世界に靄がかかった時、終わりが近づいていることを知った。白の病室。窓辺に座る君の優しい瞳。その手に触れていれば私は幸せだった。苦しみも恐怖も乗り越えられた。一つ心残りがあるとすれば、君より先に行ってしまうことが申し訳なかった。
やがて私の世界は光を失い、音を失い、感触までもが遠のいていく。暗い、暗い、海の底へと沈むんでいくように閉じていく。ゆっくりと、世界が閉じていく。
最期に残ったのは君の微かな体温だった。私と君を繋ぎとめる温かな光。私には解る。君が微笑んでいるのが解る。君が私を愛していて、私が君を愛していることが解る。世界の終わりに君と手を繋いでいることが解る。
ありがとう、愛しの人。一足先に向こうで待っているよ。君はゆっくりとおいで。私はずっと君のそばにいるから。
常に最悪のケースを想定して行動することだ。
著名人の講演が終わると、案の定、隣席のお前はいつになくキリッとした顔をしていた。とにかく感化されやすいコイツは、今必死になって最悪のケースとは何かを考えているに違いなかった。
空が落ちてきたらどうしよう、とかバカなことを言ったらはたいてやろう。そう思いつつ、なあと声を掛けると、お前はハッとして身構えた。
「……どうした?」
「なんか、はたかれる気がした!」
「はたかねぇよ」
「帽子被っとこ」
「何でだよ」
「ふっふっふ。私は常に最悪のケースを想定して行動するのだよ。__あだっ!」
額を抑えるお前にはため息が出る。
駄目だコイツは。危なっかしくて放っておけない。
一体いつまで付き添えばいいのか。詐欺に遭ったりしたら目も当てられない。少しは学習してほしい。
呆れる俺。額をさすって楽しげなお前。
俺はゆっくりと諦めの境地に向かっている。
いいかい? この子は決して誰にも見せてはいけない。これはボクとの約束だからね。
日を追うごとに、記憶に残る声が大きくなる。
なのに僕は今日もこの子を連れてきてしまった。
鞄の中からひょっこりと顔を出す妖獣。黒い角に黒い毛並み。つぶらな瞳に毒を持つ鋭い牙。この世には存在しないはずの怪物。僕が育て上げると決めた子だ。
頭を撫でていると足音がして、慌てて鞄の中に押し込む。
「お前、こんなとこで何やってんだよ」
「一人で飯食ってんの?」
「うわ、さみし〜」
ゲラゲラと耳障りな笑い声がする。込み上げる悔しさに我を忘れそうになって、急いでその場を離れた。
校舎裏、鞄の中を覗く。僕が膝に顔を埋めていると、その子が小さく鳴く。最近は妙に勘が良くなってきて、僕の感情まで汲み取ってくれる。体も成長してきて、大きくなった羽で空を飛ぶ練習をしている。いつかは僕を乗せて大空を翔んでくれるそうだ。だからいいんだ。僕は寂しくなんてない。
でも、一度でいいからあいつらに見せてやりたいな。
どんな顔をするだろう。きっと、僕のすごさに恐れ慄くに違いない。あいつらの自尊心をビリビリに引き裂いてやれたら、どれだけ愉快だろうか。
こめかみが脈打っている。警鐘が鳴っている。
わかってる。僕とこの子が今のままであるためには、
誰にも言ってはいけない。言ってはいけないんだ。
さて、ここに鶏肉がある。いいや、正しくは鶏肉だったものがある。厨房の業火に耐えきれず原子レベルで分解することにより、あらゆる光を吸収せんとばかりに暗黒化した物質である。ひたひたと浸かっているのは、身を挺して守ろうとした水道水と、その甲斐なく零れ落ちた滂沱の涙である。愛用の箸すら捕獲を拒絶するほどグロテスクな外見に唾を飲みこむ。私は泣いて鶏肉を切った。辛うじて残った過食部は、それはそれは炭の味がした。その罪の味に幾筋もの涙が頬を伝ったのは言うまでもない。四畳半の狭い部屋で私は失われた諸々に深く謝罪し、己の無知蒙昧を詫びた。
中火とは、つまみの角度では決まらないのだ。
暮れなずむ夕陽を背に自転車を漕いでいた。
横に並ぶ友達はみんなチラチラと後ろを振り返ってはニヤついている。
「あいつら、遠慮してんな」
「ホントホント」
「なぁ、二人だけにしてやろうぜ。ちょっとコンビニでも行くか」
「それがいいな」
友達はコンビニに寄る旨を伝える。
戸惑いながら顔を見合わせる二人。結局、ついてくることはなかった。
僕は黙ってみんなに従って道を逸れる。ひどく喉が渇いていたから、味のない水を買った。
値上げしたとかしないとかで友達が盛り上がっている。
その輪に加わらないと不自然な気がして、無理に表情を作る。けれど、僕の網膜には話題に花を咲かせる二人の姿が焦げついている。
先日付き合ったことは本人から聞いた。あいつはいいやつで、僕は二人が上手くいけばいいと思っている。思って、いる。今も。たぶん。だって、友達だから。