過ぎた日を想う
一時停止を無視した車と交錯した瞬間、ここまでかと悟った。宙を舞うバイクと僕の体。時が止まったような意識の世界で、過ぎた日の記憶が蘇る。
最初に見えたのは、親から譲り受けた重たいパソコンを触る僕。真っ赤になったり真剣な表情になったりして、慣れない指遣いで小説を書いている。思ったままに世界を創り上げていた自分が少し羨ましい。決して読み返してはならない禁断の時期だ。
次に見えたのは高校生の僕。文章の練習がてら、毎日日記を書いた。初めこそ評論文のような鹿爪らしい文を書いていたが、まもなく恋心に乗っ取られる。婉曲表現すら思いつかないほど真っ直ぐな思いを書き綴っている。書くよりも声に出して伝えた方がいいと思う。三年間の日記は実家の本棚の奥深くに封印されている。
最後に見えたのは、いつかわからないがパソコンに向かっている僕だ。上手い文章とは何か、面白い文章とは何かを見失い、書くことを躊躇っている。それでも、本心から創作の奥深さを楽しめている。大丈夫。楽しんで書き続けることが上達への近道だ。
頑張れよと思った僕は、ああ、もう書けないのかと思った。残念ながら体の感覚がない。救急車のサイレンが聞こえる。
こっちだよ、とどこからか声がする。
「楽になる? それとも、苦しくても此岸へ戻る?」
彼岸はすぐそこだった。振り返ると、遠く流れの向こうに此岸があった。
泳いで戻るには大変だ。体にのしかかる重圧に、もういいかと思った矢先、此岸のそばに、闇の原稿と日記が置いてあるのが見えた。
「あ、戻ります」
爆速で泳いで戻ると、白い天井が見えた。
星座
この町の星空を見ていると落ち着く。急ぎもせず、慌てもせず、ただ静かにまたたくのが自らの使命だと心得ている。私たちにどう見られるかなんて、考えることもないのだ。
明日は私たち吹奏楽部の最後のコンサート。今年は地方のテレビ局が取材についていて、引退の瞬間に流す涙は「感動」として報道される予定だ。
「きれいだね」
隣で呟く声に、何が、とそっけなく訊いてしまう。
「星座。俺は北斗七星が好き。おおぐま座の一部」
「星座なんてこじつけだと思うけど。一つ一つの星のこともろくに知らないのに」
人間が一つ一つの星を知る術はない。調べている時間もない。だから強引に星座でくくって、綺麗だとか言って、わかった気になる。
「テレビ局のやり方が気に入らないのは俺もよくわかる。紆余曲折あったけどやり遂げた、って形で報道されたくないのは俺も同じ。実際のところ、頑張っていたのは君みたいな一部の人間だけだからね。いい演奏だった、なんて言われたくないんだろ?」
私は沈黙で答えた。
隣の友人は言葉を探すように、また空を見上げて、
「たしかに星のことは知らないけど、同じ星座の星どうしなら、お互いの内情を知っているかもしれない。人間だって、月や太陽のことはそれなりに知ってる」
視線を下ろすと、夜空のように静かな瞳があった。
「俺は近くで見てたから」
私は変なプライドを持っていたのだろうか。この空に比べたら、取るに足らない程度のプライド。
「うん。ありがと」
綺麗な瞳が微笑む。
近くにあるほど引力が働くというのは、しごくもっともな摂理だなと思った。
巡り会えたら
恋人に手酷くフラれた私は長い間凹んでいた。向こうが一方に悪いのが明らかな分、やるせなさがこたえた。波を立てずに別れた自分を立派に思い、同時に後悔することの繰り返し。なぜあんな人を好きになったのかと思うと、自分が情けなくて仕方がなかった。
そんな私を見かねたのか、友人が巡り逢い神社に行かないかと提案した。
「巡り逢い神社?」
「あたしの地元にあるの。新しい出会いにどうかな」
聞けば霊験あらたかな神社で、参拝者が互いに会いたいと願った場合、神様が巡り会わせてくれるらしい。
「つまり、私が会いたいと願った人が、過去にその神社で私に会いたいと願っていたら、会えるの?」
「そう。神様が会うべきと判断したら、その場で呼び寄せてくれるの。口寄せの術、知ってる?」
ホントに空間転移するんだよ、と友人が真剣な顔で言うので、その真偽はともかく遊びに行くことにした。
神社は緑に囲まれた山の麓にひっそりと立っていた。参拝客はまばらだが、時折、号泣した様子の人が見える。本殿の向こうへ行くと、喜びに満ちた表情の親子とすれ違った。どうやら、マジの神社らしい。
会いたい人、か。中学や高校の知り合いはどうかと言われたが、本気で考えていたわけではなかった。
順番が来た。
素直に思い浮かんだ名前を神様に願った。
(面会時間はどのくらいがよいかな?)
