『冬の始まり』
──もう無理かもしれない。
そう思うのは何度目だろう?
重い体を引き摺りながら、動かない頭とよれたジャケットを引き摺りながら家路を辿る。今日は終電で帰ることができた。
風呂は、朝でいい。飯は、箱買いしたプロテインバーとこれ一本で1日分の野菜がとれるという野菜ジュースでいい。
口の中がパサつく。ザラザラと砂を噛んだような不快感に、飲み込むのを躊躇したが、ペタンコの腹は空腹を訴えている。ゴクリと無理やり飲み込んで、そして水道の蛇口から直接水道水をガブガブと飲んだ。
鉄臭い。大きな口を開けたから、荒れた唇が切れて血が滲んでいた。
今回は何日会社に泊まったんだっけ?
ジャケットのポケットには丸められたネクタイが入っており、袖を捲り上げたシャツは肘の辺りで皺が寄っている。ボタンを外す手が震える。
──さすがに限界だろ。
体は悲鳴をあげている。その悲鳴に耳を塞いで無理に仕事をしてきた。周りはみんな死んだ目をして働いている。まだ下っ端の俺は自分だけ帰るなんて言えなかった。
先日また一人、人が減った。辞めるという話は聞いていなかった。彼は突然来なくなったんだ。
狡いと思った。俺だって逃げ出したい。周りの死んだ目をした奴らのその目が「お前は逃げるな」と言って俺を鎖で縛りつけている。
下着や靴下はコンビニで買える。今はいい時代だ。夜中でも大抵のものは揃う。
何日も眠っていなかった。一刻も早く眠りたいのに、俺は電気もつけずにテレビだけをつけた。深夜の通販番組が流れている。楽しいと思って見ているわけじゃない。ただ、会社以外の世間と繋がりたかった。
下着姿になって床にペタリと座ると、フローリングの冷たさに身震いした。
掃除を最後にしたのはいつだったか。ざらりとした床に不快感を覚えて、のそのそとベッドに上がる。
薄っぺらい布団にくるまったが、凍えるように寒かった。毛布……
部屋の奥にある収納から埃っぽい毛布を持ってくると、くるまってようやく震えがおさまってきた。
──温かい。
温度なんて感じたのはいつぶりだろう?
ただ垂れ流していたテレビからは、暖房器具が紹介されている。
もしかして、もう冬なのか?
どうりであんな薄い布団では寒いわけだ。フローリングの床が冷たいわけだ。
夏の終わりにも気付かなかった。いつの間に秋は過ぎたんだ?
毛布にくるまったまま、分厚いカーテンを開け、窓を開けてみた。
寒っ……
これは冬だな。慌てて窓を閉めてカーテンもキッチリと隙間なく閉めた。そしてただボーッとテレビを見ていた。内容は入ってこない。ただ光を眺めているだけだ。
ピピピピ
スマホのアラームでふと我にかえる。もう朝か。ペタペタと冷たいフローリングを歩いて風呂に向かう。いつからはもう記憶にないが洗濯もしていなかった。
新しいタオルを出してシャワーを浴びる。
頭をガシガシと洗い、体も洗うと泡を流して風呂を出た。タオルで全身を拭いて、目の前の鏡を見たら幽霊のような自分の姿に、悲鳴をあげそうになった。
ボサボサの髪、落ち窪んだ目とそれを取り囲む酷いクマ、げっそりとこけた頬、顔が丸いことを気にしていた頃の俺はいない。
──俺、何してんだ?
下着を着て、シャツに袖を通そうとしてやめた。野菜ジュースを飲もうとしてやめた。その隣にあった常温のビールの缶をプシュッと開けて、一気に飲み干した。
分かっている。今から仕事に行かなければならない。酒なんか飲んでいけるわけがない。それでも俺は次々と缶を空けた。
あの周りの死んだような目なんてどうでもよかった。スマホの電源を切って、お湯を沸かしてカップ麺に注ぐ。
体にいいもの、栄養価が高いもの、健康も仕事のうち、そんなこともどうでもよかった。
ラーメンをすすってスープまで飲み干すと、ベッドに入って目を閉じた。
冬はいい。澄んだ空気が俺の頭もクリアにしてくれる。よし、逃げよう。
その前に、おやすみなさい。
(完)
11/30/2024, 12:30:34 AM