つぶて

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5/2/2024, 5:50:54 PM

優しくしないで

最初に思い浮かんだのは、一人前の膳だった。
一汁三菜の並んだ鮮やかな膳。仄かな食と畳の香りが入り混じり、安寧という静かな時に身を置く。厳重に警護された居城。足元に立ち並ぶ家々を思い、その食卓の様とを比べない日はなかった。
俺は、恵みなど要らない。
幼い頃から幾度となく考えた。柔らかな衣、恵まれた食、安全な寝床。何もかもを与えられてきた俺は、その一切を切り捨てたいと願った。だがそれは決して許されなかった。
俺は領主の息子として、この国を継ぐために生まれた。民衆が、家臣が、俺を崇敬し、俺を守ってきたのは、俺に未来を懸けていたからだ。その恵みを拒絶することは、己の存在全てを否定することだ。だから俺は享受した。領主としての責務を果たすことと引き換えに、俺は恵みの全てを受け取ってきた。
目を開ける。見慣れた天守閣が俺の決意を待っていた。
「あとは頼んだぞ」
「なりません! 我々は大国相手に十分な戦果を__」
「だからこそだ。お前らの力は知れた。従えば殺されはしない」
「し、しかし!」
「もういい。これが時の流れというものだ」
悔恨に染まった家臣たちを見ると、一層心は鎮まった。
「俺に情けは要らない。大事なのは民の命だ。一人でも多く、なんとしてでも生き延びろ」
刀を構え、己の腹を貫いた。
薄れる意識の中、体から何かが溢れていくのを感じた。民から授かった祈りに違いないと思った。
それはとても温かかった。

5/1/2024, 6:20:15 PM

カラフル

「私はどうしても行きたいの」
半ば怒り口調で主張され、俺は早々に折れた。口喧嘩は嫌いだった。疲れるだけで何も得られない。だいたい、口から生まれたような彼女に俺は勝てない。
投げやりな気持ちで『美術展』の建物へ入る。想像より高い入場料に一瞬足が止まったが、すでに彼女は先導切って角を曲がっていた。
内心で息をついて後を追う。じっと絵に見入る彼女の澄んだ瞳を見ると、つくづく合わないなと思った。
趣味も、性格も、まるで合わない。遊び先も違えば、感性も違う。違うどころか対照的だと思う。感情的で芸術肌で繊細な彼女と、慎重派で合理主義でずぼらな俺。正反対の俺たちは、はたして釣り合っているのだろうか。
「次こっちだって」
小声で彼女が袖を引く。俺はよそ見をしていたらしい。
「あとで気に入った作品教えてね」
耳打ちされ、仕方なく意識を戻す。
色を題材にした現代的な作品が並んでいた。グラデーションが美しいもの、淡白な色使いのもの、カラフルなもの。確かに、どれも見事な作品ばかりだった。
そのなかで、一際目を惹くものがあった。
荒々しい色使いの絵だった。強烈な印象を与えるのに、なぜかバランスの取れた美しさと安心感を感じさせた。
「これ、補色の使い方がいいよね」
「補色か。なるほど」
「真反対の色どうし、やっぱりパワー出るよね」
隣に並んだ彼女は、私も好き、と楽しそうに付け足した。

