なのか

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幼い頃によく遊んでいた公園があって、そこの滑り台は赤い筒状のやつだった。そこまで長さはなかったけれど、乱反射する光が赤くて歪んだ世界を作り出して、滑り終えた後は冒険から戻ってきたかのような感覚になったのを、今でも覚えている。
「公園って、教会の隣にあるやつ?」
北川さんは向かい合って座る席にトレイを置いて、一つ背伸びをした。
「そうだよ」
ここら辺で公園といえば、大抵の場合はそこを指す。地元の人間ならば、一度は遊びに連れて行ってもらったことがあるような公園だ。
「へぇ、そこで出会ったんだ」
「出会ったとか、そういうのじゃない。一時期遊んでただけ」
「でも、未だに覚えてる」
何が可笑しいのだろう、北川さんはにやりと笑ってから席に座り、流れ作業でトレイの上にポテトを散りばめた。人とシェアする時の常套手段らしいけれど、未だに慣れない。
「一時期とはいえ、結構遊んでたからね」
冷えて結露しているコーラを一口飲む。せっかくのコーラは、紙ストローのおかげで魅力が半減していた。
「名前は?」
「アリス」
「……すごい名前だね」
北川さんはちょっと珍しいくらいの表情をした。一昔前ならその反応も頷けるけれど、今どきだとそこまで不思議な名前でもないだろう。それに、
「あだ名だけどね」
別に彼女が金髪だったとか、英語を話したとかフリルを着ていたとかじゃない。
「滑り台を滑った後に、『アリスみたい』って言ったんだよ」
幼い自分はその意図するところがすぐには分からなかった。その意味を知ったのは、話を聞いた母がレンタルしてくれた『不思議の国のアリス』を観た時だった。
「『不思議の国のアリス』観たことある?」
「あるけど」
「初めのところ、なんとなくでいいから覚えてる?」
北川さんは視線を宙に彷徨わせた。塩でざらついた指を紙ナプキンで拭きながら、返答を待つ。
「喋る兎を追いかけて、穴に落ちちゃうんだよね?」
「そう。彼女は滑り台をそのシーンに例えたんだと思う」
「アリスちゃん、ね」
黙ってそっぽを向く。北川さんは気にせずにポテトに手を伸ばした。
「まぁ、彼女は休みの日にしかいなかったし、すぐに遊ばなくなったんだけどね」
「そっか」
「そっか、って……」
話をしろとせがまれたから話をしたのに、薄い反応だった。
「とにかく、これで初恋の話は終わり。次は北川さんの番ね」
「……、しなくちゃダメ?」
「別に義務はないよ。少しがっかりするくらいかな」
北川さんは薄く間延びしたため息を吐いた。光のよく射し込むよう計算された窓から、彼女に陽光が当たる。
「私のお母さんね、ヴァイオリンが弾けるんだけど」
「がっかりした」
「これから、びっくりするよ」
不敵に笑って、北川さんはポテトでこちらを指した。行儀はよろしくないけれど、絵になる仕草だった。
「賛美歌のいくつかは、ヴァイオリンで演奏するんだよ」
彼女はそれだけ言って、いたずらっぽく笑った。
どうやら、喋る兎の代わりにアリス自身が案内してくれるらしい。この不思議な感情が夢でないことを、今はただ願った。

6/18/2024, 7:01:08 PM