いつから夕方なのか。そんな疑問が瞬く間に膨らんでいって、帰り道はあっという間に影を伸ばした。
「だからぁ、オレンジっぽくなったら夕方なの。四時とか五時とか、時間じゃなくて」
女子の間で流行しているリュックサックを肩にかけ直しながら、ユズはそう言った。呆れた口調は、明らかに無理解な自分に対するものだった。
「大体、夏と冬でも時間によって違うんだから、時間で決めたら違くなるに決まってるじゃん」
「でもさ、天気予報では十五時から十八時の間らしいよ」
「そんなの、気象予報士が勝手に言ってるだけじゃん」
彼女だって勝手に言ってるだけなのだけれど、今つつくと破裂しそうなので黙っておく。
「じゃあ、オレンジっぽくなったら夕方なんだとして、雨の日はどうなるの?」
彼女の言い分を全面的に認めてしまえば、雨や曇りの日は夕方が存在しないことになってしまう。
言わんとしていることに気付いたのか、ユズは押し黙ってしまい、気まずさを埋めるために小石を蹴り始めてしまった。別に突き詰めて考えたい訳でもないので、なんとなく分担しながら小石を蹴って運ぶ遊びに興じる。
「やっぱり、時間なのかな」
蹴る足は止めずに、彼女はそう呟いた。
「自分で言っといてなんだけど、夕方って聞くとイメージするのはオレンジの方だよね」
薄くたなびく雲を伝って広がっているオレンジ色の空と、コンパスで作図したかのような輪郭の太陽。
「うん、そのイメージある」
「だね」
小石はユズのミスショットで道路へと飛び出てしまい、小石を追っかけて足元を見ていた視線は自然と上へ向いた。
「ねぇ、今何時?」
空を見上げたまま、ユズはこちらを見ようともしなかった。
「十八時十一分」
ユズはそれ以上何も言わなかったし、こっちも敢えては聞かなかった。彼女はその時、はっきりと夕方を見ていた。
「綺麗だね」
「うん、綺麗」
頷くことすら忘れてしまった彼女の袖を、少しだけこちらに引く。十八時十二分に戻ってきた彼女は、照れたように微笑んだ。
二十歳になってから約四年が過ぎた。目の前の出来事をなんとか片す毎日が繋がって、いつの間にか大人になっていた。大学を辞めてから三年のフリーター期間のち、塾講師という職にありついた。
面白味のない機械的な翻訳と英作文を繰り返して、生徒からのくだらない質問をいなしながら今日も仕事は終わった。
「ねぇ、塾の先生やってんの?」
仕事終わり、愛車の停まっている駐車場に向かっているときのことだ。走る車も少なくなってきた夜、信号機の淡い光源に照らされて歩道に立っていた彼女はそう言った。美しい声だった。
返す言葉を持ち合わせずに戸惑っていると、彼女はおもむろに塾の方を指さした。
「あそこから出てきた」
「はぁ、何か用ですか?」
一方的な彼女の言動に辟易して、思わず返事をしてしまった。無視してしまうのが正解だと思っているのに、気付けば言葉が出ていた。
受け入れられたと思ったのだろうか、彼女はちゃちなサンダルをパタパタと鳴らしながらこちらに歩いてきた。
「いや、別に用はないんだけど。暇だったから話しかけた」
吹く風が温くて嫌気がした。
「話すことはないんで。それじゃ」
ボタン式のキーで解錠をすると、慌てたように足音が早くなった。
「待って待って。あたし未成年じゃないよ? ほら」
言いながら、財布から取り出したのは身分証明書だった。単に億劫で恐ろしいだけなのだけれど、彼女は大人のようだ。まだ成り立てではあったけれど。
「大人なら節度は守ってください」
きっぱりと言い放つと、彼女は言いかけていた言葉を飲み込んで首肯した。その姿に何故か揺さぶられた。
「知らない人にだる絡みするのには、理由があるんですよね?」
「話してもいいの?」
「……十分くらいなら」
彼女はすらすらと話し始めた。大学受験に失敗したこと、浪人のプレッシャーから逃げるようにギャンブルにハマったこと、家に居づらくなってしまったこと。全部自業自得なんだけどね。と痛みのある笑顔を浮かべながら付け足して、彼女は話を終えた。
「それで、道行く人に話しかけてると」
「話しかけるのは今日が初めてだよ」
「それはラッキーな話だ」
とんでもなくというより、とんでもな幸運だった。
「偶然じゃないよ。近くを通る度に見てたから」
「どうして?」
もしこの瞬間に戻れるなら、どうしてなどと軽はずみには聞かなかった。文字通りそれは過去のことであって、ifによって導かれる過程もまた、起こり得ないことではあるけれど。
「あたしももっと勉強してたら、違ったのかなって」
さらりと言葉が流れたのが、逆に沈黙を際立たせた。
教室の光に後押しされるように帰路へ着く子供たちを、彼女はどんな気持ちで眺めていたのだろうか。
「もう十分経ったね」
ありがとと歯切れよくお礼を言って、彼女は踵を返した。その細い背中に何を言おうか迷っている自分に驚きながら、独り歩きする玩具の兵隊みたいに、言葉は前に進んでいた。
