なのか

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8/17/2024, 3:00:52 AM

「ホコリって聞くとどんなイメージ?」
ベランダ側に面した窓を掃除している時のことだった。後ろから聞こえる、クラスメイトの談笑と掃除の音が混ざりあった教室の中で、その声はやけに透明に聞こえた気がした。
昼休みに声の体積が大きいグループの一人で、つまり自分とは接点のないタイプの人間だった。ただ、いつも聞こえてくる声より柔らかい感覚があった。
「あんたに話しかけてるんだけど?」
近くに人はいなかった。ちらと柏木の方を見やると、洗剤で不思議な模様を描いている窓ガラスを、折り目正しく折られた新聞紙で丁寧に拭いていた。片手がジャージのポケットに押し込まれているのが、知りもしないのにらしいなと思った。
「この状況なら、埃しか思い浮かばないかな」
「どっちの?」
相手には音しか聞こえていないのだった。
「叩けば出てくる方の」
「……ま、そうだよね」
窓を拭く音が大きくなった気がした。
使っている新聞紙が役目を十分に果たしたので(本意ではないかもしれないけれど)、近くのゴミ袋に押し込んでから新しい新聞紙を拝借する。一度広げてくしゃくしゃにしてから、作業へと戻る。
「さっきから、なんでぐしゃってしてんの?」
「こっちの方が掃除としてはいいらしいよ」
「……先に言ってよ」
新聞紙の破れる音と、くしゃくしゃにする音が隣から聞こえる。
「何か言うことあるの?」
上の窓を拭き終わって、下の掃除にとりかかる。洗剤を視線で探していると、柏木がポケットから出した左手で「そっち」と指さした。
「ありがと、助かる」
灯台下暗し、しゃがみこんで足元の洗剤を拾い、そのままの体勢で窓に吹きかける。
「……話、あるっちゃある」
「あるんだ。怖いな」
衣擦れの音、遅れてやってくる気配と柔らかな香り。反射的に視線を向けると切れ長の瞳とぶつかる。
どうしていいか分からなかったので、周期的な監視カメラのように首を振って窓を見る。何が可笑しいのだろう、隣から吐息のような笑みが聞こえた。
「あんたさ、奥井たちにノート貸してたでしょ?」
洗剤を渡すと、柏木はお礼を言ってから受け取り、窓に吹きかけた。
「ノート、貸してたね」
テストの前、提出物の前になると奥井たちが借りに来るのだ。彼女の所属するグループの人間だったはずだけれど、案外冷たい呼び方をする。
「あれ、私も見させてもらってたから、お礼を言っときたくて、」
言葉は途切れたけれど、空気はまだ繋がっていた。不思議なもので、この数分でなんとなく分かるようになっていた。
「だから、ありがと」
「どういたしまして」
言葉にしてしまえばどうということはない話だった。大したことをしている訳ではないので、これくらいが丁度いいのだろう。
『真夏ー! そっちもう終わったー?』
がやがやとした教室の中心から、彼女を呼ぶ声が聞こえる。
「もう少しだけかかるかもー!」
『終わったらこっち来てー!』
返事の代わりに彼女はひらひらと手を振った。
「残りやっとくから、行ってきてもいいよ」
「いい。もう少しこっちやる」
窓拭きが好きなわけでは、どうやらなさそうだ。
「連絡先、交換しない?」
「いいよ」
「いいんだ」
スマホが手元にないので、電話番号を教えた。小さく復唱する姿が、しゃべるぬいぐるみの玩具のようだった。
「じゃ、後でかけるね」
そう言って、彼女は所属するグループの方へ戻っていった。立って背伸びをして、掃除し終わった窓を見やる。綺麗になった窓に対してやけに満足感のある自分がいることに、胸をすくような驚きを覚えた。

