボトムスははけない。ウエストがゴムならなんとかなるけど、可愛いスカートはどれもウエストにゴムなんて入っていない。
同じクラスの子にそれを言ったことがあるが、「何それ嫌味?」なんて言われてから、痩せて悩んでいることを言えなくなった。
世の中にはダイエットの方法は溢れているのに、その逆はほとんどない。桃子にとっては「細くていいな〜」という言葉も「太ってるね」と言われるのも同じように傷つくし失礼な言葉なのに、そこは誰も気を遣ってくれない。
サイズの合わないセータもそうだ。世の中には大きいサイズなんてのは色々あるくせに、小さいサイズってものはあまりないし、なぜか高額だったりする。世の中は不公平だ。
返品するのも面倒だ。客都合での返品となると往復の送料がかかる。どうにかフィットするようにできないか……。
「この前さ、ママがあたしの服を乾燥機にかけたら縮んじゃって着れなくなったんだよね」
ふとそんな友人の言葉を思い出した。
乾燥機にかければ縮むのか。それならこのセーターも縮んでサイズが合うかもしれない。桃子に迷いはなかった。
セーターを洗面所でびしょびしょに濡らし、そして乾燥機に入れてスイッチを押す。40分後には理想のサイズになっていることを祈りながら、しばしの待ち時間は漫画を読んで暇つぶしをすることにした。
あれ? もう乾燥終わってるんじゃない?
ふと気づくと辺りは真っ暗で、桃子は電気もつけずに漫画に没頭していた。
ワクワクと期待を込めて乾燥機へと向かう。桃子の足取りは軽い。
は?
桃子は乾燥機からセーターを取り出して驚愕した。そこにあったのは、編み目がギュウギュウに詰まってカチカチになった、幼稚園児くらいの子しか着れないようなサイズまで縮んだセーターだった。
桃子は自分が細いと自覚している。子供服だって着れるんだから、きっとこれだって着れる。
…………無理。まるでコルセットをキツく締めたように、息をするのも辛いくらいの締めつけ具合に、桃子はこのセーターを着ることを諦めた。
「桃子、そういえばなんか服買ったって言ってなかった?」
お母さんが夕飯の時に一番触れてほしくない話題を出してきた。
「服買ったけど、私のじゃなくてぬいぐるみのだから」
「あら、そうなの?」
本当は違うけど、あの服は枕元に置いてあるウサギのぬいぐるみしか着れないサイズになった。失敗したと言えばいいんだけど、それを話すのは恥ずかしくて、ぬいぐるみのために買ったことにした。
その日の夜は悔しくて眠れなかった。自分が悪いんだけど、納得できないことだってある。
「おはよー、桃子、寝不足? もしかしてこの前貸した漫画に没頭しちゃった?」
「そんなところ」
寝不足のまま学校に行くと、隣の席の亜矢ちゃんに寝不足がバレてしまった。
「ねえねえ、桃子聞いてよー」
「何? どうしたの?」
「昨日通販で買った服が届いたんだけど臭くてさ、すぐに洗濯したんだけど早く着たいからって乾燥機かけたら縮んで着れなくなっちゃったの。返品もできないしショックすぎるー」
「分かる」
本当に、痛いほど分かると桃子は思った。
「ねえ、亜矢ちゃん、実は私も。それで悔しくて寝れなかった」
「マジ?」
「マジマジ。乾燥機ってさ危険だよね」
「だね。乾燥機とセーターは相性最悪だね」
嫌なことがあったけど、お互い失敗という弱みを見せ合ったことで、二人の絆は深まった。
「ねえ、桃子、あの時のこと覚えてる?」
「ん? 何のこと?」
「セーター乾燥機事件」
「あ〜中1の時のね。覚えてる」
「洗濯表示とか二人で調べたよね」
「懐かしいね〜」
あれから20年、失敗が繋いだ友情は今でも変わらず続いている。
(完)
『落ちていく』
私は毎年家族と訪れる湖畔の別荘に、いつもと同じように家族と来ていた。