「フリーター経験があるから分かるけど、肩書きがないっていうのは想像してるより辛い。だから、やることないなら取り敢えず働いてた方がいいぞ。働きながら、余裕を作って、それで、次を考えればいい」
そんな計画性なんて持ち合わせていない人間のくせに、それっぽいだけの助言を贈った。
「分かった。働いてみる」
あっさりとそう言って、彼女は今度こそ何処かへと去っていった。たなびく不安のほつれだけを一本残して、車へと乗る。多分この記憶もまた、積み重なって繋がっていく日々の中で過去形へなっていくのだろうと思いながら、アクセルを踏んだ。
青空に白い雲が映え、吹き抜ける風がソメイヨシノの花弁を踊らせる。四月の陽気は優しく心臓に溜まっていって、草木の匂いと共に満ちていく。
「なんか、走り出したくなる。裸足で」
そう言って、従姉妹の香織はブルーシートに寝転がった。同じように寝転ぶと、空の高さに目眩がした。
親戚が集まり花見をするのは、我が家の恒例行事になっていた。春休みの期間を利用して、集まれるだけの親戚が一同に会するのだ。
「気持ちは分かるかも」
大人たちは既に出来上がっていて、小学生共は鬼ごっこをやりに行ってしまった。そのどちらにも属さない香織と自分は、こうして寝転がり暇を潰しているというわけだ。
「春って、私一番好きかも」
「冬よりはいいかもね」
春と夏は一考の価値があるだろう。
「ソメイヨシノって、なんで一斉に咲くか知ってる?」
唐突ではあったけれど、状況には合っているクイズだった。答えはもちろん知らない。
「合図でも出してんの?」
「ううん。正解はね、皆んな同じ遺伝子で出来てるからだって」
「つまり?」
「つまりね、ソメイヨシノは皆んな元のソメイヨシノのクローンなの。だから、同じ環境だと同じように咲くんだって」
寝転がって伸ばした右手に、香織の長い髪が触れる。繊維質な手触りが、指先にやけに残った。
「遺伝子が同じ、ね」
そうやって見ると、舞っている花弁がやたら均一なものに見えてくる。彼らは同じ色で、同じような大きさをしている。
「私たちの遺伝子も、他人よりは少しだけ同じなんだよね」
その私たちに、きっと走り回る小学生共は含まれていない。彼女は今、私たちという言葉を使って二人を世界から切り分けたのだろう。
「……血の繋がりとしては薄いと思うけどね」
「いっそのこと、皆んな同じだったら良かったのにね」
同じだったらいいのになと思ったことはなかったので、何も言うことが出来なかった。代わりに風が強く吹いた。
沈黙を否定するように、香織は勢いをつけて起き上がった。ブルーシートは情けない声を上げ、彼女がこちらに手を差し伸べた。
「自分で立てるよ」
言ってから、おもむろに立ち上がる。香織は少し逡巡してから、差し伸べた手を後ろで組んだ。
「戻ろう。あっちもそろそろ片付け始まるでしょ」
「うん。そうだね。」
靴をきちんと履いてから、ブルーシートを丁寧に畳んでいく。遠目に居た両親や叔父さんが手を振っているのが見える。来年、ここに自分は居ないだろうと、何故かそう思った。
シャワーを浴びていると時々、いつか自分という存在に死がもたらされて消えてしまうことが、酷く恐ろしくなってしまうことがある。
『あのねぇ、だからって電話する? もう一時過ぎてるんだけど?』
「すみません」
眠れなくて車を走らせて、思いつくままにサヤさんに電話をかけた。それがどれ程非常識なことだったかは、コール音を聞いている途中に気がついた。
『それで? 私はどうすればいいわけ?』
「話し相手になってくれれば、それで大丈夫なので」
後続車なんていないのに、ウィンカーを出して左折する。
『ん? 今車乗ってんの?』
スピーカーにして通話をしていたので、ウィンカーの音を拾ったようだ。
「目的地はないですけどね」
『じゃあ、いつものコンビニ来てよ。私も乗せろ』
「分かりました。向かいます」
サヤさんは免許を持っていないので、たまに大学から家まで送ったりしている。いつものコンビニというのは、彼女を降ろしているコンビニのことだった。
二十分程走らせて件のコンビニに到着すると、サヤさんは既に喫煙スペースのところで待っていた。ダメージジーンズに黒地のTシャツで、うっすらとメイクもしているようだ。左手には、煙草が挟まっているのが見えた。
サヤさんはこちらに気づくと、まだ長い煙草を円筒型の灰皿へと押し付けて消した。
「早かったな」
助手席でシートベルトを締めながら、サヤさんはそう言った。
「いえ、待たせてすみません」
車は一台しかなかったので、駐車場を大きく使ってコンビニから発つ。
「悩みでもあんの?」
しばらく無言で車を走らせた後だった。特にこちらを見るでもなく、サヤさんはフロントガラスをぼんやりと見つめている。
