手のひらの贈り物
見事な駒捌きだった。
「……負けました」
頭を下げると、対局相手の男の子は肩の力を抜いた。そわそわと複雑な表情を浮かべる。
「桂馬跳ねた手がすごかったねぇ」
ぱっと彼の目が輝く。
「じ、自分でも、上手く指せた気がして…まして…」
「ほんとに! 振り飛車党って感じの捌きだった」
「その…えっと…」
しどろもどろの男の子は話すのが苦手らしかった。けれど、もっと話したいのだという気持ちは言葉にしなくてもわかった。
ゆっくりとした感想戦が始まった。勝負だけではなく、振り飛車が好きなこと、受験が近いこと、今日を最後にしばらく道場には来ないことなどを聞いた。
「まもなく営業終了となります」
帰り際、男の子がやってきてそれを差し出した。小さな駒のキーホルダーだった。
その意味に気づいたのは家に着いたころだった。
「また一緒に将棋できるかな」
手のひらの贈り物を眺めながら思う。名前すら知らない男の子。だけど、いつかまた会える気がした。
だってあんなに楽しい勝負ができたんだから。
※半分くらい実話です笑 元気にしてるかなぁ。
心の片隅で
あいつの晴れ姿は輝いていた。
とことん盛り上げてやるぞとさんざん息巻いていた俺たちも、いざ新郎新婦を前にするとただただ嬉しくなってしまって、やけに神妙に背筋を伸ばして拍手を送る。近いようで遠い場所。壇上で誓いを立てるあいつは、また一歩先へと進んでしまった。
「おめでとう」
心から言った。あいつはありがとうと答えてはにかむ。その表情があまりにも新鮮で虚をつかれる。10年来の付き合いでも見たことがない表情。あいつもあんな顔するのかという月並みな感想が浮かび、心の片隅へと流れ込んでいく。その先には何かがいて、もぞもぞと心を食べている。めでたいが好物のそれは、ゆっくりと、けれど確実に成長を続けている。
「あいつは親友……その、昔からの友人でして」
こちらの話をしているのが聞こえる。
俺は気づかないふりをして、そっとグラスに手を伸ばした。
雪の静寂
音のない傘はどこか頼りない。
雨とは違い雪は降り積もる。ただ傘をさしているだけではダメなのだ。歩かなければ。自分の脚で歩かなければ、いつか埋もれてしまう。押しつぶされてしまう。そんな息を詰めるような圧迫感。だから僕はささやかな抵抗として雪を踏みつけて歩いてきた。
「この世界に2人っきりみたいだね」
同じ傘の下で君が呟く。静かに雪が降り続いている。二筋の白い息が、雪の合間を縫って虚空にほどけていく。
「風邪ひくから帰るぞ」
「ちょっと待ってよ! もう、風情がないんだから」
慌てて君が戻ってくる。ぶつくさ文句を言いながらも、少しでも新雪を踏むまいと頑張っている。
「って、聞いてる?」
「うるさいほど聞こえてます」
がみがみと噛み付く声を聞き流し、そっと柄を握り直す。
今はただ、音のない傘が心地いい。
君が見た夢
君が見た夢は有罪だった。
「被告人は夢の中で一方的にキスをした。よって有罪である」
「ちょっと待ってください」
君は必死に弁明する。
「夢に見たからって誰が困るんですか」
「困るものは困るんだ。なにより彼女を照れさせた」
裁判長がわたしに目を向けた。思わずむっとする。
「照れてません」
「いいや照れた。私を差し置いて……言語道断である」
「照れてないってば!」
わたしはムキになった。
「そういう裁判長はどうなんですか。わたしのことを夢に見ないと?」
「見るものか」
「あそう」
わたしは冷ややかに言った。
「その程度の恋なんだ」
「……撤回する。私は毎日のように夢に見ている」
裁判長は現行犯でタイホされていった。
2人で裁判所を出て、勝訴の文字を掲げる。
君の横顔が嬉しくて、わたしはその頬にキスをした。
紅茶の香り
別に、見栄を張ってたわけじゃないし。
もう何度も自分に言い聞かせた言葉を呟く。自分が不出来なのはよくわかっている。期待していたのは周りの方。そのせいで、今度こそ自分にも出来そうな気がしてしまった。
コップの中でじわじわと広がっていく紅茶の色を見つめていた。チームに配属されて2年目。必死にかき集めた私の能力は、時とともに溶け出していった。残ったのは大した味もしない私。見切りをつけて捨てられるのも時間の問題かもしれない。
液滴を零さないようティーバッグを捨てる。ため息を吐きそうになった時、紅茶の香りが私を包み込んでいることに気付いた。懐かしい香り。受験勉強に励んでいた頃、よく母親が紅茶を淹れてくれた。あんまり無理せずにねと言って、音を立てないように部屋の扉を閉めた。
大丈夫。無理はしてないから。
あの頃のいつもの返事が蘇り、なんとなく勇気をもらった気がした。一口飲んでみると、安物の紅茶は思いのほか美味しかった。
この香りがなくなるまで、ゆっくりしていこう。