「ここに来るのは今年が最後になりそうだ」
パパが言った。パパの会社の業績が思わしくないという話は聞いていたけど、まさかこの別荘を手放すほどなんて思っていなかった。
「美紗子、すまない」
私ががっかりしていることに気づいてパパが言ったけど、私は会社のことは分からないし、パパを責める気にはならなかった。
「美紗子、結婚の話が出ているが、気が乗らないなら断ってもいいんだぞ」
私はパパの取引先の会社の専務だったかの息子と婚約している。結婚は来年の春の予定だ。相手は私より7つ年上の三十一歳。別に不満はない。
「彼と結婚するわ」
この結婚もそうだけど、私は自分の意思で色々なことを決めることができない。敷かれたレールの上を歩くことしかできないんだ。
それは昔からで、遠い記憶を思い返してみると、幼稚園の頃にはもう既にそうなっていた。
何一つ自分で決められない私は、放っておけば結婚もできないし、何もできない。誰か導いてくれる人がいないと生きていくことすらできないんだ。
婚約者の彼は私に指示をする。少し横柄で、少し乱暴な態度だけど、一から十まで彼は指示を出してくれる。そして私が全部彼の指示に従うと、褒めてくれるし喜んでくれる。こんなに私と相性がいい人はいないと思う。
私は予定通り、彼と結婚した。そして彼は別荘を買ったと言った。
私のパパの会社は何とか持ち直して倒産とはならなかったけど、規模が縮小しているから、あの別荘を買い戻すことはできなかった。
「美紗子、君の思い出の別荘だろ?」
旦那様が連れてきてくれた別荘は、私が家族と毎年訪れていた、パパが手放した別荘だった。
特に不満はない。思い出というほど何かあっただろうか?
毎年来ていたけど、特にこれといって印象に残る思い出はなかった。だけど私はこの別荘が好きだ。湖畔の周りは木で覆われていて、人の気配がない。とても静かで、自然の中にいるのが心地いい。いつもここに来る時は若葉の季節で、緑が芽吹く澄んだ香りがする。
「旦那様、ありがとうございます」
私がそう言うと、彼は満足そうに頷いた。そして彼はそこにバーベキューセットを用意し、会社の部下と思われる人をたくさん呼んでいた。
私は彼の指示に従い、料理の下拵えをしたり、お酒を用意したり、忙しく動き回った。
「美紗子さん、でしたっけ? 課長の奥様ですよね?」
声をかけて振り向くと、綺麗な女性がいた。
「はい。そうですが何か?」
私になんの用がなるのかは分からないけど、彼女は私を上から下までじっくりと眺めた後、フッと鼻で笑った。好意的でないことは分かったけど、私は何も言わず会釈だけして、その場を立ち去った。
彼女は私の夫のそばにいて、ベタベタと腕や肩や腰に触っているのが見えた。そして夫はそれを許している。というより、そうされることが当たり前という感じで慣れている。
この時に私は悟った。私は言いなりになる家政婦であって、彼が愛しているのは彼女なのだと。彼女もまた、彼を愛していて私の入り込む隙間なんて無い。だったらどうして私と結婚したんだろう?
私は自分が惨めで逃げたくなった。しかし、私は自分の意思で逃げることができない。その行動には責任が伴って、私はその責任を取るのが怖いんだ。
そうだ。分かった。
私は自分で何も決められないのではなく、責任を負うことが怖いんだ。
誰か、私を連れ去って。
自分では逃げられない。それなら誰かが私を連れ去ってくれればいいと思った。
「課長の奥さんってこんなに若くて可愛いんですね。従順そうだし」
そう。私は従順です。話しかけてきた男の人が誰なのかは分からないけど、この人でいいから、私を連れ去ってほしいと思った。
静かで好きだったはずの場所に、大勢の声が響いていて、大きな音楽を鳴らして、打ち上げ花火なんかもやっている。
私の静かな場所を返して!