「悩みというか、ほんと偶に、死ぬの怖いなーって、なんとなく思ったりするだけです」
「死ぬのが怖いのは、生きるのが楽しい証拠だろ」
「ポジティブですね」
こころなしか、アクセルを踏む力が強まる。
「煙草吸えば? 結構いいよ。お前が吸えば私も車で吸えるようになるし」
サヤさんはジーンズのポケットからくしゃくしゃの箱を取り出した。中から、慣れた手つきで煙草を出現させる。
「吸いませんよ。サヤさんも、煙草やめたらいいのに」
健康に悪いし、時代も逆風だ。
「煙草以上にいいストレス発散って、意外とないんだよな」
「運動とか?」
サヤさんは海外のスタンドアップコメディよろしく、肩を竦ませた。
「煙草って、結構味がいろいろあるんだよ。私が吸ってるのはマイルドで甘い」
「へー」
「興味ある? 吸う?」
「吸いません」
見慣れた道路を直進しようとしたところで、助手席から路駐しろと指示が飛んだ。理由を問うても返事がなかったので、とりあえず縁石に沿って車体を近づけていき、ハザードランプを焚いた。
一体何が目的なのかと隣を見ようとして、ガチャりとシートベルトが外れる音が聞こえた。それを認識した時にはサヤさんとキスをしていた。デパートの化粧品売り場に足を踏み入れた時みたいな、クラクラした感じが頭に広がる。
「甘いだろ?」
「この場合、受動喫煙になるんですかね?」
「この場合はキスになるんだよ。バカ」
現実逃避だよ。と、サヤさんは投げやりに言った。なんとなくもう一度キスをして、何かから逃げていくために、車をまた走らせた。
昼休みのことだった。購買で買ったリーズナブルな弁当を食べ終えて市立図書館から借りた文庫本を読み進めていると、本の真ん中辺りに、栞程度の大きさに切り取られたルーズリーフが挟まっているのを発見した。手に取ってみると、見えなかった裏側に文字が書かれている。
"Love you."
ルーズリーフの螺線をベースラインに見立てて、その一文だけが短く、しかし丁寧に書かれていた。
前の借り主が挟んだまま忘れてしまったのだろうか、ルーズリーフは比較的新しいもので、まだ白さを保っていた。何となく光にかざしてみたけれど、秘密の暗号が浮き出したりは、当然ながらしなかった。
「何見てるの?」
ルーズリーフを落としそうになるのをなんとか堪えて、声の方へ振り向く。
そこには、クラスメイトの鈴原が立っていた。
「何見てるの?」
重ねて訊ねる鈴原に「別に、なんでもない」と答えてから、ルーズリーフを元の頁へと挟み直す。
「何か用か?」
「なんか、ルーズリーフを熱心に眺めてるなーと思って」
「借りた本に挟まってたんだよ」
鈴原は気のない相槌を打って「何か書いてあったの?」と続けた。
机に置かれた文庫本に一瞬、視線を落とす。
「書かれてはいた。でも内容は言えない」
「なんで?」
「もしかしたら、前の借り主の忘れ物かもしれないし、一応な」
見てしまった後では説得力はないけれど、あんまりぺらぺらと話すものでもないだろう。
「そっか」
「悪いな」
なんで君が謝るの。と鈴原はくすぐったい感じで微笑んだ。
「でもそれ、前の人のやつかは分からないんじゃない?」
文庫本を指さしながら、鈴原はそう言った。
「というと?」
「例えばさ、君の机にある文庫本に、誰かが挟んだ可能性もあるんじゃない?」
なるほど。今朝、高校に持ってきてから文庫本を常に持ち歩いていたわけではないし、可能性としては一理ある。
「でも、それはない気がする」
「どうして?」
「わざわざ文庫本を選ぶ理由がない。万が一そのまま読まずに返してしまったら、台無しだからな」
個人的な心情としても、あれが自分宛だと考えるのは、変に自惚れているようであまり感じいいものではない。
「その手紙を入れた人は、君が読書を好む人だと知ってたのかも」
「いや、仮にそうだったとしても、」
言いかけて、違和感に気づく。
「何で、手紙だと分かった?」
鈴原は悪戯のバレた子供のような表情を浮かべた。心当たりがあるようだ。
「何かが書かれているとは言ったけど、それが文章だとは言ってないぞ」
そうやって一つ思い当たってみれば、鈴原は最初から、栞程度の大きさの紙切れをルーズリーフだと言っていた。まぁ、それはよく観察すれば分かることだから、考えすぎかもしれないけれど。
「お前が入れたのか?」
「だとしたらどうする?」
だとしたら、どうするだろう。
「理由を聞くかな」
鈴原は「そっか」と呟いて、頬をかいた。
「放課後さ、その本返しに行こうよ」
「まだ読んでないんだけど」
「理由、聞きたくないの?」
文庫本を手に取って、おそらくは鈴原が挟んだであろうルーズリーフを確認する。頁は残り半分程度残っている。
「放課後までに、読んでおくよ」
「うん、じゃあ放課後ね」
頁を捲る手を少しだけ早めながら、文庫本を読む。主語も宛名もない手紙が、風になびいて小気味良い音を立てた。