初恋の日
その名前を素直に呼べなくなった日。
一年後
春を彩る無数の花びらを、一人見上げた。
ふわふわと小さく揺れる桜。なぜか母性を感じた。
変わってもいい。変わらなくてもいい。そう言っているような気がした。ぼんやり佇んでいる私を、桜は許した。理由を尋ねることもせず、ただ柔らかな腕を広げていた。そっと花びらに手を伸ばすと、小さい頃、母親の膝に頭を置き、その頬に手を伸ばした光景が蘇った。
職場でつまずいた。人間関係で、思いっきり。どうやったって元の環境には戻れない。辞める覚悟もなく、かといって続ける気力も持てないまま、今日に縋りついている。
一年を思うのは、決まって桜を見る時だった。生まれ月だからだろうか。桜の木にはいつも私の過去があった。
去年の私は、何を思っていたのだろう。新しい配属先。新入りとして、期待に胸を膨らませていたはず。それが今となってはどうだ。こんな自分をかけらも想像しなかっただろう。
私は、どうすればいいの。
桜の木は答えることなく、ただそこにある。変わらない私と、変わりゆく私を見ていてくれている。そして一年後、また立ち止まる時間をくれるのだろう。
一年後の自分は何を思うだろうか。
わからないけれど、こうして桜を見上げているに違いない。
明日世界が終わるなら
先か、後か。
最後の選択は、ほんの小さなことだった。
進学、入試、就職、結婚、転居…。これまでの選択と比べたら、その先に待つ結果は数分の違いでしかない。
深海のように静まり返った寝室。琥珀色の液体を眺めていた。これから私を殺す毒薬は、月の光を湛えていて美しかった。
あなたの匂いを抱いて、私は眠りにつく。
左腕に小さな痛み。冷たい何かが体に染みていく。
同じ音がもう一つ。あなたが隣にやってくる。
そっと目を開けると、陽だまりのようなまなざしがあった。柔らかに微笑むあなた。安らぎが心を満たし、私は目を閉じる。
私は先がよかった。あなたは後が良かった。それだけのこと。言葉にしなくても、こうなることはわかった。
君は寂しがりだからね、と笑ったあなたを思い出していた。記憶の中のあなたは、いつも光に照らされていて温かかった。今も、昔も。これからもきっとそうなのだろう。
眠りに落ちていく。もう何も思い出す必要はなかった。この温もりのほかには何もいらないのだから。
君と出逢って
免許証なんて、高価な身分証だと思っていた。
大学の頃、時間があるうちに取れと言われて取った。数十万円の受講料を払い、どこかの田舎でつまらない数週間を過ごした。そうして手に入れたのは一枚のカードだけ。確かに便利ではあった。身分証と言われれば提示し、サークル仲間と足を伸ばす時にはハンドルを握れた。それでも使うのは月に一、二回。いっそのこと、ゲーミングPCでも買った方が有意義だったかもしれないと、預金残高を眺めては考えたものだ。
運転も大して好きではなかった。車はあくまで移動手段で、道中はほとんど退屈だ。特に高速道路は嫌いだった。単調で終わりの見えない道。友人がいなければ進んで乗らなかっただろう。
緑色の標識を確認して小さくハンドルを切る。この辺りの地名ももう読める。カーナビは静かで、お気に入りの音楽に時折鼻歌が混じる。助手席に座る人は、まだいない。
もうすぐだ。
午前の澄み渡った空に顔が綻ぶ。温かい高揚感が胸に溢れている。いつもごめんねと君は言うけれど、俺はこの時間が好きだった。ただ車を走らせるだけの時間。君がくれた、君の知らない時間がここにある。
耳を澄ますと
乾いた喉を潤して、ごそごそと寝床に潜り込んだ。
少し目が覚めたか。
腕を伸ばして時計を手に取る。まだ五時過ぎだ。起きるには早いが眠る必要もない。今日は日曜日で、予定も特にない。
真新しい木目調の天井をじっと見つめていた。柄が見分けられるということは、もう夜が明け始めているのだろう。
胸に手を当てる。不思議と心穏やかだった。
少し前まで、こうして眺める天井は白くて近かった。すぐそばに窓があって、徐々に明るくなる窓が怖くて仕方がなかった。上手くいかないことばかりの日々。焦り、悩み、自分を責め、眠れないまま迎える朝日は刺すような眩しさで、私の心をボロボロにした。
私は、変わったのだろうか。
耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえた。
寝返りを打つと、私にとって特別な人が目を閉じていた。その口元を見つめ、お前はお前のままでいいと言ってくれた声を思い出す。嬉しくなって、悪戯気分で唇を合わせる。反応がないのが、かえって気恥ずかしかった。
恋人の左腕を抱いて目を閉じる。今朝はもう眠れない気がしたけれど、それでもいいと思った。
二人だけの秘密
卒業証書を手に訪ねた部室は静かで、どこか殺風景に感じた。くだらないことで笑い合っていたこの場所は、今日から過去のものになる。なぜか距離感を覚えて壁に手を触れると、そこに染み込んだ景色のいくつもが思い浮かんでくる気がした。
「まったく、ガラクタばっかりね」
部室の奥から前部長が呆れた様子で言った。
「ほとんどは男子でしょ? 持ち込んだものはちゃんと持ち帰るように。寄付はなしってルールだからね」
いつもは騒がしい同期たちも、今日に限ってはしおらしい。なんだかんだ言いながらも、大人しく部室を片づける。そんな中、何人かが部室の机を見ていた。
「どした?」
「いや、新しそうな落書き。451ってなんだろうってさ」
視線の先には何かで削ったような痕があった。確かに451と読める。
「さあな。たしか、紙が燃える温度だったか」
きょとんとしている面子をおいて、俺はその場を離れる。視線を感じて目を向けると、前部長と目が合った。そっと視線を逸らす。互いに頬が緩むのを堪えているとわかった。
何してるの、と聞いたあいつの声が蘇る。451の傷を彫っていた時の視界と、肩に寄りかかるあいつの体温。二人の選手番号、41と11の積を刻んだあの日、子どもっぽいねと笑ったあいつの本心を知った。
部室の外、後輩たちの姿が見えた。それから、あの傷が繰り返し誰かの話題になることを思った。
「先輩! 思ったより嬉しそうですね」
「うるせーよ。そんなことより写真撮るぞ」
柄にもなくはしゃぎながら、今日という日がまだ残っていることが素直に嬉しかった。