そう言えたらいいんだけど、そんな勇気は私にはなかった。全て壊れてしまえばいいのに。
「俺と抜け出しませんか?」
私に話しかけてきた男は私の手を取った。私はこくりと頷くと、彼に手を引かれ、人気のないところへ導かれた。
「俺と一緒にどこまででも落ちていきませんか?」
なんて魅力的な言葉だろうと思った。私は望んでいた。私がここから抜け出すためには、このまま彼と落ちていくしかない。それが地獄なのか、それともただ恋に落ちるというだけなのか、湖の底に落ちていくのか、分からないけど私はまた頷いた。
私が最初で最後に自分で決めた未来。
「あなたとどこまででも落ちていく」
「いい子だね」
ああ、そうだ。私はいい子なんだ。
重なる唇。私はもう怖くない。私はもう自分で決められる。
(完)
『夫婦』
「ねえ、いつ結婚してくれるの?」
彼女はいつも俺にそう聞いてくる。もう何十回も、下手したら何百回も聞かれたかもしれない。
「そのうちな」
いつも俺の返事は決まっている。毎回同じ台詞のやり取りをする。そのことに何の意味があるのか。
俺にとってそれは、「おはよう」、「おやすみ」、「行ってきます」と「行ってらっしゃい」、「おかえり」と「ただいま」、それと同じように対になった台詞のように感じる。
彼女は結婚したい理由を語らない。なぜなら彼女が結婚したいのは自分の意思ではないからだ。
「ママが早く結婚しろって言うから」
「おばあちゃんがひ孫が見たいって言ってる」
「同僚の嶋さんが結婚して中野さんになったから羨ましい」
彼女の理由はいつも他人だ。
俺はなにも彼女と結婚したくないわけじゃない。結婚するなら相手は彼女だと決めているし、彼女となら一生一緒にいられると思っている。だがいざ結婚となると急に現実味がなくなって、裸で真っ暗な中に立たされているような不安がある。
「お前のそれって、責任から逃げてるって言うんじゃないのか?」
同僚に彼女がいつも結婚したいと言ってくると愚痴ると、そんな返答が返ってきた。同僚のこの男の左手薬指には銀色の指輪が光っている。こいつはどうやって、婚姻届を書こうと決意したのか?
俺にはまだ婚姻届にサインをする勇気がない。結婚とは相手を支えなければならない。相手の人生も背負わなければならない。その一歩がどうしても踏み出せないんだ。
同棲している今の生活と何が変わるのか分からない。婿養子にでも入るのならば、苗字が変わったり住まいが変わったりするんだろう。しかし、結婚してもお互いの実家に住むつもりはない。このままこの部屋で暮らすつもりだ。引っ越しも転職も考えていない。
今の生活と何ら変わりはないのだが、何かが引っ掛かるんだ。その何かが分からないうちはきっと一歩も踏み出せない。
「ねえ、別れよっか。あたし結婚したいの。結婚しないならあなたと付き合っているのは時間の無駄だと思う」
いつもの結婚の催促かと思ったら、思いがけない彼女からの言葉に、動揺して手が震えた。
「は? 結婚しないとは言ってないだろ?」
俺の声は震えていないだろうか? 当たり前だと思っていたこの関係が崩れてしまうことがあるのだと知った。そんなことは分かっていたはずだった。俺たちは口約束だけでこうして一緒に生活をしている。契約などないし、書類もない。結婚したからと言って、離婚という未来がないわけではないが、やはり書類を書き、公的に認められた契約とは違う。
一歩がとても重いが、踏み出さなければいけない状況だ。
「分かった、結婚しよう」
「本当?」
そこから結婚するまでは実に早かった。何度もシミュレーションしたのかと思うほど彼女の手際はよく、顔合わせから戸籍謄本の準備、婚姻届の用意に名義変更の手続きまで、すぐに終わった。
そういえばプロポーズをしなかった。指輪はネットで一緒に選んで買った。
