つぶて

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5/11/2024, 7:05:31 PM

愛を叫ぶ。

いくよー、と遠くで君がボールを掲げる。
グラブを上げて答えると、君はいかにもといった動作で大きく振りかぶり、投球する。緩やかに弧を描いたボールは、パスっと音を立てて俺の左手に収まった。懐かしい感覚だ。右手に持ち替える。
ばっちこい、と君は声高らかに構える。その左肩やや上方に柔らかく返球する。仮に取り損なったとしても体に当たらないよう配慮したのだが、君は危なげなくキャッチし、もっと速くとせがんでくる。
キャッチボールの相手をしながら、真剣にボールを投げる君の実力を無意識に測っていた。
ボールを握ると、無性に全力投球してみたくなる。ブンッと真っ直ぐに飛んだボールが、パシンッと乾いた音を立てて相手のグラブに収まる、あの瞬間を味わいたい。
だが大人になった今は難しい。
君はキャッチできないかもしれない。速球が君を痛め、心まで傷つけるかもしれない。たとえ体に当たらないよう投げても、不慣れな君を傷つけない確信はない。
愛を叫ぶという行為は、たぶん全力投球に似ている。
練習がいる。距離感がいる。信頼がいる。いろんな条件をクリアして初めて受け止めてくれる人ができる。
のんびりとしたキャッチボールは思いのほか楽しかった。何より君が上機嫌に投げてくれるのが嬉しい。
今はこのペースでいい。焦ることはない。少しずつ、互いの信頼を育めばいい。
想いを全力投球する日を想像すると、ボールを握る手に力が籠った。大きく外れたボールはしかし、ポン、とグラブに収まった。ナイスキャッチと笑う君に、その日は案外遠くないのかもしれないなと思った。

5/11/2024, 9:33:05 AM

モンシロチョウ

モンシロチョウが一匹、ひらひらと飛んでいた。おぼつかない軌道を描いて、鉢植えに舞い降りる。疲れているのだろうか。ゆっくりと細い脚を動かしている。
こんなところまで、ご苦労なこった。
アパートの五階。地上から飛んできたのだとすれば、かなりの高さだ。何に釣られてきたのかはわからないが、種族の中でははぐれ者だろう。メスかオスかはわからないが、つがいがいる場所ではない。
地上へ帰りな、と心の中で諭す。だが、あろうことか、その蝶はまた上の階へと彷徨っていく。
空へ上りたいのか。
幼虫の頃、空を知りたいと願ったのだろうか。地上から離れ、生物としての使命すら置き去りにして、高みを目指すことを決めたのか。
頑張れよ。
階上へと消える白い蝶を見送る。
俺だって負けてられないな。
机に向かい、今日も創作の世界へと舞い上がる。

5/9/2024, 9:57:20 AM

初恋の日

その名前を素直に呼べなくなった日。


一年後

春を彩る無数の花びらを、一人見上げた。
ふわふわと小さく揺れる桜。なぜか母性を感じた。
変わってもいい。変わらなくてもいい。そう言っているような気がした。ぼんやり佇んでいる私を、桜は許した。理由を尋ねることもせず、ただ柔らかな腕を広げていた。そっと花びらに手を伸ばすと、小さい頃、母親の膝に頭を置き、その頬に手を伸ばした光景が蘇った。
職場でつまずいた。人間関係で、思いっきり。どうやったって元の環境には戻れない。辞める覚悟もなく、かといって続ける気力も持てないまま、今日に縋りついている。
一年を思うのは、決まって桜を見る時だった。生まれ月だからだろうか。桜の木にはいつも私の過去があった。
去年の私は、何を思っていたのだろう。新しい配属先。新入りとして、期待に胸を膨らませていたはず。それが今となってはどうだ。こんな自分をかけらも想像しなかっただろう。
私は、どうすればいいの。
桜の木は答えることなく、ただそこにある。変わらない私と、変わりゆく私を見ていてくれている。そして一年後、また立ち止まる時間をくれるのだろう。
一年後の自分は何を思うだろうか。
わからないけれど、こうして桜を見上げているに違いない。

5/7/2024, 9:36:26 AM

明日世界が終わるなら

先か、後か。
最後の選択は、ほんの小さなことだった。
進学、入試、就職、結婚、転居…。これまでの選択と比べたら、その先に待つ結果は数分の違いでしかない。
深海のように静まり返った寝室。琥珀色の液体を眺めていた。これから私を殺す毒薬は、月の光を湛えていて美しかった。
あなたの匂いを抱いて、私は眠りにつく。
左腕に小さな痛み。冷たい何かが体に染みていく。
同じ音がもう一つ。あなたが隣にやってくる。
そっと目を開けると、陽だまりのようなまなざしがあった。柔らかに微笑むあなた。安らぎが心を満たし、私は目を閉じる。
私は先がよかった。あなたは後が良かった。それだけのこと。言葉にしなくても、こうなることはわかった。
君は寂しがりだからね、と笑ったあなたを思い出していた。記憶の中のあなたは、いつも光に照らされていて温かかった。今も、昔も。これからもきっとそうなのだろう。
眠りに落ちていく。もう何も思い出す必要はなかった。この温もりのほかには何もいらないのだから。

5/6/2024, 9:30:08 AM

君と出逢って

免許証なんて、高価な身分証だと思っていた。
大学の頃、時間があるうちに取れと言われて取った。数十万円の受講料を払い、どこかの田舎でつまらない数週間を過ごした。そうして手に入れたのは一枚のカードだけ。確かに便利ではあった。身分証と言われれば提示し、サークル仲間と足を伸ばす時にはハンドルを握れた。それでも使うのは月に一、二回。いっそのこと、ゲーミングPCでも買った方が有意義だったかもしれないと、預金残高を眺めては考えたものだ。
運転も大して好きではなかった。車はあくまで移動手段で、道中はほとんど退屈だ。特に高速道路は嫌いだった。単調で終わりの見えない道。友人がいなければ進んで乗らなかっただろう。
緑色の標識を確認して小さくハンドルを切る。この辺りの地名ももう読める。カーナビは静かで、お気に入りの音楽に時折鼻歌が混じる。助手席に座る人は、まだいない。
もうすぐだ。
午前の澄み渡った空に顔が綻ぶ。温かい高揚感が胸に溢れている。いつもごめんねと君は言うけれど、俺はこの時間が好きだった。ただ車を走らせるだけの時間。君がくれた、君の知らない時間がここにある。

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