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『透明な涙』


「いい子にしてるのよ」
 ママはそう言って、真っ赤な口紅を塗って家を出ていった。

 ママが真っ赤な口紅を塗る日は嫌いだ。いつもと違って機嫌が良くて、いい匂いがする。そして鼻歌を歌いながら、普段は触れてもくれない私の頭を撫でる。
 すごく嬉しくて、ママに抱きつきたい気持ちになるんだけど、それは許してくれない。
 そしてママは綺麗な服を着て出かけていって、何日も帰ってこなくなる。

 とても心地のいい温かいママの手が、「さよなら」と言っているように思えた。

「かえってくるよね?」
 そう聞きたいけど聞けなかった。

 冷蔵庫を開けてみる。そこには昨日の夜に食べ残したパスタの残りと、サラダの残りがあったから、私は少しだけ食べた。ママはいつ帰ってくるのか分からない。だから少しずつ食べるようにしている。

 もう何日経ったかな?
 今日もママは帰ってこない。冷蔵庫の中にもう瓶に入った赤くて辛いのと、食べ物じゃない何か分からない瓶しかない。この瓶の中身はママがお風呂上がりに顔に塗っているやつだ。
 パスタもサラダももう無い。味噌ももう全部食べた。マヨネーズももう無い。玉ねぎは苦くて辛かったけど、お腹が空いて耐えられなかったから食べた。茶色の薄い皮は紙みたいで食べられないと思ったから剥いて食べた。
 踏み台に乗って水道から水を出す。コップに入れて飲んで、お腹が空いたのを我慢した。

 ──ママ、早く帰ってきて。

 ママが最後に言った「いいの子にしてるのよ」って言葉は別れの挨拶だったみたい。

 何日かして、力が出なくて踏み台にも上がれなくなった頃、知らない大人が来て、子どもが集まっているところに連れていかれた。そこは暖かくて、明るくて、賑やかだった。
 ご飯ももらえたし、お風呂にも入れてもらった。新しい服も着せてくれて、知らない大人が頭を撫でてくれた。

 でも私は幸せじゃなかった。だってママがいないんだもん。大人は何人もいたけど、みんな優しくて赤い口紅を塗っていない。
 私は、赤い口紅を塗った日だけ優しくて、頭を撫でてくれるママが好き。他の人じゃなくママがいい。
 だって私のママはすごく綺麗で、いい匂いがして、私の前で泣くんだ。透明の涙を流しながら、私に縋り付くんだ。だから私がママを守らなきゃ。

 何日も寝て、毎日ママが迎えに来てくれるのを待った。何日経ったか分からないけど、ある日ちゃんとママは迎えに来てくれた。真っ白でふわふわなコートを着て、真っ赤な口紅を塗っている。またどこかに出かけるの?
 それでもいい。ママは私が守ってあげなきゃいけないんだ。

 ママと一緒に家に帰ると、家には知らない男がいた。でもしばらくすると、男は家から出ていって、帰ってこなくなった。

「なんで? ずっと一緒だって言ったのに」
 ママはまた私に縋って泣いている。透明の涙を流して。

「ママ、わたしがまもってあげる」
 ほら、ママには私が必要でしょ?
 きっとママはまた、しばらくすると真っ赤な口紅を塗って出かけて、何日も帰ってこなくなるんだ。でもこうして私のところに何度でも戻ってくる。

 大好きだよママ。


(完)



1/16/2025, 5:13:38 PM