雷が夏の季語であることを知ったのは、高校の図書室だった。
その日は下校時刻からひどく雨に降られて、傘を持たずに登校した僕は親の仕事が終わるまで暇を潰す必要があった。
教室を選んでもよかったのだけれど、なんとなく図書室に行った。理由はあったのかもしれない。
そこで手に取ったのが歳時記だった。なんてことはない、テレビで知名度の上がった俳人の誕生日にかこつけて、俳句の特集コーナーがあったのだ。
「あの、」
目につくものや思いついた単語を歳時記に探して遊んでいると、隣に女生徒が立っていた。上背が高くて、整った姿勢が性格を連想させた。
遠慮がちにかけられたその声は少し上擦っていて、顔に視線を送ると発条仕掛けのように逸れていった。
「歳時記、少しの間でいいので貸していただけますか」
手元に目をやると、ノートを一冊持っていた。現代文のノートにしては小さめのサイズ感だ。もしかして、俳句を作るのだろうか。
文芸部かもしれないと辺りを見渡すと、こちらを探るような雰囲気のある女生徒のグループが見えた。背の高い彼女が、代表で声をかけたのだろう。
「すみません」
どうぞと言うのも気が引けるので、なぜかそう言って渡した。こちらこそ、すみませんと彼女は頭を下げた。
「調べたらすぐ返します」
別にいいよと言ってもよかったけれど、大人しく待つ選択をした。
窓を打つ雨音が大きくなった。
返却は本当にすぐだった。多分、調べたいものは決まっていたのだろう。スマートフォンで調べることは出来ないのだろうかと少し考えたけれど、栓のない考えをしても仕方ないのですぐに止めた。
「ありがとうございます」
こちらを向いた歳時記を、名刺でも渡すように彼女は差し出した。
「いいよ、図書室のものだし。それに、こっちは暇つぶしで捲ってただけだから、むしろいいの?」
「はい。調べたいものは調べたので」
「そっか」
じゃあと言って本を受け取ろうとしたとき、雷が鳴った。遠くの方だった。
図書室のほとんどの視線が窓に向き、また何事も無かったようにそれぞれの会話に戻っていく。
「雷って、いつの季語?」
視線は窓に向けたまま、自分でも驚くほどそれは自然に出てきた。用意された台詞ではない、空白の中に生まれた言葉。
はっとして彼女の方を見やると、彼女は歳時記を慣れた手つきで捲り、こちらに向けた。
その頁には、雷やそれを含む言葉は一般的に夏の季語であると書かれていた。
ある種の、続きを予感させる特有の沈黙が生まれた。
「あの、俳句、作ってみませんか」
切り出したのは彼女だった。それは僕らではない何者かが決めたことだった。
「それは勧誘?」
「そうかもしれないですね」
スマートフォンで時間を確認する。親が来るまではあと一時間ほどありそうだった。
「暇つぶしっていう動機でよければ」
切れ長の瞳を深く瞬きさせて彼女は微笑み、文芸部の方に軽く視線を送って僕の隣に座った。
僕は俳句を作った。生まれて初めて、俳句を作った。お世辞にもよいものとは言えないそれを、彼女は真剣に見つめていた。
十七音が短いことを僕に教えたのは、あのとき鳴った遠雷だった。
『見て』
部屋の勉強机に座って動画を眺めている時だった。画面にメッセージがポップアップされて半ば反射的にタッチすると、それと同時にもう一度通知音が鳴った。
二度目の通知音は写真だったようで、夕焼けの美しい橙色が雲を染めている写真が届いていた。見たところ、高校の帰り道に撮られたものらしかった。
『綺麗だね』
端的に感想を送ると、
『そうだけど そうじゃない』
とすぐに返事が来た。そうじゃないらしい。畳みかけてこないのは回答を催促されているのだろう。
『雲の形がいい感じだね』
いまいち意図するところが分からなかったので、それとなく探りを入れてみる。
既読がついてから少しして、眉間に皺を寄せて口を結んだ顔文字が返ってきた。
『雲の形は合ってる 何に見える?』
言われてみてみるけれど、インスピレーションに訴えかける何かはなかった。強いていえばゴジラとかに見えなくもない。
『降参です』
メッセージを送ると、電話がかかってきた。ついていた肘をなおしてから、スマホを持って耳にあてる。
『いちいち文字打つの面倒だから電話かけた』
まだ下校途中なのだろうか、息が乱れているような感じがした。
『まず、まんなか下くらいのの膨らんでる……』
彼女の説明は要領を得ないものだった。何故なら僕はそれを知らなかった。
『チーバくん知らないの!?』
どうやら、千葉県の形をモチーフにしたご当地キャラクターのようだった。スピーカーにしてから検索をかけると、写真の雲とたしかによく似ている形の、赤いお茶目な犬が出てきた。