6/18/2024, 7:01:08 PM

幼い頃によく遊んでいた公園があって、そこの滑り台は赤い筒状のやつだった。そこまで長さはなかったけれど、乱反射する光が赤くて歪んだ世界を作り出して、滑り終えた後は冒険から戻ってきたかのような感覚になったのを、今でも覚えている。
「公園って、教会の隣にあるやつ?」
北川さんは向かい合って座る席にトレイを置いて、一つ背伸びをした。
「そうだよ」
ここら辺で公園といえば、大抵の場合はそこを指す。地元の人間ならば、一度は遊びに連れて行ってもらったことがあるような公園だ。
「へぇ、そこで出会ったんだ」
「出会ったとか、そういうのじゃない。一時期遊んでただけ」
「でも、未だに覚えてる」
何が可笑しいのだろう、北川さんはにやりと笑ってから席に座り、流れ作業でトレイの上にポテトを散りばめた。人とシェアする時の常套手段らしいけれど、未だに慣れない。
「一時期とはいえ、結構遊んでたからね」
冷えて結露しているコーラを一口飲む。せっかくのコーラは、紙ストローのおかげで魅力が半減していた。
「名前は?」
「アリス」
「……すごい名前だね」
北川さんはちょっと珍しいくらいの表情をした。一昔前ならその反応も頷けるけれど、今どきだとそこまで不思議な名前でもないだろう。それに、
「あだ名だけどね」
別に彼女が金髪だったとか、英語を話したとかフリルを着ていたとかじゃない。
「滑り台を滑った後に、『アリスみたい』って言ったんだよ」
幼い自分はその意図するところがすぐには分からなかった。その意味を知ったのは、話を聞いた母がレンタルしてくれた『不思議の国のアリス』を観た時だった。
「『不思議の国のアリス』観たことある?」
「あるけど」
「初めのところ、なんとなくでいいから覚えてる?」
北川さんは視線を宙に彷徨わせた。塩でざらついた指を紙ナプキンで拭きながら、返答を待つ。
「喋る兎を追いかけて、穴に落ちちゃうんだよね?」
「そう。彼女は滑り台をそのシーンに例えたんだと思う」
「アリスちゃん、ね」
黙ってそっぽを向く。北川さんは気にせずにポテトに手を伸ばした。
「まぁ、彼女は休みの日にしかいなかったし、すぐに遊ばなくなったんだけどね」
「そっか」
「そっか、って……」
話をしろとせがまれたから話をしたのに、薄い反応だった。
「とにかく、これで初恋の話は終わり。次は北川さんの番ね」
「……、しなくちゃダメ?」
「別に義務はないよ。少しがっかりするくらいかな」
北川さんは薄く間延びしたため息を吐いた。光のよく射し込むよう計算された窓から、彼女に陽光が当たる。
「私のお母さんね、ヴァイオリンが弾けるんだけど」
「がっかりした」
「これから、びっくりするよ」
不敵に笑って、北川さんはポテトでこちらを指した。行儀はよろしくないけれど、絵になる仕草だった。
「賛美歌のいくつかは、ヴァイオリンで演奏するんだよ」
彼女はそれだけ言って、いたずらっぽく笑った。
どうやら、喋る兎の代わりにアリス自身が案内してくれるらしい。この不思議な感情が夢でないことを、今はただ願った。