婚姻届だって、物が散乱した俺たちの部屋は、机の上が汚いから婚姻届が汚れそうという理由で、フローリングの床に這いつくばって書いた。結婚ってこんなもんなんだな。
俺たちは結婚式はしなかった。ドレスとタキシードをレンタルして、フォトウエディングってことで一枚だけ写真館で写真を撮ってもらった。ただそれだけで結婚できてしまったんだ。こうして俺たちは夫婦になった。
日々の生活は何も変わらなかった。いつもと同じ時間に起きて、いつも通りに仕事をして、帰宅すると早く帰った方が料理をしたりする。何も変わらなかった。
結婚に夢があったわけではないが、一歩が踏み出せなかった自分は何だったのかと、呆気に取られるほど何も変わらなかった。
変わったのは、左手の薬指に銀色の指輪が嵌められていることくらいだ。
「ねえ、安田さん専業主婦になるんだって」
「そうなんだ」
「だからあたしも専業主婦になりたい」
「は? じゃあ家事全部やって部屋も片付けてくれんの? 今より贅沢できなくなるぞ?」
「ママも専業主婦だし大丈夫じゃない? もう退職願出しちゃったし。来週で退社なんだ〜」
妻はやっぱり自分の意思はなく他人が基準だ。
俺はそれを恐れていたのだと今やっと分かった。なぜ結婚する前に気づけなかったのか。
結婚が怖かったんじゃない。気まぐれで、隣の青い芝ばかり見ている妻が怖かったんだ。
俺の想いは急激に冷めていった。人として酷いのかもしれない。自分の稼ぎは二人を支えられるほど多くない。甲斐性なしと言われればそうだ。俺の稼ぎが多ければ、こんなことで悩むことはなかったのかもしれない。結婚式をしなかった理由も金がないからだ。子どもを作っても育てる余裕がないから、避妊だけはしっかりしていた。
「考え直してくれないか? 俺の稼ぎだけでは二人で食っていけない」
「大丈夫だって。あたし節約するし、無駄遣いしないし」
一体何の根拠があって言っているのか分からなかった。俺は奨学金の支払いが終わっていないし、施設に預けている母親の施設代は兄貴と半分ずつ出している。
今までは家賃を折半していたからこの部屋に住めた。光熱費は俺が払っていたが、これからは家賃を全額俺の給料から支払うことになる。それだけではない。妻の携帯代や妻が使う化粧品、二ヶ月に一度行く美容院や、洋服代も……
軽く計算しただけで頭痛がした。昼はおにぎりでも持っていけば浮く。一日千円として二十日分で二万。それを家賃の足しにして、それでも足りない。切り詰めれば何とかなるのか?
危ない橋だが、もう妻の退職は決まっているようだしどうしようもない。金が欲しければバイトかパートでもするだろうと俺は了承した。
「ねえ、友達とご飯行きたいからお金ちょうだい」
「は? 外食するのか? 俺だって外食してないのに」
「しょうがないじゃん。暇なのに断れないし」
「貯金は?」
「そんなの無いよ。この前美容院行ったらなくなった」
俺はカラーなどせず千円カットなのに、妻はいちいちカラーリングし、トリートメントまでして、スタイリストカットとかいうお高いスタイリストという人にカットしてもらっている。カラーをやめれば、トリートメントをやめれば、友達と外食できたはずだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、俺は妻に二千円を渡した。
「なあ、俺のグッチの名刺入れ知らないか? 取引先の担当者が変わるとかで挨拶に来るんだよ」
「あれ、使ってたの? お金足りなくなったから売ったよ」
「そう……」
俺の中で何かが壊れた。亡き父が、就職祝いにと買ってくれた名刺入れ。その話はかなり昔だが妻にもしたはずだ。これは父親の形見なんだと。
夫婦ってなんだ? 結婚って何だ? 俺は何をしているんだ?