『知らないのなら仕方ないなぁ』
『ごめんね』
なんとなくの癖で謝罪の意を口にしておく。儀式的な言葉であるので、彼女も気にせずに受け取るようになった。
それから十分ほどは、彼女がいかにチーバくんやその他ご当地キャラクターが好きかの話をした。僕でも知っている名前もあれば、当然知らない名前もあった。
『チーバくんいなくなっちゃった』
『千葉に帰ったんじゃない?』
『面白くない』
面白くない。
『近くに来てくれただけ良かったんじゃない?』
チーバくんだって忙しいだろうに。
少しの沈黙があった。
『空は遠いよ。』
何を伝えたいのかは分からなかった。
一つ、大きな息を吐く音が耳に残る。
『ねぇ、ご飯食べいかない? それか本屋でもいいよ』
『すぐに準備する』
わかったと、彼女は言った。待ち合わせ場所と大まかな時間を話して、通話を切った。
服装を整えながら、会ったら何を話そうか考える。
「よし」
洗面台の鏡で軽く髪を確認してから、靴紐を丁寧に結ぶ。
開けた玄関から目に飛び込む空は、いつもより高く感じた。
深夜の道を工事用ライトが煌々と照らしている。本来三車線あるはずのところが一車線に区切られて、並んだコーンの内側で誘導灯を振る人が見える。段差による衝撃を緩和するために、アクセルを踏む足首を柔らかく固定してそこを通り過ぎた。
「ここ、いつまでやってるんだろ」
助手席に座っているシオリがそう呟いた。投げかけた疑問というよりは、隙間を埋めるための独白のようだった。
「年末までには終わるんじゃない?」
「だといいね」
工期の話などどうでもいいというのは、おそらく互いに分かっていた。話せそうなことがあったから食いついただけだ。車内で沈黙が訪れたときの癖で、彼女はシートを軽く軋ませた。
「工事の話じゃないんだけど」
「なに?」
右折ラインに入ってウインカーを灯す。規則的な音が空気を幾分か柔らかくした。
「町って、想像してるよりずっと変わってるよね」
ここもそうなんだけどさ。そう前置きをしてシオリは続ける。
「私たちはずっと住んでいるはずなんだけど、十年前とか写真みると全然違うんだろうなって」
右折をしながら、頭の片隅にその言葉を捉える。十年前の故郷の姿は、たしかに思い浮かばなかった。
「びっくりマーケットってあったよね。たしか」
何故か印象に残っているのは安直だったせいだろうか。近所にあった、つまりはもう潰れてなくなったスーパーマーケットの名前を、ふと思い出した。
返事はなかった。視界の端でその姿を見てみると、なにごとかを考えているようだった。
「そんなのあったっけ?」
どうやら記憶の底からびっくりマーケットの存在を思い起こしていたようだ。残念ながら彼女は覚えていないらしい。
「どこにあった?」
「近所の、今はマックになってるところ」
調べてみてと促すと、彼女はスマホを起動させた。
「あー、見たことあるかも」
画面の中に抽出された画像を見てから、彼女は頷いた。
そこからは町にあった懐かしい建物や、新しく整備される道路の話だったりをした。少しだけ寂しさを感じたのは、公園から遊具が撤去された話をしたときだった。
「今見てるものも、変わってくんだろうね」
彼女は窓の外に視線を向けていた。その瞳に映るどれだけのものが、十年後も変わらずにあるのだろうか。
「十年後は、他の車に乗ってるのかな」
「さぁ、出来れるだけ長く乗りたいではあるけど」
摩擦音が聞こえる。彼女がシートを撫でている音だった。しばらく撫でたあと、その手はシフトレバーに置かれた自分の手へと重ねられた。
さみしいね。彼女はそう締めくくった。
工事用ライトの光も町の建物も、この時間だっていつかは語られる側になるのだ。
二人分の寂しさをのせて車は走る、誰かの思い出を塗り固めた道路の上を。
「あ、そう」
気のない返事だった。薄暗い部屋の中、『ユウヤミ』の瞳に他人は映らない。その視線は常にゲーム画面のキャラクターに注がれている。手元はレバーやボタンを操作するので忙しいらしく、常人には理解できない速度でシステムに入力が行われていく。
「なんか言うことないの?」
「向こうでも元気でね?」
微かな沈黙の後に彼女はそう言った。
冬になったら転校する。親からそう告げられたのは一昨日のことだった。それはいつものことで、つまりは父の転勤に合わせて家族ごと引っ越すのだ。次は秋田県に移るらしい。
オンライン対戦は終了して、キャラの決めポーズと一緒にwinの文字が現れる。
