『部屋の片隅で』
私は弟の耳を両手で塞いで、二人で頭から布団をかぶって震えていた。弟の手も震えて私の背中に回されている。
私だって耳を塞ぎたい。父親が母を罵倒する声なんて聞きたくない。だけど私は目の前の小さな弟を守らなければならない。
ガターン
大きな音が鳴った。たぶんまた父親が母に手をあげたんだろう。そんな音、聞きたくはない。
私の手もまだそんなに大きくはない。母の手より小さい私の手では、母を守ることもできない。弟の耳を必死に塞いでいても、完全にこの音を防ぐことなんてできない。
だけど私は弟の耳を塞いだこの手を放すことはできないんだ。
「ユイちゃん?」
「あ、ごめん何?」
「いや、なんかすごい魘されてたからさ」
目を開けたところにいるのは幼い弟ではない。私はあの頃のような小さく無力な存在ではないし、あんな男の庇護下になくても生きていける。
「うん。ちょっと嫌なこと思い出しただけ」
「大丈夫なの?」
「何が?」
確かに苦しい過去だけど、誰にも踏み込んでほしくはなかった。可哀想だと同情されるのも嫌だったし、大変だったねなんて何様なのか。
だから私は今日も作った笑顔で「過去のことなんで気にしてません」なんて壁を作る。
ただの客がこれ以上入ってくるな。
あの後、母はいなくなった。私たちを置いて一人だけ逃げ出したのか、それとも死んだのか、殺されたのか、まだ幼かった私と弟には、いなくなったことだけしか教えてもらえなかった。
そのまま私と弟は母の妹の家でしばらく過ごし、私が高校を出ると二人で家を借りた。叔母の家族に虐められたとかそんなことはない。たぶんいい人たちだった。
だけど私には家族だと思えなかった。弟は黙って私に従った。五歳下の弟は可愛かった。容姿とかではなく、唯一私の家族で私が守るべき存在として可愛くて仕方がなかった。私が必ず弟を守る。そう決めていた。
高卒で働けるところはあまり給料がよくなくて、探せばもっといい仕事があったのかもしれないけど、私は探し方を知らなかった。
何とかしなければと夜の仕事を始めた。初めはカウンターの中でお酒を作ってお客さんと話をするだけの店だった。
でも弟との時間がなくなって、昼間働けるところを探した。金銭感覚がおかしくなって、昼間の事務作業がとても時間の無駄に思えた私は、思い切って仕事を辞めた。
そして始めたのが昼間の風俗店だ。これなら昼間の仕事と同じような時間で働ける。弟を一人にしなくて済む。それに生活費にも余裕が出て、弟の進学の費用だって貯めることができた。
金銭感覚が狂ったといっても、ブランド品や高級なものを買ったりはしなかった。そんな物より、私にとっては家族が大事。
「姉ちゃん、俺、大学は奨学金で行くから」
「なんで? お金のことは気にすることないよ」
「それってさ、体売った金だろ?」
バレていないと思っていたけど、弟にはバレていた。そして弟は大学進学と同時に私と暮らす部屋を出て行った。
私はあの震える小さな手を守りたかっただけなのに。あの時は、私のこの手で守れる気がしたんだ。
一人になった部屋で、私は膝を抱えた。
「姉ちゃん、今までありがとう」
弟が残した最後の言葉だけは決して忘れない。私のやったことは無駄じゃなかった。
私の思い出に入ってくるな。思い出の中の私は、ちゃんと弟を守れていた。唯一の家族を守れていた。かけがえのない思い出。
それは私の誇り。だから誰にも何も言ってほしくないし、触れてほしくない。一番輝いていた頃の私なんだ。
今日も私は体を差し出して金を稼ぐ。過去の栄光じゃない。今でも私は栄光の下にいる。この体が私の家族を守った。だから私は誇りを持ってこの体で稼ぎ続けるんだ。
(完)
12/7/2024, 12:09:09 PM