夜中、俺は通勤用の鞄と財布、通帳と替えのスーツ、スマホを持って家を出た。もう限界だった。朝になるとスマホの電源を一度だけ入れ、会社の電話番号をメモするとまた電源を切った。
「もしもし、生きる希望がなくなりました。申し訳ありませんが今日は休みます」
俺は公衆電話から会社に電話をかけた。そして電車に乗った。海の近くの母さんの施設がある駅で降りると、携帯ショップでスマホを解約し、そのままスマホは引き取ってもらった。
小さな役場で離婚届をもらい、自分のところにサインすると、あの部屋の住所を書いた封筒に入れた。
夫婦ってなんなんだ? 俺はどこで間違った?
俺は必死に何を守ろうとしていたんだ?
「母さん、俺は結婚に失敗しました」
言葉にすると涙が出た。
「あら初めまして。あなた暗い顔をしてどうしたの? 失敗なんて誰でもするわよ。あなたは若いんだから次頑張りなさい」
もう母さんは俺のことを息子だと認識できない。いつも「初めまして」と言う。だけど、今日はそれでよかった。
次か。そうだな。次は失敗しないように頑張ろう。でも、もう結婚はしたくない。
世の中の夫婦は、幸せな夫婦だけではない。俺と妻のように夫婦に向かない人もいるんだ。
仕方ない。帰って妻に離婚の話をするか……
「ごめんなさい。勝手に売って。これ、返してもらってきたの」
帰宅すると妻は俺に頭を下げて、震える手で見慣れたグッチの名刺入れを差し出してきた。
「離婚してほしい。経済的にももう無理なんだ」
「わがままばかり言ってごめんなさい。私も働くから。少しだけ猶予をください」
妻はこんな俺とまだ結婚生活を続ける気か? 貧困で何も買えないし、何もいいことなどないのに。
「何でだ? 俺なんかと一緒にいても苦労するだけだろ」
「そんなことない。好きだから一緒にいたい。夫婦だから、どっちか片方だけが頑張るなんて間違ってた。お互い支え合って、これからは生きていきたい」
妻がそんなことを考えていたなんて知らなかった。生きる希望がなくなったと思っていたが、小さな光りが灯った。
「うん。わかった」
次は失敗しないように頑張ると決めていた。次は今から始まる。俺たちは、やっと夫婦としての一歩を踏み出した。
(完)
『どうすればいいの?』
朝の通勤ラッシュ。みんな余裕がないのか、乗る時も降りる時も前の人を押しながら進んでいく。我先にと座席に向かい、取られてしまえば「チッ」なんて舌打ちまで聞こえてくる有様だ。
僕はそんな余裕がない通勤ラッシュが苦手だ。だから僕はいわゆる九時五時と言われる会社員を就職先に選ばなかった。右ならえみたいに、同じようなスーツを着てネクタイを締めて、この息苦しく余裕がないピリピリした空気の電車に毎日乗る勇気はなかった。
僕は繁華街で夜の仕事をしている。といっても体を売ったりはしていない。通勤電車に乗れないほど勇気がない僕が、誰かと肌を重ねるなど到底無理なことだ。僕の仕事はキャバクラのキッチンで、フルーツの盛り合わせやちょっとした料理を作ることだ。
勇気がない僕でもできる料理。キャストの女の子たちは優秀で、僕の仕事が遅くてもちゃんと会話で時間を繋いでくれるから、焦らずゆっくりきっちりと仕事ができるところが気に入っている。
たまに「お客さんがフルーツのカットが綺麗だって褒めてたよ」なんてボーイさんに言われると、本当か嘘かは分からないけど、この仕事でよかったと思うんだ。
店で女の子のバースデーや、周年記念、季節のイベントがある時などは忙しい。そんな時には、僕もキッチンから出て開店前の店内の飾り付けなどを手伝ったりする。
僕は憧れている女の子がいる。とても綺麗で、キャストは綺麗な子が多いんだけど、彼女は綺麗なだけじゃない。凛とした立ち姿が美しかった。きっちりと巻いた髪がいつも完璧で、そしてうなじに残る後れ毛がとてもセクシーだ。
「は?」
目が合った途端に僕はしまったと思った。まさかバレるなんて思っていなかったんだ。彼女は僕を視界に捉えて、そのまま通り過ぎるかと思ったら、一旦通り過ぎた視線を僕に戻して驚いた表情を浮かべた。
僕は慌てて視線を伏せて、逃げようとした。
「ちょっと」
まさか引き止められるなんて……
背中を嫌な汗が伝った。