4/30/2024, 6:33:53 PM

楽園

二十年に及ぶ探究の果て、私はついに楽園を見つけた。
それは我が家に存在した。場所は玄関から南へ3m、西へ50cmの地点、柔らかな二枚の物体、俗にお布団と呼ばれるものの狭間に、それはあった。だが、楽園は常にそこにあるわけではなかった。発見が遅れたのはこのためだ。楽園に身を委ねるためにはいくつもの所作法が必要だったのだ。
まずは食事である。来たる寝落ちという礼式を乗り越えるために行う。献立はなんでもよいが、幸福度を高めるためハンバーグかオムライスが望ましい。次に入浴である。耳の裏までしっかり洗わなければならない。続いて歯磨きだ。フロスを全ての歯間に通さなくては歯磨きといえない。
これらを踏まえ、ようやく寝室への立ち入りが許される。予め、布団の四隅が整っていることを確認し、お供えものとなる一冊の本とコップ一杯の水を枕元に置く。
そして身を投じる。楽園モード!と高らかに詠唱した後、滑り込むように侵入する。侵入は競泳選手またはウルトラマンを理想とする。腕と脚を直線上になるように意識し、布団の根本から一呼吸のうちに潜り込む。
最後に読書を始める。この時、スマホの目覚ましをセットしてはいけない。ここが肝心であり、最も重要なポイントとなる。楽園に時は必要ないのだ。時間という呪われた固定観念から解放されることで、楽園は完全となるのだ。
さて、ここまで書いて実際にやってみたのだが、布団に頭隠して尻隠さず状態になりとても恥ずかしかった。

4/29/2024, 6:03:15 PM

風に乗って

春風は時に悩みの種を運んでくるらしい。
柔らかな陽気と土の香りを吸い込むと、鼻先に微かな棘を覚えた。今朝も花粉やら黄砂やらが飛び交っているらしい。外の世界に嫌われている私は仕方なくマスクを戻す。どこからか、同い年のアイドルの歌が聞こえる。
雨露の如し、と書いてジョウロと読むことを知ったのはいつだろう。雲の上の神様になった気分で、花壇に恵みの雨を降らせていた頃の私は、確かにこの庭の一部だった。胸いっぱいに息を吸っていた私。あの頃好きだった花は、もう思い出せない。
如雨露を手に、花壇を見つめていた。遠慮がちに咲いた花が、申し訳なさそうに私を見ていた。今年も生育が悪いのはどうしてだろう。肥えた土、日当たり、適度な水。こんなにも手をかけているのに良くならない。
庭の隅、コンクリートの割れ目に咲いた花が目に留まった。窮屈そうな場所に根を張ったその花は、誰に育てられるわけでもなく、ただ太陽に向かって咲いていた。
何が違うのだろうか。風に乗って生まれ落ちる場所は選べないというのに。それぞれの根の深さを思い、根性という言葉を思い、それから悔しさが込み上げた。
私は、どうすればいいのだろう。
平和な国に生まれ、衣食住に困らず、不自由のない環境で育った私は、今日も花開けずにいる。
そよ風が頬を撫でた。
私は大きなくしゃみをして、家の中へ駆け込んだ。

4/28/2024, 7:41:50 PM

刹那

またいつか。
ほんの少し前の言葉を、唇がたどる。
寂れた夜の家路。いつもより人の気配が多い気がして足早になる。身に余るほどの幸せを抱えた自分が恥ずかしくて、恐れ多くて、見上げた月にさえ恐縮してしまう。駆け出したい。喜びたい。楽しかったと、声に出したい。
早くも思い出となった記憶が込み上げてきて、その一つ一つが温かい泡沫となって胸に沁みていく。
「誘って、よかった」
他人と時間を共有することが苦手だった。相手の時間を奪うこと、その代わりを自分が埋め合わせできているのかという不安。意識しているわけではないけれど、頭のどこかに付き纏う。だから私はいつも誘われる側で、自分から何かを企画したことはなかった。
何度も断ろうとした。中止にしようとした。プレッシャーがあった。自己満足で終わりはしないかと不安で仕方がなかった。だけど、最後に何もないまま、みんなと終わりにはしたくなかった。
ポケットの中、スマホを手に感じる。その先にある繋がりを意識してまた嬉しくなる。そして気付く。好きなのだと。みんなとの繋がりが。さらにいえば、人との繋がりが。一人が好きなはずの自分には意外なことだった。
人が変わるのは、たぶん刹那のことなのだ。そんなふうに思うのは、もっと時間が経ってからのことだ。

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