「……じゃあ、それだけだから」
伝えたいことは言った。
「今日はやってかないの?」
画面から視線は逸らさず、彼女は指だけでコントローラーを示した。
「じゃあ、ちょっとだけ」
彼女の隣に座って、コントローラーを握る。彼女に勝ったことは、一度もない。
ゲームはいつも一方的だった。キャラを変えても練習をしても、『ユウヤミ』には敵わない。結局、熱量が違うのだろう。
「いつも思ってたんだけど」
「なに?」
「いや、どうして対戦してくれるんだろうなと思って」
「それは」的確にコンボを決めながら彼女は続ける。「実力差があるから?」
防戦だけ、今この時間を伸ばすだけのためにコマンドを入力していく。
「まぁ、そうだね」
「君は好きじゃないの? 格ゲー」
彼女は正確にアドバンテージを積み上げ、こちらは逃げ惑うだけの時間が続く。
「普通くらいだよ、多分だけど」
「あ、そう」
それからはただゲームをした。もちろん、負けた。
「じゃあ、帰るから」
コントローラーを置く。立ち上がりかけたところで、「待って」と声をかけられた。初めてのパターンだった。
「あたしは、結構楽しかったよ。弱かったけどね」
「そっか」
視線は相変わらず、画面のキャラクターに向けられている。
「うん。それと、君のこと好きだよ。弱いけど」
時が止まったかと思った。レバーとボタンの入力音が、やけに大きく聞こえた。
「こういうとき、どうすればいいか分かんないな」
対応するためのコマンドは、自分の中にはなかった。
「キス、する? 向こういったら、出来ないし」
彼女がこちらを見つめた。何回だって見てきたはずの顔に、初めての印象を受ける。思えば二人のやりとりは、ずっと画面越しだった。緩慢な動作で、互いに縋り付くように不格好なキスをした。画面の中でキャラが身体を揺らしていた。
「じゃあ、またね」
「うん、またね」
引っ張られて少し乱れた服を整えて、彼女の部屋を後にした。
バイトを始めよう。向こうでもゲームが出来るよう、コントローラーを買うために。ふとそう思った。
冬になったら、転校する。
フリをしてると終わってしまうものって、なーんだ。
それは英語の授業中だった。関係代名詞を選別する単調な問題をこなしていると、隣から一枚の付箋紙が視界に侵入してきた。ちらと視線を送ると、逢坂さんは真剣に問題に取り組むポーズを取っていた。あまりこういうことをするタイプだとは思っていなかったので、少し驚いた。
付箋紙を教師の目から届かないところに貼り直して、問題を考えてみる。
フリをするでまず連想したのは、出題者の彼女だった。今まさに問題を解くフリをしている。それで何かが終わるわけではないだろうから、関係はないだろうけれど。次に出てきたのは、ラブコメによくある恋人のフリをする展開だった。これについては、ここから恋がむしろ始まるのだし、そもそも関連性は低いだろう。
気がつくと関係代名詞のプリントは半分くらい終了している。
あまり良いひらめきを得られずにいると、見かねたのか隣から追加の付箋紙が来た。答えは出た? と可愛らしいうさぎ付きで書かれている。余白部分に、もう少し待って。とシャーペンで書いてから隣へ返す。自分の字と比べると、逢坂さんのそれは丸くて柔らかい印象を受けた。
プリントと同時進行ではどっちつかずでむず痒かったので、先にプリントを終わらせることにした。先行詞が人以外のときはほとんどの場合whichを使用するので有難い。問題は先行詞が人の場合だ。whoかthatを使うわけだけれど、どちらを使えばいいのかいまいちはっきりしない。
そこまで考えたところで、先行詞を見てひらめいた。一度意識を切るとやってくるのが、ひらめきの何ともツンデレなところだ。
プリントの下に隠していた付箋紙の余白に、友達。と書き足してから隣へとそれとなく渡した。キャップ付きのペン特有の間抜けな音が隣から鳴って、耳に引っかかる摩擦音が続けてした。返却(あるいは贈与)された付箋紙には、goodとエクスクラメーション三つが書かれていて、大きな丸がつけられていた。
一仕事終わった気分で一つ息をつくと、机の方にまた付箋紙が貼られた。
次はそっちの番ね。楽しみにしてる。
新たに追加された付箋紙には、丸くて柔らかい字でそう書かれていた。実はもう考えついていた。ひらめきはツンデレなのだ。
息を吹くと膨らむ英単語って、なーんだ。
問題を書いてから、彼女の机に貼り直す。思っていたより早かったのだろう、この授業中で初めて目が合った。考えてみれば彼女が何者なのかよく知らないんだなと、その瞳を見たとき、ふと思った。