「10秒で!」
謎の声に答えて目を開けると、例の元彼が驚いた様子で立っていた。が、すぐに状況を理解して、
「俺が悪かった! だから、またやり直し__」
ドゴッと音がして、私の拳に衝撃が走る。
情けない悲鳴とともに吹っ飛んだ男は、ちょうど10秒後に消えた。
すっきりした私は、深々とお辞儀をして帰った。
奇跡をもう一度
「お願いします。あの奇跡をもう一度」
「だーめ。奇跡は二度と起こりません」
「な、なんでぇ?」
「奇跡ってものすごく起こりにくいことでしょ。確率にしたら0.0001とかそんなの。じゃあ、奇跡が二回起こったら何?」
「それも奇跡」
「だよね。ってことは、もし奇跡が二回起こるとすると、奇跡×奇跡=奇跡。これを満たすのは、奇跡=0か1。つまり、奇跡は絶対に起こらない出来事か、必ず起きる出来事ってことになる。それっておかしいよね。ということは、もし奇跡が二回起こるとすると、って仮定が間違ってる。奇跡ってのはね、二度と起こらないから奇跡なの」
「つ、つまり……」
「二度と宿題は見せないってこと。自分の過ちは自分で解決しなさい」
私がきっぱり言うと、友人は肩を落として教室の机に向き直る。が、到底間に合わないと悟ったのか、精神統一に入った。前回は親が風邪をひいたというから仕方なく見せたのだが、今回みたいな単なるサボりはダメだ。そんなことで頼られたくない。
チャイムが鳴って授業が始まる。そういえば、先週は奇跡的にも宿題チェックがなかったんだよな、と思う。運が良ければ、今日も免れる可能性はある。
「宿題ノート集めろー」
あの子がビクリと肩を震わせ、絶望の表情で私を振り返ったので、そっと敬礼して煽っておいた。
たそがれ
今日飲みに行かないか、という声が広がり始めたのを察知して早々に職場を出る。自分もお呼ばれするかは甚だ疑問だが、建前が得意な会社だ。一声かけるくらいはするかもしれない。断ればマイナスポイント。聞かれなければプラスマイナスゼロ。僕は数学が得意だ。
10月の空は高くて薄い。すぐに色移りして闇に染まる。日光性変形症の僕には油断ならない季節だ。黄昏時は近い。
家に帰る余裕がないので、冬の砦である河川敷に向かう。到着を待っていたかのように日が沈み始める。何度見ても、夕日は日中より大きいと思う。錯覚だと主張する科学者は観察することからやり直した方がいい。
川を覗き込むと、揺れる水面の向こうで僕の顔が少しずつ崩れていた。体から力が抜けていくような感覚が伴う。日が沈む速度で僕の顔かたちが変形していく。
真っ暗になった河川敷で、僕は大きく伸びをした。ずり落ちそうなズボンを押さえて、ベルトを締め直す。袖が長いから捲っておく。シャツは少し大きいけれど、ご愛嬌ということで。スマホに映した僕の顔はすっかり幼い。我ながら、こんなにスーツが似合わない男も珍しい。居酒屋なんか入れるもんか。
朝日の呪いを夕日が解く。そんな体質だか病だかが増えているらしい。巷では配慮だの何だの言われているが、僕としては放っておいてほしい。この体はそんなに不便じゃない。
足取り軽く河川敷を出る。帰ったらシリーズものの続きを読むんだ。