「お店のキッチンの子だよね?」
やっぱりバレていた。今日の彼女はまだ髪を巻いていないし、ドレスも着ていない。だけどその立ち姿だけは凛としてとても美しい。
「そうです……」
バレてしまったものは仕方ないと口を開いてモゴモゴと答える。
「あんた、なんでキッチンなんかにいるの? 私より全然可愛いじゃん」
「あ……僕、こんな格好していますけど、男なんで……」
彼女の目が再び見開かれた。
僕には勇気がない。満員電車に毎日乗る勇気も、スーツを着てネクタイを締めて毎日通勤する勇気も、人と必要以上に近づく勇気も。
だけど譲れないこともある。僕は可愛くて綺麗なものが好きだ。他人はそれを女装と呼ぶ。でも僕にとってそれは、女の子になりたいからってわけじゃなくて、この格好が好きだからしているのであって、違うんだと言いたい。でも言えないんだ。自分でも上手く説明できない。
「そっちか〜」
彼女の目は嫌な目ではなかったけど、なんとなく気まずくて僕は口を閉ざした。
「いいじゃん。でも生きにくそうだね」
彼女の言葉は僕を否定するものじゃなかった。でもなんとなく下に見られた気がして、途端に気持ち悪くなって口を押さえた。好きな格好をしているだけなのに、生きにくい?
彼女に悪気はないんだろう。
みんなそうだ。気を遣ってくれたり、悪気がない人が大半だ。だけど僕はそれが苦しい。
「ねえ、じゃあ聞くけど僕はどうすればいいの?」
もうほとんど投げやりみたいに、僕の口をついて出た言葉だった。彼女はなんて答えるんだろう?
人はそれほど他人に関心がない。きっと「知らない」とかどうでもいいみたいに適当な答えを出すんだろうと思った。
「あたしの友達ってことで体験入店してみる? 何か変わるかもしれないよ」
想像もしていない言葉が返ってきた。僕は動揺している間に彼女に引き摺られるように店に連れて行かれて、ドレスに着替えさせられて、そして胸にヌーブラってのをつけられ、髪をくるくると彼女の手で巻かれると、あれよあれよという間に店に出ることになった。
「あの子誰?」「新人?」「こっちの席にも回してよ」
楽しかった。元々僕の声は高かったし、体毛も薄くて、男だって誰にも気付かれなかった。普段キッチンで働いていることもバレなかった。
そこで発見したことがある。
「え? 今日はキッチンの子いないの? フルーツ頼みたかったのに〜」
「誰か知らないけど、いつもの子の料理好きなんだよね」
「店長、あのキッチンの子に逃げられるようなことしたんじゃないの? 俺のオアシスなんだからちゃんと捕まえておいてよ」
知らなかった。僕の料理を楽しみにしてくれる人がこんなにいたなんて。
「言ったでしょ? 何か変わるかもしれないって」
彼女は店が終わると僕にそう言った。
「どうすればいいの?」
その問いかけを、僕は誰にもしたことがなかった。いつも、自分で自分に問いかけているだけだった。彼女に聞いてよかった。
たった一言から、僕の生きにくい世界が少し優しいものに変わったんだから。
(完)
『宝物』
「隼人、お前の宝物ってなんだ?」
学校帰り、同じ絵画部の島田に唐突にそう聞かれた。この男はいつも唐突だ。そう親しくもない頃に急に僕のことを隼人と下の名前で呼び始めたのも唐突だったし、この前なんてそんな話はしたこともなかったのに「今日泊まりに行く」なんて言った。
僕が一人暮らしならまだいいんだけど、まだ高校生の僕は実家暮らしだから家族の都合ってものもある。嫌なら断ればよかったんだけど、僕は人の考えを否定したり断ったりすることが苦手で、頼まれるとなんでも引き受けてしまう。
さすがに「殴られてくれ」なんて言われたら断ると思うけど、その場になってみないと分からない。
「なあ、聞いてる?」
僕がなかなか答えないものだから、島田は少し不機嫌な様子でそう言った。
「聞いてるけど、いきなり言われても宝物なんてすぐには思い浮かばない」
僕がそう答えると、島田は「なーんだ」と言って両手を頭の後ろで組んで、興味なさそうにその辺に落ちていた小さな石を蹴った。
島田は僕の宝物になんて、大して興味がなかった。それなのに聞いた理由はなんだろう? もしかして自分の宝物を自慢したかったんだろうか?