6/14/2024, 6:06:26 PM

いつから夕方なのか。そんな疑問が瞬く間に膨らんでいって、帰り道はあっという間に影を伸ばした。
「だからぁ、オレンジっぽくなったら夕方なの。四時とか五時とか、時間じゃなくて」
女子の間で流行しているリュックサックを肩にかけ直しながら、ユズはそう言った。呆れた口調は、明らかに無理解な自分に対するものだった。
「大体、夏と冬でも時間によって違うんだから、時間で決めたら違くなるに決まってるじゃん」
「でもさ、天気予報では十五時から十八時の間らしいよ」
「そんなの、気象予報士が勝手に言ってるだけじゃん」
彼女だって勝手に言ってるだけなのだけれど、今つつくと破裂しそうなので黙っておく。
「じゃあ、オレンジっぽくなったら夕方なんだとして、雨の日はどうなるの?」
彼女の言い分を全面的に認めてしまえば、雨や曇りの日は夕方が存在しないことになってしまう。
言わんとしていることに気付いたのか、ユズは押し黙ってしまい、気まずさを埋めるために小石を蹴り始めてしまった。別に突き詰めて考えたい訳でもないので、なんとなく分担しながら小石を蹴って運ぶ遊びに興じる。
「やっぱり、時間なのかな」
蹴る足は止めずに、彼女はそう呟いた。
「自分で言っといてなんだけど、夕方って聞くとイメージするのはオレンジの方だよね」
薄くたなびく雲を伝って広がっているオレンジ色の空と、コンパスで作図したかのような輪郭の太陽。
「うん、そのイメージある」
「だね」
小石はユズのミスショットで道路へと飛び出てしまい、小石を追っかけて足元を見ていた視線は自然と上へ向いた。
「ねぇ、今何時?」
空を見上げたまま、ユズはこちらを見ようともしなかった。
「十八時十一分」
ユズはそれ以上何も言わなかったし、こっちも敢えては聞かなかった。彼女はその時、はっきりと夕方を見ていた。
「綺麗だね」
「うん、綺麗」
頷くことすら忘れてしまった彼女の袖を、少しだけこちらに引く。十八時十二分に戻ってきた彼女は、照れたように微笑んだ。

4/28/2024, 4:35:44 PM

二十歳になってから約四年が過ぎた。目の前の出来事をなんとか片す毎日が繋がって、いつの間にか大人になっていた。大学を辞めてから三年のフリーター期間のち、塾講師という職にありついた。
面白味のない機械的な翻訳と英作文を繰り返して、生徒からのくだらない質問をいなしながら今日も仕事は終わった。
「ねぇ、塾の先生やってんの?」
仕事終わり、愛車の停まっている駐車場に向かっているときのことだ。走る車も少なくなってきた夜、信号機の淡い光源に照らされて歩道に立っていた彼女はそう言った。美しい声だった。
返す言葉を持ち合わせずに戸惑っていると、彼女はおもむろに塾の方を指さした。
「あそこから出てきた」
「はぁ、何か用ですか?」
一方的な彼女の言動に辟易して、思わず返事をしてしまった。無視してしまうのが正解だと思っているのに、気付けば言葉が出ていた。
受け入れられたと思ったのだろうか、彼女はちゃちなサンダルをパタパタと鳴らしながらこちらに歩いてきた。
「いや、別に用はないんだけど。暇だったから話しかけた」
吹く風が温くて嫌気がした。
「話すことはないんで。それじゃ」
ボタン式のキーで解錠をすると、慌てたように足音が早くなった。
「待って待って。あたし未成年じゃないよ? ほら」
言いながら、財布から取り出したのは身分証明書だった。単に億劫で恐ろしいだけなのだけれど、彼女は大人のようだ。まだ成り立てではあったけれど。
「大人なら節度は守ってください」
きっぱりと言い放つと、彼女は言いかけていた言葉を飲み込んで首肯した。その姿に何故か揺さぶられた。
「知らない人にだる絡みするのには、理由があるんですよね?」
「話してもいいの?」
「……十分くらいなら」
彼女はすらすらと話し始めた。大学受験に失敗したこと、浪人のプレッシャーから逃げるようにギャンブルにハマったこと、家に居づらくなってしまったこと。全部自業自得なんだけどね。と痛みのある笑顔を浮かべながら付け足して、彼女は話を終えた。
「それで、道行く人に話しかけてると」
「話しかけるのは今日が初めてだよ」
「それはラッキーな話だ」
とんでもなくというより、とんでもな幸運だった。
「偶然じゃないよ。近くを通る度に見てたから」
「どうして?」
もしこの瞬間に戻れるなら、どうしてなどと軽はずみには聞かなかった。文字通りそれは過去のことであって、ifによって導かれる過程もまた、起こり得ないことではあるけれど。
「あたしももっと勉強してたら、違ったのかなって」
さらりと言葉が流れたのが、逆に沈黙を際立たせた。
教室の光に後押しされるように帰路へ着く子供たちを、彼女はどんな気持ちで眺めていたのだろうか。
「もう十分経ったね」
ありがとと歯切れよくお礼を言って、彼女は踵を返した。その細い背中に何を言おうか迷っている自分に驚きながら、独り歩きする玩具の兵隊みたいに、言葉は前に進んでいた。
「フリーター経験があるから分かるけど、肩書きがないっていうのは想像してるより辛い。だから、やることないなら取り敢えず働いてた方がいいぞ。働きながら、余裕を作って、それで、次を考えればいい」
そんな計画性なんて持ち合わせていない人間のくせに、それっぽいだけの助言を贈った。
「分かった。働いてみる」
あっさりとそう言って、彼女は今度こそ何処かへと去っていった。たなびく不安のほつれだけを一本残して、車へと乗る。多分この記憶もまた、積み重なって繋がっていく日々の中で過去形へなっていくのだろうと思いながら、アクセルを踏んだ。

