カーテン
ラインで済むものを、彼女はわざわざインターホンを鳴らした。午前10時、アパートの前で落ち合う。
アイラインの整った笑顔が出迎える。新しい夏服にお気に入りのバッグ。今日を楽しみにしていたのがひしひしと伝わってくる。
一見してスタイルもファッションもいい彼女だが、僕には困っている点がある。それは彼女の独占欲が尋常でないこと、そして観察眼が並外れていることだった。
道を歩き出すと、早速、彼女が本領を発揮した。
「ところでさ、寝起きだよね。疲れてるの? それとも、今日のデートは乗り気じゃないの?」
「え、いや、気のせいじゃない?」
「ううん。だって、カーテンが閉まってたもん」
ドキリとした。僕を待つ間にベランダを見たのか。
「悪い、寝起き。時間なくてカーテン開けるの忘れた」
「そう、なんだ」
彼女の目が暗くなる。
「昨日、誰と飲みに行ったの? 何時まで?」
「ど、どうしてそうなる?」
「カーテン、ちゃんと開いてたよ」
「え」
ようやく鎌をかけられたことに気づく。
「今朝開け忘れたのに、カーテンは開いてた。つまり、昨日カーテンを閉めずに寝たんだ。それぐらい泥酔してたか、電気も点けずにすぐに寝た。ううん。シャワーは浴びたみたいだから、やっぱり酔ってたんだ」
事実、サークルの同期と遅くまで飲んでいた。だが正直に伝えると機嫌を損ねるのは目に見えている。少数だが女性も参加していたし、デートの前日に夜更かししたのは僕の落ち度だ。
どうしたものか、と僕は必死に頭を捻った。
「実は昨日、寝落ちしたんだ。明日どこの店行こうかスマホで探してたら、いつの間にか日が暮れて、カーテンもアラームもセットしないで寝ちゃってた。でもいい店見つけたからさ、許してよ」
「……そっか。それなら矛盾しないね。疑ってごめん」
にこりと言う彼女に、僕は早速疲れていた。
涙の理由
年末の日曜日。自宅で一人、テレビに張り付いていた。画面の向こうでは二人組がマイクの前で喋っている。時折、観客から笑い声が溢れる。
今頃、あいつらも集まってるのかな。
一緒にエムワンを観ようぜと誘われたのが数日前の話。酒を飲みながらワイワイやるから来いと言われた。楽しいのは間違いないイベントだったけれど、僕は断った。予定があるからとありきたりな嘘をついた。
いよいよ決勝が始まった。僕はペットボトルのお茶を片手に楽しんだ。どの組も面白かった。いつ観ても漫才は文学でもあると思う。たった四分で人を笑わせるために言葉を尽くす。詩や短歌に通じるものがある。
優勝者は観ていればわかった。どれだけ他の組が面白くても、その評価は残酷なほどに揺るがなかった。だからせめて全力で楽しんだ。心から面白いと思い、心から笑った。笑えば笑うほど涙が出た。番組が終わった後、顔を洗った。涙は流れても、緊張と期待を押し隠して戦った人たちはしっかりと記憶に残った。
結局、今年も泣いちゃったな。
一人苦笑する。毎年こうだ。笑いながら泣いてしまう。友達の誘いに乗らなかったのは、涙の理由を聞かれたくないからだ。
いいんだ。まだ泣ける。泣けるなら、まだ戦える。
来年の決意を新たに、僕は深く息を吸った。
ココロオドル
「最近じゃあ、心躍ることもねぇよ」
休憩時間、最近あったことについて話していると、先輩は後頭部にごつい両手をやって天井を仰いだ。
「昔はもっとこう、ワクッとしたもんだが」
「先輩は斜に構えすぎなんですよ」
強面で屈強で口数が少ない先輩は、いつも周囲から一定の距離を置かれている。本人は一匹狼の方が楽だと飄々としているが、なんだかんだ僕を相手に愚痴ってくるところを見るに、見た目に反して強がっているのだと思っている。
「最近はSNSでどんどん情報が流れてきて、何もかも知っている気になります。だから、まだ知らないことに対する探究心が薄くなるんですよ、きっと」
「なるほどな。どうりでつまらねぇわけだ」
「でも、先輩だって心躍ることもありますよね」
「だからねぇんだって」
「え、じゃあ今日、飲み行きませんか?」
その瞬間の先輩はちょっと見ものだった。驚いて少し目を開き、頬を緩めかけたと思ったら仏頂面になる。僕の顔を見る余裕がなかったのか、視線を逸らした。
「……ったく、わかってんじゃねぇか」
僕は勝ち誇った顔でにやにやした。それから、同じ楽しみを共有する感覚に嬉しくなる。誰かと踊るのもまたいいものだなと思った。
束の間の休息
タイムマネジメントこそ、地方改革の礎となる。
その力強い言葉に感銘を受けたのは、僕だけではなかった。若者世代を中心に大多数の票を集めた新知事は、満を持して「あと五分だけ」条例の採択に踏み切った。これで束の間の休息が確約されたのだ。僕は歓喜の涙を流した。その感動を同期たちと共有することも忘れなかった。
「あと五分だけ」条例は、朝の7:00から五分間、時計が進まない無の時間が与えられるというもの。その代わり、深夜23:55からの五分間が無くなる。無の時間は何をしてもいいが、休息が優先される。
当然、僕はその五分間を二度寝にあてることにした。それはあまりにも豊かな五分間だった。本来、存在しないはずの時間なのだ。忙しい朝とはいえ、目を閉じるのに罪悪感を覚えることもない。たかが五分、されど五分だ。噛み締めるように味わうことで幸福感は倍増。日中のパフォーマンスが向上したのは言うまでもない。僕は仕事にも精を出し、メキメキと成果を上げた。
「時計とか面倒臭くない?」
飲みの場で、他県の友人が言った。
「それは大丈夫。システムが調整してて、朝7時以降は他県と合うようになってる」
どうだ、羨ましいだろ、と満面の笑みで言うと、友人は大きく息をついた。
「そういうの、なんて言うか知ってる?」
「え、なになに?」
「朝三暮四」
「……」
どういうわけか、僕は急に疲れてきた。
力を込めて
「本って熟成期間があんねん」
旦那が某アンミカさんみたいな口調で言った。
「次読みたい本は本棚に植えつける。そうすると、やがて今読みたい本へと熟成する。完熟した本は、するりと本棚から手に抜け落ちてくる」
旦那はしなやかな手つきで本棚から小説を取り出した。何十冊とある積読本の一冊だろう。本屋に行っては数冊買い込み、それが読み終わらないうちにまた本屋に出かける。そうやって溜め込んできた本たちが、ずらりと壁際の本棚に収まっている。
「未熟な本たちは本棚に植わったまま抜けない。どれだけ力を込めてもだ。これは本屋に植わってる本と同じ。客が手に取る本というのは、その人にしか抜けない。逆に、買わなかった本は、その人にとって本棚から取り出すことができない」
ほらね、と旦那は別の本の背表紙に手を添えて力を込めたが、本はびくともしなかった。しっかり植えられていて、引っこ抜けないらしい。
「知らなかった」
私は一旦譲ってから、悠々と一ページ目をめくる旦那に尋ねた。
「で、資格勉強は?」
「うん? 今は熟成中」
ほらほら、と本棚の参考書を掴む旦那。私は言った。
「力を込めろ」