「島田くんの宝物は何?」
僕は島田くんの顔色を伺うようにそう問いかけた。この質問、間違っていないよね? そんなの気にすることはないのかもしれないけど、いつも僕は何かを人に問いかけるときに緊張してしまう。質問をするということは、その相手のプライバシーに踏み込むということで、その覚悟があるのかと問われればいつもないんだ。
質問の意図が上手く伝わらないこともあるし、相手にとって不愉快な質問になってしまうこともある。そして、質問をした時の相手の目が怖いんだ。
「お前は俺のプライバシーに踏み込む覚悟があるのか?」
そう毎回問われている気分になる。
「俺の宝物は隼人」
島田が言った言葉が理解できず、僕はポカンと口を開けた。聞こえてはいた。だけど、宝物は何かの回答として、僕の名前を挙げるなんて思っていなかった。誰か有名人のサインだったり、思い出の何かだったり、そんなものを挙げると思っていた。やっぱりこの男はいつも唐突だ。
「隼人は俺の宝物だよ。俺の家、あんなんだろ? 大抵の奴は俺を避ける。だけど隼人はちょっと困った顔をすることはあっても、俺のことも俺の家も否定しないし、こうして一緒に帰ってくれる。だから大切な友達。唯一の友達だから宝物だ」
島田は堂々とそう言った。島田がそんな風に思っていたなんて、僕はちっとも気付かなかった。島田はシングルマザーの家庭で、そんなの今どき珍しくもないんだけど、島田の母親はいつも男を連れている。最初に見た時はスーツを着た真面目そうな人だったけど、次に見た時は金髪を逆立てた金色の鎖のネックレスをしたヤンキーみたいな人だった。その次は太った眼鏡のおじさんだったし、もう色んな相手を見てどれが彼氏なのか分からない。それを快く思わない人は多くて、島田は孤立していた。
島田は僕のことを一緒に帰ってくれるとか、否定しないと言ったけど、僕は断るのが苦手なだけだ。本当はそんなに優しい人間ではない。間違いは正さなければいけないと思ったのに、僕はそれは間違いだと言えなかった。いや、あえて言わなかったのかもしれない。
僕は嬉しかったんだ。
ーー誰かの宝物になれたことが。
だったら、間違いだと思ったことを間違いではなくすればいい。そんな優しい人間になればいい。世の中全員に優しくしなければならないわけじゃない。僕のことを『宝物』だと言ってくれる島田には、そういうことが苦手だから否定したり断ったりしないんじゃない。大切な友達だからしないんだ。
僕は自分が弱い人間だと決めつけていた。でも、島田の言葉で救われた。「断れない人間」から「断らない人間」になった。どうせなら島田にはもう一歩だけ近づいてみようと思った。
「島田、名前で呼んでいい?」
僕は一気に島田のプライバシーに踏み込んだ。
「今更かよ」
「うん、今更だけど、純也って呼びたい」
「いいよ」
友達だと言ってくれたから、勇気が出た。彼のプライバシーに踏み込む勇気。
それは彼の『宝物』という言葉がきっかけで、そして彼は僕の宝物になった。
(完)