4/10/2024, 3:57:12 PM

青空に白い雲が映え、吹き抜ける風がソメイヨシノの花弁を踊らせる。四月の陽気は優しく心臓に溜まっていって、草木の匂いと共に満ちていく。
「なんか、走り出したくなる。裸足で」
そう言って、従姉妹の香織はブルーシートに寝転がった。同じように寝転ぶと、空の高さに目眩がした。
親戚が集まり花見をするのは、我が家の恒例行事になっていた。春休みの期間を利用して、集まれるだけの親戚が一同に会するのだ。
「気持ちは分かるかも」
大人たちは既に出来上がっていて、小学生共は鬼ごっこをやりに行ってしまった。そのどちらにも属さない香織と自分は、こうして寝転がり暇を潰しているというわけだ。
「春って、私一番好きかも」
「冬よりはいいかもね」
春と夏は一考の価値があるだろう。
「ソメイヨシノって、なんで一斉に咲くか知ってる?」
唐突ではあったけれど、状況には合っているクイズだった。答えはもちろん知らない。
「合図でも出してんの?」
「ううん。正解はね、皆んな同じ遺伝子で出来てるからだって」
「つまり?」
「つまりね、ソメイヨシノは皆んな元のソメイヨシノのクローンなの。だから、同じ環境だと同じように咲くんだって」
寝転がって伸ばした右手に、香織の長い髪が触れる。繊維質な手触りが、指先にやけに残った。
「遺伝子が同じ、ね」
そうやって見ると、舞っている花弁がやたら均一なものに見えてくる。彼らは同じ色で、同じような大きさをしている。
「私たちの遺伝子も、他人よりは少しだけ同じなんだよね」
その私たちに、きっと走り回る小学生共は含まれていない。彼女は今、私たちという言葉を使って二人を世界から切り分けたのだろう。
「……血の繋がりとしては薄いと思うけどね」
「いっそのこと、皆んな同じだったら良かったのにね」
同じだったらいいのになと思ったことはなかったので、何も言うことが出来なかった。代わりに風が強く吹いた。
沈黙を否定するように、香織は勢いをつけて起き上がった。ブルーシートは情けない声を上げ、彼女がこちらに手を差し伸べた。
「自分で立てるよ」
言ってから、おもむろに立ち上がる。香織は少し逡巡してから、差し伸べた手を後ろで組んだ。
「戻ろう。あっちもそろそろ片付け始まるでしょ」
「うん。そうだね。」
靴をきちんと履いてから、ブルーシートを丁寧に畳んでいく。遠目に居た両親や叔父さんが手を振っているのが見える。来年、ここに自分は居ないだろうと、何故かそう思った。

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